120 導かれるままに進もう かっこちゃんへ
かっこちゃん、返事が遅くなってごめんなさい。
台湾~パラオ・ペリリュー島慰霊~成田空港から羽田空港へ移動して、鹿児島、知覧。
翌日には札幌へ行き、僕の主演映画「アシュレーイ!」の初上映会。
たくさんの仲間たちが、全国から集まってくれました。
その後、伊勢に戻り30名ほど神宮参拝を案内させていただき、それから茨城の日立市で講演会。 そして、モナ森での同窓会に行ったのでした。
イスラエルの旅の前に二組、イスラエルから帰った翌日からまた伊勢へ。
毎日、毎日多くの人と会い、笑ったり泣いたり。
嬉しい時間がずっと続いて、ついに横浜でソロコンサートの日がやってきたのでした。
楽しかったね! コンサート。そして、お買い物と横浜ラーメン博物館。
その前にまずイスラエルの話を。
今年5回目、我が人生で40回目のイスラエルの旅。
今回は、北のティベリア地方に避難命令が出て、ついにガリラヤ湖に行けませんでした。
いつもなら2泊して、イエスキリストの足跡を辿り、弟子たちのこと、聖書を手に物語るのに、40回目にして初めて叶いませんでした。
そのかわり、エルサレムに余計に泊まることができ、いろんな景色をみてもらったよ。
世界から誰も来ないイスラエル。
でも、そのおかげで黄金のドーム、聖墳墓教会・・・セキュリティーチェックの行列や順番待ちで1時間も並ぶところもすいすい進める。
だから、普段のツアーの2倍も3倍もたくさんの場所を訪ねることができた。
もっとも、初めての人にとっては「こんなものなのか」と思うかもしれないね。
僕はもう驚きっぱなし。
イエスキリストの生まれたベツレヘムでも、クリスチャンも観光客もいない。
TVや新聞の報道を信じないで、僕の話を信じてついてきてくれた旅の仲間に感謝だ。
イスラエルの友人たちも、道行く人たちもみんな「ニッポンからきてくれてありがとう。」と抱きつかんばかりに喜んでくれる。
「嬉しいよ、忘れられていない。イスラエルは一人じゃない」って。
ガザで、イスラエルがパレスチナに攻撃をして人殺しをしているようにTVは騒ぎ立てるけど、400日以上たった今も、100数十人のユダヤ人が帰ってこない。
仲間を助けたいんだ。ユダヤの同胞を、何の罪もない家族を。
旅した仲間たちも、日本で聞いていることが全部ウソだとわかって驚いてた。
イスラエルは、自分から攻撃したりしない。侵略したりしない。
もう、どこにも帰る場所がないんだよ、ユダヤ人にはイスラエル以外。
だから、祖国と同胞を護らなければならないんだ。
「まさかのときの友は真の友」と、わが師、糸川英夫先生は言った。
そして、湾岸戦争のときにもイスラエルへ行って友だちを勇気づけた。
だから、僕も行くんだ、かっこちゃん。
「何しにイスラエルへ、こんなときに」多くの人が言う。
こんなときだからこそ行くんだよ。まさかのときの友は真の友だから。
友だちだった旅行社の社長は、もう友だちを超えて家族だと言って泣いた。
そして、来年も5回来てくれと。
わかった、と約束したよかっこちゃん。 僕はやるよ。
かっこちゃん、僕はクリスチャンじゃない。聖書も学校で学んだわけじゃない。
ただ、イスラエルと日本は手をつないで仲良くして、世界を平安に導くんだと願った糸川先生の想いを受け継ぎたいと願い、聖書の現場を歩きながら、足の裏で聖書を読んできたんだ。
そうしたら、聖書を血や肉に変え、熱風の吹く荒野を生きるバラさんと出会った。
机の上に答えなどない。いくら教会で勉強したってわからない。
聖書を書いた人々の湧きあがる思い、伝えたい情熱、それが聖書の向こう側から風のように吹いてくる。まるでイエスの声が聞こえるように。
イエスは、教会で教えたわけじゃない、新約聖書なんてなかったしね。
野原で、星空の下で、湖畔で本当のことを叫んだんだ。
聞いた人の魂がぶるぶる震えるような、いのちの叫びを。
その声が、いまもガリラヤ湖にエルサレムに響いているんだよ。
僕が伝えたいのは、知識や情報や説明じゃない。
イエスの肉声なんだ。
だから、教会にも行ったことのない、クリスチャンでもない僕が伝道する。
それは、本当のことだから。
かっこちゃん、僕は自分でも不思議でならない。
どうして、こんな人生を生かせてもらっているのか。
僕は明治大学を卒業して、建設会社の営業マンとして5年過ごしました。
土木工事では、瀬戸大橋、ダム、トンネル、高速道路など。
建築工事は、大学校舎、マンション、病院などを受注する仕事です。
それからサラリーマンを辞めて、父が創業した工務店を継ぎました。
今度は、戸建て住宅やアパートの受注です。
30年間建築業の経営者として過ごし、還暦を機に講演家、作家となりましたが、
やっぱり一言で言って受注業です。
つまり、注文が来ないことには始まらないのです。
初めて1時間、人の前で話したのは30代半ばの頃でしょうか、インドへ旅した話をしてほしいと頼まれて20名ほどの前で語ったことを記憶しています。
何日も前から落ち着きませんでした。
もちろん謝金などいただくこともなく、無我夢中でした。
旅をして、その驚きを語る・・・広島や九州から依頼があっても交通費は自腹で、イスラエルの見聞記など語っていました。
そんなことがしばしば繰り返されていた42歳で「お父さん、日本のことを教えて」と娘に聞かれて驚きました。
自分が日本のことを何も知らないということに心底驚いたのです。
そして、自分の生まれた祖国のことを自分で学びなおしたとき、学校で習った歴史というものが人生でほとんど役に立たず、ただ受験のための道具であったと思えました。
学校の勉強ではなく、自分が学びたいから学ぶということの楽しさを覚えました。
40の手習いとはよく言ったものですが、まさに今の僕の人生はそこから始まったと言えましょう。
「求めよ、さらば与えられん」イエスの言葉の通り、そんな私は伊勢修養団の中山靖雄先生と出会い、数え切れないほど伊勢神宮参拝、真冬の五十鈴川で禊ぎ、やまとこころを思い出していきました。
中山靖雄先生とのご縁は、映画「1/4の奇跡」につながってゆくわけですから、何か見えない手に導かれているとしか思えないね。
話を戻します。
受注業のことです。
講演という仕事は、注文が来ない事には始まりません。
駆け出しのころは、誰も僕のことなど知りません。
僕が何ができるのか、誰も知らないのです。
どこからも講演依頼など来ません。だからといって営業もできない。
誰かかが僕を見つけて依頼してくれるのを待つしかありません。
受注業のむつかしいところは、手を挙げてから注文を戴き、仕事が立ち上がるまで結構な時間がかかるところにあります。
だから、
「仕事」になり得ず、フェードアウトしてゆく人が少なくありません。
僕は、建築業を営みながら土日祝日を講演して飛び回りましたので、生活は出来ました。
家族を養いながら、本業で稼ぎ、講演の実績を重ねました。
だけど、需要は不安定です。コロナ前に年間100本ほどあった講演会が、ゼロになりました。ほぼキャンセル、延期でした。
務めていれば何らかの仕事が割り当てられ、給料日には報酬が支払われます。
しかし、受注業の場合、仕事があるかどうかわかりません。
いつも開店休業と背中合わせ、いや、自分で辞めると決めなくても注文がなくなれば自然とフェードアウトするしかありません。
でも、かっこちゃん、その一方で受注業のいいところはたくさんあります。
まず、その仕事を受けるかどうか自分が決められる。
嫌な仕事は断ればよいのです。
価格もこちらで決めることができます。
90分から3時間まで、どなたさまにも同じお値段を請求させていただいています。
ごく稀に値引き交渉をされる方がいらっしゃいますが、自分の価値を下げるわけには参りませんので応じられません。原則ですが。
受注業を長くやっていますと、思いがけないところからお声がかかります。
靖国神社の講演のギャラは、知覧のホタル館に寄付し、玉子丼頂いて僕は喜びます。
受注業は、一度しくじると同じ方からは二度と注文はいただけません。
敗者復活戦はないということです。
会社の中では、失敗しても挽回するチャンスは巡って来るでしょうが、受注業の場合そうはいきません。
最初の一度で何らかの成果が出なければ、次の打席はありません。
ホームランを打てなくても、せめてヒットを打たなければお終い。
アウトなら仕事は終わりです。
厳しいように思えますが、逆の立場ならよくわかります。
例えばレストランで、初めて入った店の料理やサービスがよくなければ二度と行かない。
知人に聞かれたら「あそこは止めた方がいい」とまで言うでしょう。
だから、呼んでいただいたら、最初の講演で期待を満たさなければ、感動を与えられなければ、二度とコイツには頼まない、となるのは当然です。
でも、それでいいのです。
組織の中の仕事と違って、発注者は無限だからです。
潜在的にものすごくたくさんいらっしゃるのです。
生まれて初めて講演会を主催するという方が、僕の場合とても多いのです。
きっと、かっこちゃんもそうだと思う。
どこかの事務所に所属して仕事をいただいているわけではありませんので、著作の読者とかメルマガやブログを読んでくださっている方、講演会に来てくださった方、実に普通の主婦が講演会を手作りで開催してくださるのです。
ひとつしくじっても、それを肥やしにして成長し、また違うフィールドで試合に出られるのです。
僕の仕事でいえば、私の話を気に入るかどうかは聞き手の好みに大きく左右されます。
万人向けの良い話などするつもりはなく、本気で分かろう、そして変わろうとしている人に届けたいのですから、嫌いになる人がいるのが当然です。
「素晴らしい」という人と「馬鹿らしい」という人がいるのは仕方なく、聞き手の好みを操作することはできません。
一発でアウトになれば、店じまいして次の場所に行く。
これを繰り返していくうちに自分の仕事の価値がわかるようになります。
だから、いろいろ考えて評価を気にするよりも、とにかく舞台に立ち自分の色彩で全力を出し切るのみです。
注文者の期待に応える、願わくば期待を超え、感動を生む。
その繰り返しで次の注文がやって来る。
実に当たり前のことなのですが、この講演が最後だとしても悔いはない、今日人生が終わっても喜べると思えるような毎日を送ること。
講演とは、水に文字を書くような仕事です。
でも、石に刻む思いで叫ぶ。
休みの日なんていらないくらい嬉しい人生を歩ませてもらっています。
これを幸せと呼ばずして何と呼ぶ。
アシュレーーーイ! 幸いだ!!
新しいウクレレバンドのことも、ソロコンサートのことも書けなかったなぁ。
改めて言うけど、かっこちゃん、あなたがいなければ僕は人前で一人でギターを弾いて歌うなんてできなかった。 本当のことさ。
この話はまた今度ね。
さあ、今日一日家にいたけど、明日から大分は別府。
そして、大分から成田空港でかっこちゃんと合流。
初めてのベトナムだ。
また何か新しい扉が開く、そんな気がするよ。
じゃあ、成田空港でね。
赤塚高仁