4 人を裁くな。自分が裁かれないためである かっこちゃんへ 赤塚高仁
「人を裁くな。自分が裁かれないためである。」
かっこちゃん、お手紙ありがとう。
僕はまだ安倍昭恵さんに電話も、メールも、ラインも・・・手紙も、出せずにいます。
言葉もかけられないことってあるのです。
昭恵さんの悲しみに寄り添うどころか、想像することさえ困難な心情に届けられる言葉なんかないよ。
言葉の届かない世界に、言葉で辿りつこうとするのは時に傲慢なのかもしれない。
安倍さんがお亡くなりになる一月前、食事会で安倍さんとお話をさせてもらいました。
「いつも妻がお世話になってありがとうございます。
これからは、私も妻と一緒にあちこち静かに旅をしようと思ってるんですよ」
素晴らしいお人柄が溢れ出る満面の笑顔と握手した時のやわらかな手のひら。
少し高いトーンの歯切れ良い声がずっと僕の頭の中で消えないんだよ、かっこちゃん。
昭恵さんは葬儀の時、こうご挨拶されました。
「まだ夢を見ているようです。
主人のおかげで経験できないいろいろなことを経験できました。
すごく感謝しています。
いつも私のことを守ってくれました。
10歳には10歳の春夏秋冬があり、
20歳には20歳の春夏秋冬、
50歳には50歳の春夏秋冬があります。
父・晋太郎さんは首相目前に倒れたが、
67歳の春夏秋冬があったと思います。
主人も政治家としてやり残したことはたくさんあったと思うが、本人なりの春夏秋冬を過ごして、最終冬を迎えました。
種をいっぱい蒔いているので、それが芽吹くことでしょう。」
かっこちゃん、昭恵さんは僕にこう言ったんだ、
「あのね、赤塚さん、
私ってたくさん政治家っていう人たちを見てきたわ。
時間が経つにつれ、どんどん顔が変わってゆく人がとても多いの。
そう、悪くなるのよ。
でもね、
うちの主人は、出会った時からちっとも変わらない。
とてもいい顔してるのよ」
とっても仲良しの二人だった。
どうしてこんな風にして引き裂かれなければならなかったの。
昭恵さんの気持ちを考えるともうどうにも、心痛くて・・・
祈るといっても力が湧かない、
でも、祈るしかないのですよね。
かっこちゃん、僕はつくづく自分はなんて自分勝手な、エゴエゴ人間なんだろうと思う。
TVのニュースでウクライナの人たちが死んでゆくのをニュースで見ながら食事をする。
でも、友だちが悲しいと、憂鬱な気持ちになる。
自分に関係ないことには無関心、それは愛がないよね。
知ることは、愛の始まり。
知ったなら、愛したい。
少しずつでも、ちょっとでも心広くなりますようにと、それも神さまに祈ります。
世の中はいつも争いと混乱に満ちています。
その理不尽な世界が自分を苦しめていると思うと、犠牲者となり怒りが湧きあがってくる。
安倍さんを撃った男は、報道によると、子どものころ父親が自殺し、母は新興宗教にすがり1億円以上の財産をつぎ込んで家庭は崩壊、本人も人生はうまくいかない。
挙句の果てに安倍さんが全部悪いのだと被害妄想。
世のため人のためでもなく、大義名分何もなし。
こんな人間生まれてこなければよかった?
いいえ、僕は彼を裁けない。
人は人を裁けない。
私の中にも、裁かれるべき要素がたくさんあります。
私の体験でもあります。
「苦しみ」をつくったのは、本当は自分なのです。
自分の外側に答えや解決を探すとき、終わらない渦に巻き込まれ、
誰かのせいにして、怒りの中で暮らさなくてはなりません。
自分勝手に作り上げた「私」という錯覚が「苦しみ」を生みます。
何故なら、「苦しみ」とは「私」について考えていることがほとんどだから。
何が起こってもおかしくない。
そんな時代に僕たちは生かされています。
だからこそ、本当の自分を生きてゆきたいものです。
誰かと比べた自分を「私」と錯覚してしまっているけど、それは違うよね。
あの人より自分は背が高い。
あの人より上品だ。
あの人に比べたら仕事が遅い。
・・・あの人、あの人
そんな「差」が自分だと思い始めます。
でも、「差」はどこまでいっても本当の自分に辿りつくことはありません。
「差」のない世界に真の自分はいるからです。
差をとる世界、本当の自分と出会う世界、それが「差とり」
悟るということかもしれませんね。
みんなが争いのない世界に生きられたらどんなにいいでしょうか。
かっこちゃん、今はただ昭恵さんが可哀想でならないんだよ。
まとまりのない手紙になりました。
心の思うままに書いてしまったけれど、こうして書くことで少し心が穏やかになりました。
かっこちゃん、ありがとう。
そこにいてくださって。
偉い政治家も、凶悪な犯罪者も、みんな昔、子どもだったんだ。
僕は、昭恵さんが怒りや憎しみを表されていないことに、本当に敬意を表する。
素晴らしい人間だと改めて心から尊敬する。