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12 「人は罪をもって生まれてなんか来ない」かっこちゃんへ

「人は罪をもって生まれてなんか来ない」

かっこちゃん、いかがお過ごしでしょうか。
モナ森で過ごした4日間が、ずいぶん昔のことみたいに思える。

かっこちゃんからいただいた手紙を、何度も、何度も読み返していました。
「対話」するというのは素敵なことです。
改めて、しみじみそう思う。

新しくした青い車にギターを積んで、小松まで走った。
日頃、飛行機や列車の移動ばかりだから、ドライブが嬉しかったのです。
先ごろの大雨による災害で途中、高速道路が通行止めになっていて一般道を抜けなければなりませんでしたが、夏の日本海を見下ろす景色は素敵でした。

きっと、こんなことでもなければ一生見ることもなかったのだなぁと思ったよ。

さて、かっこちゃん
かっこちゃんは、いつもふわふわと柔らかく、平らかな在りようでいてくれるけど、
「ならぬことはなりません」という、ここ一番のときに「どん!」と強い波動で想いを伝えてくれます。
 そのエネルギーに、僕も何度も目覚めを促されてきました。

手紙には、こう書かれていましたね。
「障がいを持っているお子さんが生まれると、「前世でよほど悪いことをしたのだろう」「両親の業(ごう)が深いからだろう」などとそんなうわさをする人もいました。
 「業が深い」とは、「前世の罪深さにより、多くの報いを受けている」という意味です。
もし、自分が、前世で悪いことをしたから、障がいがあるのだと言われたり、結婚した先から、「うちの家計にはそのような人が生まれる理由はありません」とお嫁さんが言われたら、どんなに悲しいことでしょう。どんなにつらいことでしょう。

私はその当時から、その考えは違うと叫びたい気持ちでした。我慢ができなかったのです。前世の行いのせいだと言う考えは、多くの人を苦しめます。そして差別も生まれます。
小さい頃から花や虫ばかり見て大きくなった私は、みんな大切、そしてみんな平らかなんだと感じていました。
誰もが、いつも自分を好きでいていいし、そうであるべきだとも強く思ってきた気がします。」


障害を持って生まれてくるのは、過去世の因縁だ・・・などと軽々しく口にすることがあります。
障害をもって生まれてきたのは、魂のレベルが高いのだ・・・などとうなずき合ったりするのは、多くの場合、健常な人たちの集まりだったりします。
 人の痛みに気づけないほど、五体満足というハンディキャップをもっていることに僕は気づけないでいました。

聖書にこんな話が書かれています。

「イエスが道をとおっておられるとき、生まれつきの盲人を見られた。
弟子たちはイエスに尋ねて言った。
『先生、この人が生まれつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。
本人ですか、それともその両親ですか』
イエスは答えられた。
『本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。
ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。」

そう言って、地につばきし、そのつばでどろをつくり、盲人の目に塗って
「シロアムの池に行って洗いなさい」
そこで、彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰っていった。

という場面があります。

かっこちゃん、聖書を家で座って読んでいてもこの場面はわからなかったと思う。
いつもこの場面を読むと、バラさんの声が聞こえてくるんだよ。

「シロアム、とはヘブライ語で『送る』という意味なんだよ」と、バラさんは教えてくれた。
聖書には(つかわされた者、の意)と書かれているけれど、これは現場に行かないとわからない。
シロアムの池は、エルサレムの町に水を送っていたところなんだ。

ダビデ王の時代、エルサレムはエブス人が住んでいた。
そこを手に入れようと、ユダヤの王ダビデは攻め込むのだけれど、容易に攻略できないのです。
エルサレムがシオンの丘にある高き都だから。
手をこまねいているダビデに向かってエブス人たちは、こんな風に言った。

「あなたはけっして、ここに攻め入ることはできない。
 かえって、めしいや足なえでも、あなたを追い払うであろう」(サムエル記下5)

かっこちゃん、高き都エルサレムだけど、水は低き所にある。
町に水がなければ、人々は暮らすことはできないよね。
だから、ずっと下にある池の水を地下のトンネルを掘って『送って』いたんだよ。
 いまのようにポンプがあるわけじゃない。
だから、人力でバケツリレーのようにして水を送っていたわけだね。
真っ暗闇の中でずっと座って仕事をしていたのは、目の見えない人と足の不自由な人。

エブス人は、ダビデにそんな障害を持った人でもお前に勝てるぞ、と馬鹿にした。
ダビデは怒り、エルサレムを取り、イスラエルの都としたのだけれど、
目しいや足なえは、都に入ることを許さないと『呪い』をかけた。

イスラエルではずっと、目の見えない人、足の不自由な人は、差別されてきました。
僕は、イスラエルでバラさんに教えてもらわなければ、わかりませんでした。
ユダヤの世界の中で生きた日本人だからこそ、『シロアム(送る)』の秘密を解明できたのです。
 かっこちゃん、16年前に行ったときにはシロアムの池は見つかっていませんでした。
6年ほど前でしょうか、ダビデの町を発掘したときに発見されたのです。

聖書には、イエスが言った通りに、行って洗ったら見えるようになったと書いてあるけれど、実際に歩いてみると、容易じゃないね。
目が見える僕が歩いても、エルサレムの町からシロアムの池に下っていく道は曲がりくねり、狭く、険しいのです。
しかも、差別されている目しいの彼に手を貸す人などいなかったでしょう。

つばきでどろを作って目に塗ったから奇跡が起きたのではないと、僕は思います。
彼は、見えなくても聞こえていました。
弟子たちが「本人の罪ですか、両親の罪ですか」という心無い言葉を投げつけたときに、
「罪ではない。神のみわざが彼のうえに現れるため」と言ったイエスの言葉。

まさにかっこちゃんが言った、
「みんな大切、そしてみんな平らかなんだ。
誰もが、いつも自分を好きでいていいし、そうであるべきだとも強く思う」
そんなイエスの愛の言霊とエネルギーが、彼の心の中に湧きあがる命を呼び起こしたんだ。

イエスのつばきや、シロアムの池の水に秘密があるんじゃない。
人は、苦しみの闇の中に「希望」という光を見出した時、命が輝く。
そして「奇跡」と呼ばれる現象を起こすのだと、僕は思う。

でも、「奇跡」は自然にも宇宙にも反していない。
ただ、僕たちの常識に反するだけだ。

聖書は、そのあと目が見えるようになった彼に対して、誰も喜ばず、安息日にそのようなことをしたという理由で、イエスはやがて十字架に送られてゆく。
宗教という名のこだわりが、本当のことを妨げるとしたら、悲しいことだね。

「イエスさまは、ダビデがかけた呪いを解いてくださったんだなぁ」

バラさんの声が聞こえるよ。

かっこちゃんはイスラエルで言っていたね。
「旧約聖書の神様は、洪水で世界を滅ぼしたり、ソドムとゴモラを火で焼き尽くしたり、振り向いただけでロトの妻が塩の柱にされたり・・・もう、怒りんぼうすぎる!!」って。

科学が万能だと言って、測定できないものは「ない」ものとしてしまう今の時代も、旧約聖書の時代も、イエスさまの時代も、人はあんまり変わっていないのかも知れないね。

どんなときも「知らないことも知らない世界」が無限に広がっているのだから。
静かな内なる呼びかけに、心の耳を澄ましていたい。
そして、
いつも喜んでいよう。
絶えず祈っていよう。
すべてに感謝しよう。
 対話することは、自分の内側の静かな声に気づくことでもあるのですね。
かっこちゃん、このイスラエルでもっと聖書が深く語りかけてくれるようになったよ。

ありがとう。

では、またね。       高仁


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