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118 「何のために生きるのか」の前に考えること かっこちゃんへ


   かっこちゃん、あのヨルダン~イスラエルの旅
ふらふらになりながらペトラ遺跡を歩いたり、国境が封鎖されて、別の場所からイスラエルに入国するためにエジプト近く紅海まで南下したことなど、忘れられない出来事ばかり・・・
 死海の石鹸、ナツメヤシの実、ローマングラス、ダビデの星のペンダント・・・様々なお土産・・・でも何よりも、忘れられない仲間たちと過ごした宝石のような時間こそ最高の思い出であり財産です。
 どこにいくかはもちろん大事、でも、誰と行くかはもっと大切。

「旅に出て、生涯つきあえる友と出会えたら、その旅は成功です」

糸川英夫博士の口ぐせでした。僕も本当にそう思う。

 旅の終わりにはもう同窓会のことが決まってしまいました。
それくらいみんな仲良くなり、すぐにまた会いたかったのでした。
そしてその場所は「モナの森」をおいて他にはない、というのもみんなの意見でした。
 北海道から、九州から、それからなんとロサンゼルスから、みんなそれぞれの場所からめいめいの道で小松に集まったね。
ヨルダン~イスラエルの旅は一人一人を成長させてくれたようです。
できない理由を言う前に、できる方法を考える。
だって、あの旅を体験できたんだから、できないなんてことない、って気づいてしまった。
 「できない」じゃなく、「やらない」のだと知ってしまったんだ。
昨日までの当たり前の中で暮らすより、一歩前の道を歩き出すことの素晴らしさを味わっている。
だから、みんな素敵に輝いていたね。

「若手で仕切らせてください」って、いいね。
そこに入ってるかっこちゃんは、もっといいね。

みんなの感想にありました。
「欠席者がいたから、また同窓会をしなければなりません」って。
この次はきっと伊勢のログハウスでやりましょう。バラさんも何度も来てくれたあの場所です。

 話は変わって、かっこちゃんがイエスの復活のこと書いてくれました。
キリスト教では、処女マリアの妊娠、死んだイエスの復活が信仰の要。
これに疑問を持つことが許されません。
なぜなら、「信じるものが救われる」からです。
 僕も無教会主義のキリストの信仰の中に12年いました。
だから、疑問を持つことは自分の信仰の弱さだと戒め、救われるために必死に信じて祈りました。
「主イエスさま、来てください」と。信じて念じたのです。
 その信念を打ち破り、光を入れてくれたのが、かっこちゃん、あなたです。

「赤塚さん、イエスさまは人間?
神さまの前ではすべての人が平等?
 なら、イエスさまとユダさんは平等なんやね」

あの17年前のイスラエルの旅。
そこから新しい世界が始まりました。
かっこちゃんと旅するたびに僕の目からウロコが落ちるんだ。
この魔法の文通も旅だから。

 人が肉体を持ってこの世を歩く時間、それを人生と呼ぶのなら、人生は限りある旅だよ。
かっこちゃん、僕は思う。
旅が楽しいのは、帰るところがあるからだ。
2000年前、ガリラヤ湖畔で「アシュレーーーイ!」と叫んだイエスがこの地上を歩いた33年。彼がこの世に復活したのかどうか、もはや僕にはどうでもいい。
と、いうより復活のイエスを話し合う人たちの前にホンモノが現れたとしても、彼らはわからないし、きっと気づかないだろう。
本当の出会いは、心においてなされるものだから。
 復活のイエスが弟子たちに現れたとされるペテロ召命教会で怒鳴りまくっていた神父の前にホンモノが立ったとしても彼はこういうだろうね。

「ユダヤ人は出ていけ!警察を呼ぶぞ!!」

 かっこちゃん、
信じるのはいつも、信じていない人だけだ。
考えるのをやめて、信じることだけに生きるから、人は争いをやめない。
自分の信念が正しいとするためには、そうでないものを間違いとしなくてはならない。
それが一神教なら、そろそろ人類はもう少し賢くならなきゃ。
「知らない」と知るから、僕らは考える。
知らない「死」を知っているかのように恐れ、ただ生きるために生きようとする人たちは、考えることをしない。

 死を知らないとは、生を知らないということです。
だって、僕は気がついたらこの世界にやってきていた。
本当にどこにいたのか知らないし、死んだらどうなるかも知らない。
死んだことがないから。
 それなのに、死は恐ろしいものだと人類を縛り上げています。
しかし、死はそうではなく、あるいは、ひょっとしたら、祝福すべき喜ばしいことなのかも知れないと、そんな可能性すら抱き始めているのは、この魔法の文通のおかげなのです。

糸川先生、村上先生、バラさん、宮ぷー、オーリー、とっちん・・・先に行った大切な人たちのことを思うとき、僕たちの命はなくならないものなのだと思えるのです。

 僕は子どものころから、人が「生きなければならない」という言い方をすることが不思議でした。
~ねばならない、と誰が誰に強制されているのでしょうか。

 どう考えても、自分が生きることは誰にも強制されていないのです。
生きたくなければ生きない自由もあります。
しかし、人は、生きることが不自由な強制であるかの如く、「生きなければならない」と言う。やはり、これはおかしい。
 誰にも強制されていないのに、生きようとしているのですから、正確には
「生きなければならない」ではなく「生きたい」ではないでしょうか。

 人が「生きなければならない」「長いするべき」だという言い方をする核の部分には、どうやら死への恐怖があるようです。

 僕自身「死への恐怖」というものがなく、どちらかと言えば「憧れ」に近い感情を子どもの頃から抱いていました。
「死」というものがそもそもこの世界に存在せず、理解不能だからです。
理解不能のものを、どうして怖がることができるのでしょうか。
それより、死ぬことは怖がるけど、生きていることを怖がらないのは何故でしょう。
死ぬことはわからないから怖いけれど、生きていることは分っているから怖くないというのなら、わからない死によらずに、生きているというそれ自体をどんな風にわかることができるのでしょう。
 
 生きるにつれて、その言葉が多くの人とどうやら違うらしいということに気づきました。
僕は、「生きる」は存在する、と使っています。
だけれど、多くの人は「生存する」と使っています。
僕にとって「生きる」は、存在の謎以外何ものでもありません。

 世の人々にとって「生きる」とは、死にたくないから生活しなければならない他人事みたいな不平不満の時間となっています。
「生きなければならない」「長生きすべき」と言うより先に、「生きているとはどういうことか」を考えるのが筋です。
 少なくとも僕には、長生きする理由など一つもありません。
誰もそんなこと強制していないし、生きていない自由もありますから。
にもかかわらず僕が生きている理由は、生きているとはどういうことかわからないからです。
「生活する」「生存する」から解放され、本来の「生きる」を生きている人と、私は旅を続けたいのです。

 この世に自分の「死」はありません。
いつでも死ぬのは他人です。
自分が死ぬという経験をした人は、この世に一人として存在しないのです。
誰一人死んだことはないのです。
他人が死ぬのを見て、自分も死ぬと類推しているだけです。

 無になる、と人は言うけれど、無は存在しないのです。
存在したら、それは無ではないからです。
だから、人がそれを無と呼んでいる死もまた存在しません。
死は、存在しません。

 「いまここ」に存在することによってこそ、人は生死という相対性を超えます。
超えて絶対的に「存在」するのです。
在るでも無いでもない死後を憂いて、誕生から命日へ、時間というものは漠然と前方へ流れるものだという錯覚を信じ込んで、活き活きと生きる現在を常に取り逃がして生きるなら、
人は一体いつ生きることができるでしょう。
 死を恐れることで、本当に生きることができなくなっているのです。
 
 たかだか数十年の赤塚高仁の生存に限定して生きるなんてもったいないです。
かっこちゃん、
夢のような、幻想のような考えですが、存在それ自体が妄想のようなものですから、
もはやこれで構わないと思っています。

 65歳にして、双六は「ふりだしに戻る」

   かくして、面白き哉、この人生。
このまま旅を続けよう。

  来週からイスラエルの旅です。今年5回目の・・・

    また旅の空の下から書くよ

            高仁

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