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68  帰るところがあるから旅は楽しいのです かっこちゃんへ


 かっこちゃん、お便りありがとう。
僕は、トルコから帰ってまだ家に帰っていません。
羽田空港から四谷のホテルに滞在し、靖国神社で講演。

 「我國の
   為をつくせる人々の
  名もむさし野にとむる玉かき」

100名を超える同志たちと、正式参拝させていただきました。
玉串を奉納させてもらい、日本の国を護るために命を捧げられた先人たちに感謝を申し上げるのは、日本人として当然の務めだと思うのです。
 御昇殿では正面に掲げられている明治天皇の御製を何度も何度も心の中で詠みあげます。
僕も日本人として、国の役に立って生き終えたいものです。

 かっこちゃん、トルコではあちらこちらに大きな国旗がはためいていたね。
トルコの人たちが、祖国を愛する気持ちを表してくれるたび、僕も誇らしい気持ちになった。
ところでかっこちゃん、トルコでもイスラエルでも国旗をたくさん目にしたけど、
日本で一番、目につく国旗は日本の国旗?
・・・いいえ、日本で一番たくさん掲げられているのはイタリアの国旗です。
二番目がフランスの国旗。
そう、レストランに必ず掲げられているから。
本当は、他国の国旗を掲げるときは、自国の国旗も掲げなければいけないんだけど、
僕たちの日本は少し変だね。

 靖国神社での講演を終えて、沖縄に飛んだ。
「人生謳歌塾」のみなさんに、沖縄の白梅の塔と島守の塔を案内するために。
JO(人生謳歌塾)は、小学校から高校くらいの子育て真っ只中のママさんたちの学びの会です。
主催のアコさんとは、今年2月のイスラエルツアーで知り合いました。
これまでに大阪で2回、講演会を開催してくれたり、来年6月にはJOのメンバーでのイスラエルツアーを決めてくれたり、と、知り合ったばかりと思えない仲良しになりました。
 かっこちゃん、今回のトルコの旅でもそうだったように、
一緒に旅をすると生涯の友だちができるね。

 きっと、同じ景色に心動かして、とても深い場所で触れ合うことができるからなんだろう。
出会いは、長さや回数よりも、深さが大切だなぁと思うよ。

 JOのみなさんは、子どもたちに日本人として誇りをもってもらいたいと願うお母さんたちです。
僕はそんなお母さんたちに言いました。
「僕の話や本を子どもたちに伝えるよりも、まず、お母さんたちが変わってください」と。

知ることは愛の始まりだから。

 沖縄でこんな話をしました。
「白梅学徒隊」は、ひめゆり隊より17日はやい、昭和20年3月6日に55名で結成されました。
そして、第二四師団の野戦病院で看護教育を受けます。
 3月23日、沖縄に米軍の猛爆撃が開始されます。
もはや、地上にある病院は危険です。
第二四師団の野戦病院は、医師や患者とともに、八重瀬岳の病院壕に移動しました。  
病院壕といえば聞こえはいいけれど、実際にはただの「洞穴」です。

床も壁も天井も地面むき出しで、近くに爆弾が落ちれば、轟音とともに天井から土や石が落ちてくる。  
その洞穴に、前線で重傷を負った兵たちが次々に運ばれてきます。
沖縄戦においても、少しでも動ける者は銃をとって戦っていたので、そこに運ばれてくるのはすでに戦闘能力を失った重症患者ばかりでした。  

その頃には職業軍人の多くは命を落としていたので、運ばれてくるのは兵士と言っても招集令状、赤紙で召された、いわば普通の人たちです。
昨日まで田んぼを耕したり、会社で働いていた人たちなのです。 
しかし、それでも彼らが沖縄にやってきたのは、沖縄を守り、日本を護るためでした。

 彼女たち白梅部隊は、その洞穴で負傷兵の看護や手術の手伝い、水くみ、飯炊き、排泄物の処理、傷口に沸いたウジ虫の処置、死体埋葬、伝令などをします。  
まだ16歳の少女が、兵隊の尿を取ったり、膿だらけの包帯を交換したり、傷口にわいたウジ虫を払い落としたり、亡くなった兵隊の死体を運搬したりしたのです。  
手術は、医師たちによって洞穴の中で行われます。
爆風によってつぶされた腕や脚は、最早切り取るしかありませんでした。
麻酔はおろか、薬もありません。
 切り取った手足はバケツに入れられ、それを白梅部隊の女学生が、交代で、敵の爆撃のない早朝に表に捨てに行ったそうです。  
4月下旬になると負傷兵が増加し、洞穴の入り口付近まで負傷兵であふれるようになります。そこで5月上旬には、東風平国民学校の裏手の丘にも分院を開設し、収容しきれない患者をそこへ移すのですが、その分院のある場所にも米軍が迫ります。
 やむなく分院は閉鎖し、もとの八重瀬岳の本院へ患者と白梅隊を集合させます。  
分院を閉鎖するとき、白梅隊のメンバーが、歩けない負傷兵たちに青酸カリなどを与え、彼らを処置しました。  
彼女たちは、沖縄県立第二高等女学校の最上級生(四年生)とはいえ、いまならまだ高校一年生。16歳の乙女たちです。  
痛みに苦しむ患者たちの日常の世話をし、彼らと親しく会話も交わしていたであろうものを、歩けないと知った彼らに青酸カリを渡すのです。  
そのときの心の痛み、辛さ、苦しさ、哀しさはいかばかりだったでしょう。

 6月4日、いよいよ八重瀬岳の本院にも敵の手が迫ります。
病院は、500名以上もの重症患者の「処置」をします。
こうしたむごい作業も、白梅看護隊の仕事でした。  そして、病院は解散し、白梅隊もこの場で解散となります。  
 彼女たちは、軍と行動をともにしたいと願い出ます。しかし、もはや死を覚悟した軍の兵士達は、彼女たちの願いを退けます。
どうしても、彼女たちには生き延びてもらいたかったのです。  

彼女たちは、数人ずつに別れて、南部に向けて撤退します。
しかし、逃げるあてなどありません。  
そして、爆風渦巻く中、8名が途中で死亡し、ようやく16名が国吉(現糸満市)で洞穴を見つけ、そこに身を隠します。

それが、いま「白梅の塔」のある洞窟なのです。  

16歳の武器さえ持たない彼女たちの隠れる壕に、6月21日、米軍が「馬乗り攻撃」を仕掛けてきます。
「馬乗り攻撃」というのは、洞穴の上から穴を開け、その穴からガソリンなどの可燃物を注ぎこんで火を着ける攻撃法です。
この攻撃によって、壕に隠れた彼女たちのうち、6名が死亡。
6月22日、上の壕も同様の攻撃を受け2名が死亡、後日1名が、重度の火傷のため米軍病院で死亡します。  
結局、動員された55名の生徒のうち、17名の少女が命を失いました。

生還した彼女たちは、入隊したときの気持ちを次のように語っています。

 「まったく不安はなかったね。戦争は絶対に勝つもんだと信じきっていたから」

 「私たちが行かなかったら、誰が傷病者を世話するのって真剣に思ってた」

 「ただもうお国のために……という気持ちで一杯だったんです」  

彼女たちに戦局の様子は分かりません。  
ただ爆弾が落ち、次々に運ばれてくる負傷者を必死に介護した。
そして多くの命が失われた。
戦いに敗れ、蹂躙されるとは、こういうことなのです。  

なぜ彼女たちがここまで追い詰められ、この世の地獄とも思える厳しい現実に接しなければならなかったのでしょうか。  

それは戦争だったからです。
 世界に法律はありません。  
国家間の条約があるだけです。  

そして、いったん戦争になれば、条約など誰も守らない。
戦時中でも必死に条約を守り通したのは、世界広しといえども日本軍ぐらいのものなのです。

 静かな白梅の塔、その横に洞窟があります。
ここに16歳の白梅の少女たちがいたのです。
目が慣れてくると、洞窟のまわりの壁が黒く焼け焦げているのがわかります。  
昨日まで人形を抱いたり、裁縫をしたり、文をしたためたりした手で、兵士のちぎれた腕を持ったり、腐った肉からウジを取ったり、破れた腹に腸をねじ込んだり……。  
まだ恋も知らない16歳の白梅の少女たち。

 祈りました。

 「白梅部隊のみなさん、ありがとうございました。
あなたがたの優しさで、死んでゆく兵隊さんたちが、最期に救われました。
私たちもこれからの日本のために生かしていただきます。
どうか、天上よりの支援、お願いいたします。日本の永遠のために」

 かっこちゃん、僕は、毎日がしあわせだよ。
生まれてきてよかった、生きててよかった、と心から思う。
だからこそ、生んでくれた両親に感謝する。
 
 かっこちゃん、旅が楽しいのは帰るところがあるからだよね。
だからこそ、日本を護ってくれた先人たちにありがとうを言うよ。

  沖縄から東京へまた戻り、聖書塾で講義をして、およそ20日ぶりに津に戻った。

 さあ、かっこちゃん
いよいよザ・ダイジョーブスの合宿だ。

 ライブ本番に輝くため、こつこつ練習しよう。
  ログハウスで待ってます。
あの懐かしい、「1/4の奇跡」を撮影したあの場所で。

  合宿のあと、宮崎講演・・・また旅が始まる。
京都でバンドの練習~神奈川講演会~熊本聖書塾・・・月末からパラオ、ペリリュー島へ。

うれしい、たのしい、しあわせだ。
  あ~日本のどこかで、わたしを待ってる人がいる。

    じゃあまたね。
                  高仁

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