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106 「宇宙の約束」に導かれて かっこちゃんへ
かっこちゃん、ついに「宇宙の約束」が出たね。
ありがとう、かっこちゃん。
普通なら出版社がなくなれば、そこから出た本も消えていってしまう。
17年も前に出された本が、新しい命を吹き込まれて再び日の目を見るなんて奇跡だよ。
まさに終わらない旅だ。
僕も書かせてもらえたこと、とても嬉しく思います。
こんな風に書かせてもらった。少し引用させてもらいますね。
(引用ここから)
「かっこちゃん、イスラエルに行こうよ」
その一言を言うために、イスラエルの旅の前の年、旅の空の下にいるかっこちゃんを追いかけてバリ島まで飛んだことが昨日のことのように思えます。
ところで、レバノンにはヒズボラという集団があります。また、ハマスという集団もあります。非常に過激な集団で、平和的に話し合うことは非常に難しく、これまで幾度となく、残虐なテロを繰り返してきた集団です。
この二つの集団は、確かにほとんどがパレスチナ人ではあるかもしれないけれど、パレスチナの人々の多くは、この残虐なテロに決して賛成しているわけではありません。
まずはこのことをしっかりと理解した上で書いていきたいと思います。
かっこちゃんとのイスラエルの旅は、二〇〇六年のレバノンのヒズボラというテロリストから五千発を超えるミサイルがイスラエルに打ち込まれる最中の旅でした。
TVや新聞の報道は爆撃の模様や泣き叫ぶ子供の映像を繰り返し、あたかもイスラエルに行くことがとんでもなく悪いことのように騒ぎ立てます。
そんな時だからこそ、行ってかっこちゃんに本当のことを知ってもらいたい、かっこちゃんをイスラエルに連れていきたい……そんな湧きあがる思いで、私にとって九度目のイスラエルを歩きました。
私たちは、イスラエル側の地区も、そして、パレスチナの人が住んでいるベツレヘムにも訪れましたが、行く先々で私たちは歓迎されました。
「まさかの時の友は、真の友」と、東の島の国からやってきた日本人のグループは彼らの喜びと希望となったのです。
初めてイスラエルを体験したかっこちゃんは、自分を超えた存在と力に自分の心において出会い、一冊の本を書いてくれました。それが『宇宙の約束』です。
人は、知らないという驚きから考え始めます。人は、いきなり考え始めるものではありません。そして、驚きを知っている人だけが驚きを伝えることができます。
『宇宙の約束』には、知らないことに直面した人が、どんなふうにそれを考えてゆくものかが書かれています。その姿が、人の心を震わせ、動かすのです。
あれから十八年の時が経ちました。
『宇宙の約束』を改めて読み返し、目に見えない巨きなチカラに導かれて旅をさせてもらったのだと噛みしめています。
あの旅で出会ったバラさんも、旅の仲間の桝蔵先生もこの世にはいないけれど、心の中に鮮やかに蘇り、声まで聞こえてくる。人は、肉体が滅びてもずっと生き続けるものなのですね。
「わたしはあなただったかも」……答えのない問いが私に向かってきます。
広大無辺な宇宙があり、そのただ中に私がいる。
その私が生きて死ぬ。
生きて死ぬのはなぜ?
あなたがあなたで、私が私であるのはなぜ?
わたしはあなただったかも……
この当たり前を不思議と感じ、驚き、考える。
語り得ないものを表現することのすごさを、私はかっこちゃんの著作に読むのです。
だから、語られていないもの、語り尽くせぬものを読み取る力をつけたいと願わされてならないのです。
聖書の向こう側から吹いてくる、二千年前のガリラヤの風にイエスの声を聞くように。
ところで、私は二〇二四年六月、三十七回目のイスラエルの旅に出かけました。
北はヒズボラからのミサイル攻撃、南ではガザでハマスの侵攻。そんな最中でした。
メディアでは、パレスチナの人々をイスラエルの兵士が虐殺しているように伝えています。本当のことはどうなのか、私はいつも確かめたいのです。
そのときの旅の参加者は、子育て世代のお母さんたち。夫や子どもたちから「行かないで」と言われ、親から「キャンセル料を払ってあげるからやめなさい」と止められる中、「行く」と決めて一歩踏み出した人たちです。
もちろん現地の旅行社と綿密に打ち合わせして、安全が確保されたルートを選んでいることは言うまでもありませんが、私にとってかっこちゃんとのあのときの旅で得た気づきが、勇気と希望となっているのです。
日常を離れ、わかりきったと思い込んでいた日常がいかに当たり前でなかったか。
その目覚めこそが新たな誕生となり、いのちの再生となるのです。
魚に水が見えないように、日本人に日本が見えず、人には自分が見えません。
エルサレムで、私の友人である旅行社の社長が私たちに会いに来てくれました。
世界中からの旅行者が途絶え、彼の会社でも百名以上いたスタッフを九割解雇したそうです。倒産している旅行社も多く、イスラエルの経済も大きなダメージを受けていました。
今回の争いの始まりは、二〇二三年十月に、ガザ地区に近いイスラエルの土地で行われた音楽イベント会場をテロ集団ハマスが突然襲撃して、無差別に殺害し、二五〇名を超えるユダヤ人を人質として連れ去ったことでした。そして、そのあと、イスラエルの国内で千二百名以上のユダヤ人が惨殺されたのです。
人質は、一部解放されたものの、いまだに百二十名を超える人質が拉致されたままです。
そのときの残虐さは、いったいこんなことを人ができるのだろうかと思うようなことばかりでした。手足を切り取られた死体、十四歳の少女は腰の骨が砕けるほどレイプされ、殺されていたのです。死体には爆弾が仕掛けられ、助け出そうとしたイスラエル兵士も死んでいます。
イスラエルの友は、泣きながら私たちに話してくれました。
「自分たちの国がなければユダヤ民族を守ることはできない。
だから、我々は再び建国を果たした。
しかし、建国以来初めて国の中で国民が虐殺されたのだ。
イスラエルは眠っていた。
だから、このことを目覚まし時計として目を覚まさなければいけない」
彼のお母さんは、十八歳でポーランドからイスラエルへ帰還(アリアー)しました。たった一人で。
お母さんの家族は、ユダヤ人というだけで、全員アウシュヴィッツで殺されたのです。
一人で生き延びてイスラエルへ来て、ロシアから帰還した男性と結婚し、わが友が生まれました。
イスラエル空軍の高官の経験もある友の言葉が、心の中に刺さっています。
イスラエルはどこへ向かうのか、今はそのことがまだわからないけれど、誰もが願うように、イスラエルも、ガザ地区の人々もみんな苦しんでいます。どちら側にも、長いあいだの我慢や苦しみや、また恨みのようなものもあるでしょう。けれど、サムシング・グレートの掌の上で、なんとかして、みんなが笑っていられる日が来るようにと祈らずにはいられません。
世界のどこかで、いまも戦争が行われています。
人類の歴史で、この地上から戦争や紛争がなくなったことはありません。
いったいどうして人間は戦争をするのでしょう。
聖書の中でも、小さな民族同士の戦争から国家間の戦争まで記されています。
我が国でも、私が生まれる十四年前、六十二の町が焼き払われて最後の二つの都市、広島、長崎には原子爆弾が落とされて数十万人の命が一瞬にして奪い去られました。
第二次世界大戦で三二〇万人の日本人が死にました。
有史以来、人間は戦争を繰り返してきたのです。
科学技術が進歩して兵器は進歩しましたが、人間そのものは何も変わっていないということではないでしょうか。
かっこちゃんも、『宇宙の約束』の中で、何度も何度も、戦争について考え続けています。
戦争はなぜ起きるのか。戦争の原因の一つは、政治的な理由でしょう。
領土を拡大したいから侵略する。有色人種の国で白人の植民地にならなかったのは、実は日本だけなのです。それくらい歴史上、侵略は行われてきました。
もう一つの大きな原因は、宗教の違いです。
ユダヤ教とキリスト教、それにイスラム教は同じ始まりの兄弟のような宗教です。
唯一絶対の「神」が全宇宙を作り上げたという信仰です。これを、「一神教」と呼びます。
例えば、キリスト教の神は全知全能で絶対的な力を持つ方で、この世とは別のどこかに存在しており、この世の人間たちを見守っている。
人生の意味も神が与え、死後の世界も仕切っていると考えられているのです。
もとになっているのはユダヤ教の教えです。
「はじめに神は、天と地を創造された」と始まる創世記は、ユダヤの聖書の冒頭にあります。
キリスト教では、ユダヤの経典を「旧約聖書」と呼び、ユダヤ人から現れたイエスを救世主として新しい経典をつくって「新約聖書」としています。
この考え方は、とてもシンプルでわかりやすく、しかも人々を思考停止に留めるためにも為政者に有益だったため西洋で広まり、浸透しました。
この二千年の間、聖書の世界中心に文明は生まれ、人々は宇宙の創造も人生の意味も神さまを信じることで成り立たせてきたのです。
しかし、ここにきて人類に新たな信仰が生まれました。
それが「科学」です。
科学の急速な発達によって、宗教の力が衰えました。
宇宙の始まりがいつなのかを計算できるようになると、六日間で宇宙を創った神さまなんて信じられません。
宇宙の外側のどこかに一人でいる神さまなんて、想像できなくなるのでしょう。
科学という信仰では、人々の心は「脳」にあるとし、脳死を死と定めます。
だけど、その「脳」を創り出したのは人間ではなく自然です。
絶対的な意味を持つ神を信じられなくなると、人々は苦しくなります。
だからこそ、考えることをやめて逆に頑なに信じることを強めてゆくことにもなるのです。
一神教の世界で戦争が絶えないのはこのためです。
自分たちだけの神が正しいのだから、人生の意味なのだから、他の神を信じるものたちは許せない。自分たちのほかは、間違いだから。だから、神のために命をかける。神の名のもとに殺し合う。
考えればわかる、ばかげた、愚かな戦争という出来事が終らないのはこのためです。
一神教の世界にはどうしても無理があります。互いを「受け止め合う」ということの逆に、一神教が存在するからです。
神が存在するかどうかを考える前に、人間は神が存在していないと困るから「信じる」のです。「信じる者は救われる」と、思考停止して信じ込む。
ここに、争いのもとが発生するのです。
初めて一神教の世界の聖地、エルサレムを訪ねたかっこちゃんが私に質問する場面が本書の中にあります。
(第十五章 私が私でいい理由)
「赤塚さんに、『神さまは誰に対しても平等?』と尋ねました。
『そりゃそうや。絶対そうやで』
『イエスは人間?』『そうやで、キリストは聖霊に満たされた人の子や』
『そしたら、赤塚さん、イエスはユダさんと平等?』
赤塚さんは、『うーん』とうなって、『ちょっと待ってくれる?』と言いました。
キリストをずっと信じていて、イエスが大好きな赤塚さんは、
『イエスさまとユダさんは平等?』と私が聞いたときに、『なんてとんでもないことを聞くんだ』と最初はびっくりしたのだそうです。
でも、しばらくして『何百回本を読んで得た知識より、感じたことの方が正しいということもあるかもしれないね』と赤塚さんは言ってくれました。」
(引用ここまで)
神とは、存在することを人間がムリにでも信じなければならないものなのだろうか。
人間とは別の何ものかで、「信じる」ものなのだろうか。
それは、かっこちゃんの問いかけに驚き、そして私が考え始めた瞬間でもあります。
神さまの愛は、それは私たち人間が愛と呼んでいるものとは違うのではないだろうか。
そもそも、私たちは一体、何をして「神」と呼んでいるのだろう。
「神」とは何だろう。
もし、すべての人々が同じものを「神」として生かされていたとしたら、戦争が起きるはずなどない。
神の愛は、無条件。
神の愛は、無差別。
神の愛は、一方的。
神の愛は、無制限。
だとしたら、「信じたら救われる」という条件付きの愛は、神から出たものではない。
かっこちゃんの言葉は、私が神の愛に触れる導きとなりました。
『宇宙の約束』とは、いまここに私が生きていることに驚くことから気づくのです。
私たちが存在することの不思議さは、まさに神や仏や宇宙のはからいだと驚くのです。
私にとって人生とは、気がついたら始まってしまっていたものです。
私が始めたものでもなければ、私がこの宇宙に存在するのは私の力でもありません。
太古の昔から、人間はそんな摩訶不思議を「神」あるいは「魂」と名づけ、考えてきました。
空を見上げて、自分が宇宙のひとつであると感じてきました。
宇宙を観察するのではありません、宇宙の一つだと感じてきたのです。
私たち日本人は、多神教の民族です。
日本人の信仰である神道には、教祖も教義も経典もありません。
つまり、教えがないから宗教ではないのです。
山川草木に神が宿り、動物にも植物にも魂があると感じます。
神の名において争うなんて馬鹿げていると知っているから、キリストの誕生日であるクリスマスをお祝いした後、大みそかにはお寺で除夜の鐘を聴き、その足で神社に初詣に行けるのです。
キリスト教、仏教、神道とかけもちするなんて一神教の世界の人々からみたらとんでもないことでしょう。
彼らにとって、唯一絶対の神を信じることは、自分の命をかけることに等しいことなのですから。
しかし、私は思います。
「信じる者は救われる」という在り方の宗教は、もうお終いにする必要があるでしょう。
人類はそろそろ次の次元に意識を上昇させなければならない時代になったと思うのです。
もちろん、宗教自体は無くなりはしないでしょう。
人間が存在する限り、不思議の探求は終わらないし、死への不安や苦しみからの解放、そして、道徳の規範としての宗教は有効であり続けるから。
それを絶対的な神が「信じたら」救ってくれるとして求めるのは終わりにしよう。
人類は賢くならなければならないのです。
『宇宙の約束』は、新しい人類の道しるべとして読み継がれてゆくでしょう。
わたしはあなただったかもしれないし、あなたはわたしだったかもしれない。
そんな自分がこの宇宙に存在するという不思議の中で、出会えた奇跡。
自分が自分であること、宇宙の一つであること。
生きていることの懐かしさに、胸が熱くなるのです。
宇宙と比べて人間はなんてちっぽけなものなのかなどと思ってはなりません。
その宇宙の果てまで包み込んでしまう、私の心の無限さに驚きます。
『宇宙の約束』に目覚めるとき、私たちは新たな誕生を迎え、いのちが再生するのです。
いまだ争いの絶えないこの世界だけれど、いや、そんな時代だからこそ、自分だけは、私だけでも誇り高く美しく善く生きよう。
善い人間として、善い人生を全うしよう。
『宇宙の約束』が十八年の時を経て、新たな誕生を迎えたことを寿ぎます。
いつも喜んでいよう。
絶えず祈っていよう。
すべてに感謝しよう。
腹心の友と出会えた奇跡が心に溢れます」(引用ここまで)
かっこちゃん、モナ森出版を立ち上げてくださってありがとう。
「宇宙の約束」を出版して下さってありがとう。
ひとりでも多くの人に読んでもらえるように、僕も願晴るよ。
かっこちゃん祭のこと、鎌倉で赤道小町とランチしたこと、横浜でコンサート聞いたこと、いっぱいいっぱい話したい事ある。
また書くよ。
明日からイスラエルだ。
僕は一足先に飛んで、ヨルダンのアンマンで待っているよ。
アジアの西の端で何かがきっと待っている。
じゃあ、またね。
高仁