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109 知恵ってどんなことでしょう。赤塚さんへ


赤塚さん、お返事ありがとう。
赤塚さんと私、なんだかおんなじことを考えていたのかな。
赤塚さんが書いておられました。
「ほんの少し時代が変われば、善悪さえも変わってしまう」って。
ねえ、赤塚さん、善悪ってなんでしょう。

赤塚さんがイスラエルであちこちに連れて行ってくださいました。
ネポ山で、モーセがイスラエルの民を引き連れて、四十年間さまよって、約束の地カナンに辿り着いて、きっとこの景色を見たのですって教えてもらったら、本当にそこにモーセがいて、この景色をすぐそこで見ている気持ちになったよ。やっぱりそこに行かなくちゃね。

それでね赤塚さん。私、アダムとイブのお話を考えていたのです。
神様が食べてはいけないと言われたのに、イブが蛇にそそのかされて食べてしまった知恵の樹は、善悪を知ることのできる樹と言われているそうですね。

でも私ね、そもそも善悪ってなんだろうと不思議でならないのです。
神様が全部だいじょうぶのように設計したのなら、もう全てお見通しのはず。もともと善も悪もないはず。
では、それを知恵と呼ぶのはいったいどうしてなんだろう。

私はこんなふうに、いろいろと考えるのが好きです。それで考えるときは、科学だったらどうなるのだろうとか、他の地域ではどうだろうとか、いろいろと考えるのも好きなのです。

ねえ、赤塚さん、知恵というのは、私は思うのです。よりよく生きるためのものじゃないかなあって。
じゃあ、私たちにちゃんとサムシング・グレートはよりよく生きる方法をすでにさずけてくれていて、私たちは深いところでそれを知っているはずじゃないかなって思ったのです。

赤塚さんが、イスラエルに行こうってさそうために、バリ島に来てくださいましたね。

バリ島で体の大きな優しいユダくんに会ったのを、赤塚さんは覚えておられますか?
ダルマ・ユダくんは、「アパボレプア」という言葉を教えてくれました。
日本語ではそれは「しょうがない」と訳されている言葉です。

バリの人は、まるであいさつのようによくこの言葉を使います。
たとえば、バリはお米が主食で、トゥビと呼ばれる段々の田んぼで、お米をたくさん作っています。けれど、日照りが続くと、お米作りになくてはならない水が足りなくなります。そんなときに、夜こっそりと小川の流れを変えて、自分の田んぼに水を引き入れようとする人がたくさんいるそうです。
バリ島のユダくんは言いました。
「でも、だれも怒ったりはしないよ。水がないと田んぼの稲は枯れてしまう。その人はそのとき、水がどうしても必要だったんだ。だからしょうがなかった。アパボレブア。お米がとれなかったら、その年は食べていけなくなる。農業の収入はとても低いんだよ。水を盗まなければならないほどつらかったということを、みんながわかっているから怒らない。もちろん自分の田んぼに水がこないと大変だから、みんな、夜ずっと見張りをするんだけどね。アパボレブアだ。しょうがないよ」私は大切なお水を盗られても、アバポレフアと言って怒らないというバリの人にとても驚きました。ユダくんは、何かいさかいが起こっても、こちらにはこちらの都合があると同じょうに、相手には相手の都合があるし、相手の悪しみや苦しみがあるんだよと言いました。

そんなことってあるでしょうか?
でも思ったのです。みんなそれぞれの事情があるということかなあって。

車を運転していると、横をすごいスピードで追い抜いていかれちゃったりすると、びっくりします。腹を立ててしまうことだってあるかもしれません。
運転に自信がある人なら、ちょっと怒っちゃって、追い抜き返したくもなるかもしれません。

でも、それぞれの事情があるとしたらどうでしょう。その人は何か急いでいるのかもしれません。奥さんの赤ちゃんが産まれそうなのかもしれません。
でもね、赤塚さん。事情ってきっとそういうものばかりではないですよね。サムシング・グレートがその人に必要と思って与えてくれた「人となり」性格が、せっかちという事情かもしれません。スピード好きという事情かもしれません。
あるいは、私を守ってくれる事情かもしれません。急いでいる人がいて、追い越した車がおまわりさんに捕まってしまって、私はああ、さらに追い越さなくてよかった。やっぱり安全運転しようというちょっと自分さえよければいいのかとも思われるけど、そんな事情なのかもしれません。大きな事件に巻き込まれないようにと、何かが働くのかもしれません。
サムシング・グレートは考えもしないような理由と事情を用意くださるから。でもどれも必ずお互いにとって、そして全体にとっていつかのいい日につながるためのこと。

ユダくんはこんなことを言いました。
「アパボレブアにはもうひとつ意味があるよ。ボクがどんなふうに生まれるか、どこに生まれるか、どう生きていくか、それはボクが決めたことじゃなくて、決まっていたこと。だから悔しがっても、うらやましがってもしょうがない。ボクがボクとして生まれたことを、悪いとかいいとか決められない。喜んでも悲しんでもしかったがないこと。それもアパボレブアだよ」と言いました。
アパボレブアは、深い意味のある言葉なのですね。けっして「あーあ、どうしようもないな、しかたないよ」とため息をついているのではないのです。どんなものもひっくるめて、ひとつひとつに重要な意味があって、すべて与えられて生きているんだということを言っているように私には思えるのです。

私はよく思うのです。小さな船に乗り込むときの人生というカバンの中身は、人によってそれぞれ違います。それは自分で決めたものじゃなくて、与えられたもの。自分のカバンの中身をどうこう言えないように、相手のカバンの中身を責めることもできない。お互いの人生をいいとか悪いとか思ってもしかたがない・・・・・・アパボレプア、それは相手のことも、自分のことも、うれしいことも、悲しいことも、与えられたこととして受けとめていこうという言葉なのだと思います。

赤塚さんが書かれたように
イエスは「自分を愛するように隣人を愛せよ」と教えられた。

みんなそれぞれ違うようにサムシング・グレートはお造りになった。
でも、受け止め合えるようにと、それぞれにそれぞれの事情がある。それぞれの悲しみや苦しみもある。ひとつの体で、目は手を責めないし、手も足を責めない。

生きていくための大きな知恵であるし、善悪についての考えなんだろうかと今は思っています。
だってそれは真実でもあるし、全部うまくできているよということや、全ていつかのいい日のためにあるよということや、みんな愛されているということやどれもが含まれていますもの。それらはみんな同じことなのですね。

赤塚さんはインドへも行かれて仏教もいっぱい学ばれたのですね。
仏教にも同じ知恵という言葉が出てきますね。
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般若波羅蜜多とは「知恵の至高性・完成された知恵」という意味である。 それでは般若・知恵とは何かと言えば、仏教の基本思想によって一切の存在の本質を見通すはたらきである。
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きっと大切なことはひとつ。
そんなふうに考えると、私たちは本当にみんなしあわせなのだとまた思えるのでしょうか?

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  かっこちゃん、
いつも喜んでいよう
絶えず祈っていよう
そして
すべてのことに感謝しよう。

  たとえ、そんな風に思えない状況であったとしても、
僕たちはそうやって生きていくんだ。

 世界は素晴らしいのだから。
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赤塚さん本当にそうですね。私はすぐに感謝を忘れる。色々な人がいてくださって、毎日があるのに、それも忘れる。ハッと気がつくと、自分自分と思っている私がいます。
けれど、そのことに気がつくことができるし、人は変わっていけるようにもつくられている。

赤塚さん、
能登の支援で一口千五百円でお礼に『銀河の雫』を観ていただけるということをお願いしたら、あっというまに、二百人の方がご寄付くださって、金額も100万円に近づこうとしています。
涙が出ます。みなさんの優しい思い、会ったことのない人にも、どうかしあわせでいてと思う心は、きっときっと自分を愛するように、隣人を愛する思いですね。

赤塚さん、イスラエルの同窓会。モナの森でまたみんなで会えるのが楽しみです。

またね。かつこ

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