125 旅のチカラと言葉のチカラ かっこちゃんへ
かっこちゃん、お便りありがとう。
何度も読み返しています。いまだにベトナムのことを思い出すよ。
と、言ってもほんの一月前のことなのに。
ずっとずっと遠い昔の懐かしい思い出のような気がするけれど、先月だよ。
ベトナムから帰って、日本中飛び回って、クリスマスだったりお正月だったり、きっと賑やかすぎて心がどこかへ行っていたのかも知れない。
だからやっぱり旅は大事だと思うのです。
たわいのないジョークでお腹を抱えてわらったり、ドキドキしながらバイクでいっぱいの道路を渡って、道路の向こうについて「やったー」って喜んだり。
普段は絶対買わないようなオモチャを買って子どもの頃のように撃ち合ったり。
心が自分に帰ってくる。心といつも一緒にいる。
そんな気がしない?
旅の空の下では、忘れかけていた大切なものを思い出し、驚いているうちに心が温かくなって、あ、ここに僕の心がある、と思えるんだ。
ベトナムで、ベトナムを経験しているのは、僕です。
ベトナムで世界について、日本について、考えているのは自分です。
自分でしかない。自分しかいない。だから、世界とは日本とは自分なんです。
日本は、自分として存在している。
かっこちゃんに負けないくらい変なことを言うよ。
こうやって「自分」と言ってるけど、自分と自分と違うものの境ってどこにあると思う?
現代に生きる人たちは、「自分」とは、肉体と名前のことだと思っているから、自分と他人は別々だと考える。
人生は、一度きりの儚いものだと思い込んでる。
けれどかっこちゃん、世界とはその人が感じ考えているもの。その人が世界、すなわち自分をどう感じ、どう考えるかは、その人次第だよね。
どんな風に感じ、考えようとその人の自由ってことだ。
かっこちゃん、これは本当に素晴らしいことだと思う。
自由とはこういう風に使うべき言葉で、自分が自由でないことを社会や世の中のせいにするのは、話が逆だ。
いつかの昔だったり、どこかの国では自由に考えたり意見したりすることが禁じられたりしている。これは本当に悲しいことだ。
「それでも地球はまわっている」僕は、そんな風に言える人間でありたいと願う。
僕は、自分と他とは分けられるものじゃないと思っています。人生は一度きりなんて、誰にもわからないし、それこそ「死」が悪いことなら人生なんて悪に向かって進む絶望の旅だということになるじゃない。
そんなことサムシンググレートがなさるはずがない。
人生が虚しくなくて良いように、サムシンググレートは、僕たちに無限のギフトをくれる。
だって、僕たちはサムシンググレートの子どもだからね。
わからないことは、わからないこと。
死んだことがないから、僕は死ぬってことはわからない。
だから、そこがどんなところなのか旅が始まるのが楽しみだよ。
もちろん、この世の旅路を思いっきり楽しむよ。腹心の友かっこちゃんと。
旅に出るとね、そんな突拍子もないことを思いつく、そして、それが嬉しい。
旅の空の下で、それを自分だと思い込んでいたものを、ひとつひとつ外してゆく。
解放されてゆく。そして、自分とは日本なんだ世界なんだ宇宙なんだ、意識が広がる。
そんな旅のチカラは、旅から戻った後の光景を変えてくれるんだ。
きっとかっこちゃんも旅の影響だな。
僕も数学のことを考えてみた。
「・・・一番好きだったのは、数学や数字はきっと誰かが発明したものじゃなくて、もうすでに、この世界が始まったときから、そこにあったものなんだということを考えるのが好きだったのです。私は本当に変な子でした。今でも少し変な子ですが。
そして、数学だけじゃなくて、言葉も誰かが作ったものじゃなくて、すでにあったんだと思っていました。どの国の言葉もきっともうあったんだなあって思っていたのです。・・・」
僕たちは言葉を話す。それにこうやって、読んだり書いたりもするよ。
かっこちゃん、これは実に不思議なことだ。みんな当たり前と思っているかも知れないけれど、こんな不思議なことはない。
当たり前の不思議さに気づいて、それを考える人生と、当たり前は当たり前と考えもせず生きるのと人生は全く違ったものになるでしょう。
僕は、いつ、どこで、初めて言葉を覚えたのか。
たぶん、両親やまわりの人たちだ。だけど、その人たちも自分で言葉を生み出したんじゃない。きっと両親も親から教わったに違いない。
じゃあ、最初の言葉は、いつ、どこで、誰がつくったのか。
大昔、誰かが叫んだ声がそのものの名前になったのか。そうだとすると、そう決めたのはその人だから、ほかの人に通じない。それでは言葉の意味をなさないものね。
みんなが集まって会議で名前をつけたの?
これもおかしい。その名前で呼ぼうとするなら、それと名前が同じものであることをあらかじめ皆がわかっていなければならない。そうじゃなきゃ同じものだと決められない。
では、同じとみんなに先にわかっている意味は、いつ、どこで、誰が決めたのか。
きっとそうだね、言葉の意味は、いつ、誰が、どこで決めたものでもないよ。
「初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった」
「すべてのものはこれによってできた」
イエスの弟子、ヨハネの福音書の書き出しです。
言葉の不思議に気づいたヨハネは、こう言ったのです。
言葉の意味は、僕たちが生まれるより前、人間が出現する前、いや、宇宙が出来る前からどうやら存在しているぞ、と。
言葉は神。
僕が「水をください」と言えば、そこに水がなくても思いは通じる。
でも、水を「水」と呼ぼうと決めたのは、神さまだ。
言葉としての神さまだ。
僕が言葉を話しているのだと思っていたけど、言葉が人間を使って話しているんだ。
つまり、人生とは言葉なんだ。
うあ、ビックリだ。
言葉を大切にしないということは、神さまを粗末にすることだよね。
「人生なんかつまらない」と口にしたら人生はつまらなくなる。
言葉が現実を創ることを知れば、善い言葉を使う。
言葉は道具なんかじゃない、言葉は、自分そのものです。
自分を大事にするということは、言葉を大事にすることです。
かっこちゃん、ありがとう。
言葉はすべてを創造するチカラ。魔法使いの杖だ。
人は、言葉という魔法の杖を使って、どんな人生を創造することもできる。
すごいね、嬉しいね、楽しいね。しあわせだ。
そうそう、数学のことだった。
かっこちゃんと違って、僕は数学も数字も大嫌いでした。
それは、学校と先生が嫌いだったから。(はい、これは言い訳です)
建築の大学に進むためには数学をやらないと受験ができないというのに、あまりの成績のひどさに理科系の建築科には進学できませんでした。
国語と日本史が少しできたので、東京の大学の経済学部へ行ったのでした。
高校出てから微分積分も三角関数も使ったことありません。
それでも、建築会社の社長を30年もやったのだから、困ったことは起こらないね。
おっと、話を戻そう。
言葉することは、不思議です。水は、英語でウオーター、ヘブライ語でマイム。
民族が違うと伝わらないことがあるね。
でも、日本でも米国でもベトナムでも「1+1=2」だ。数字も神さまだ。
人類皆同じ。すごいことだ。驚いた。
とりとめのないことを書いて、いったいどうなるのか。
魔法の文通は続くよどこまでも。
追伸です。
「いつか知りたかった古事記」
靖国神社に置いてもらえることになりました。
日本中の神社に、日本全国の子どもたちに届きますように。