100 「ノーモア マサダ」 かっこちゃんへ
かっこちゃん、ただいま。
イスラエルへの旅も37回目となりました。
29歳で初めて彼の地を踏みしめて以来、36年の時が過ぎた。
思えばずいぶん通い続けたものです。
イスラエルは訪ねる度に新たな気付きがあり、僕の人生の羅針盤となっています。
参加してくださる旅の仲間たちと紡ぎ出す、聖なる一度きりの芸術作品のような旅。
魚に水が見えないように、日本人に日本が見えない。
そして、人には自分が見えない。
だから、旅に出て見えるのは、普段見ることができない自分自身でもあるのです。
今回の旅は、30代、40代の子育て世代のお母さんたち。
去年2月に初めてイスラエルに来てくださった一人のお母さん(大学生の息子さんと参加)、自分が想像していた世界とあまりに違う現実のイスラエルにカルチャーショックを受けて、仲間たちに体験させてあげたいと、彼女が主宰する塾の仲間を集めてくださいました。
みなさん母であり、妻であり、仕事があり、「行く」と決めることも容易ではなかったでしょう。
しかも、連日TVで報道されるイスラエルの報道は、ことさらに危険を煽り立てるものばかり。
夫に、親に、子どもに「行かないで」と言われたことでしょう。
だからこそ「行く」と決めた時から旅は始まったはずです。
僕も初めてのイスラエル、糸川英夫博士の誘いにもかかわらず「次の機会に」と言ってしまいました。
すると、糸川先生は「人生に次の機会なんてありません」と言われました。
12月の半ばに誘われて出発が1月4日、とても2週間も会社を休めません、と、またいけない理由を言ってしまいました。
糸川先生は、「あなたが2週間いなくてダメになる会社なら、いずれ潰れますから、早く潰した方がいいですね。」強烈な言葉をいただきました。
友人の結婚式があるんです、とまたもや行けない理由を言いました。
「あなたの結婚式じゃないなら、あなたがいなくても終わりますよ。
それに、あなたのスピーチなんて誰も覚えてやしない。
エルサレムから電報でも打ってごらんなさい、ずっと記憶に残りますから」
糸川先生が3回も僕に「行きなさい」と言ってくださって、ようやく決めることができた。
そのときの旅が、僕の人生を根っこから変えることになる。
それは、まるで神さまの御業のようだ。
あのとき、一歩踏み出してなければこの魔法の文通もなかったのかも知れないね。
かっこちゃん、今回の旅ではとてつもなく大きな衝撃を受けました。
17年前、かっこちゃんとの最初の旅も開催が危ぶまれる状況でしたね。
レバノンからヒズボラというパレスチナのテロ集団からミサイルがイスラエルへ打ち込まれて、北部の人々が避難していました。
僕たちが行ったときにはすでに2,500発のミサイル攻撃があり、最終的には5,000発が飛んできた。
だから、どこの観光地も人がいなかった。
日本人のガイドさんもみんな帰国、たった一人を除いて。
そのたった一人のイスラエルでの日本人ガイドが榊原茂さん、バラさんとの出会いとなりました。
今またヒズボラの攻撃で北の人々が避難して、ティベリアもエルサレムもホテル生活する人たちで満室。
ホテルの手配が大変でした。
それに飛行機も次々と欠航となり、手配をやり直すのも2度、3度。
かっこちゃん、少し厳しい話になるけど聞いてください。
2023年10月7日、ガザのパレスチナ自治区からイスラエルへ侵入した武装テロ集団ハマスは、音楽のイベント会場を襲撃したのです。
1200人のユダヤ人が殺され、251人が人質に取られました。
11月の1週間の停戦中、105人が解放されましたが、120人が未だ行方不明。
拉致されている人質解放のため、イスラエル軍が活動しています。
ガザの地下には500キロを超えるトンネルがあって、どこに拉致されているのかわからない。テロリストたちもどこにいるのかつかめない。
世界で最も強力なイスラエルの諜報組織「モサド」があらゆる手段で探り、突き止め、攻撃する。一般民ができる限り傷つかない方法で。
男性の身体はバラバラにされ、手足を切り取る映像がイスラエルに送られています。
女性の死体は、ほぼ全員に酷いレイプの跡があり、14歳の女の子は、あまりに激しいレイプのため腰の骨が砕けていました。
妊娠していたユダヤ女性は、お腹が切り裂かれ、胎児が放り出されていました。
娘を殺された父親と会いました。
娘の写真をTシャツにして、涙ながらにその時の状況を語ってくれました。
空軍の高官まで務めた僕の友人が旅の仲間たちにこう話してくれた。
「あのホロコーストが二度と起こらないようにイスラエル国は建国された。
でも、建国以来初めてイスラエル国内で虐殺が起きたんだ。
どれほどのショックか。
イスラエルは眠っていた。
もう一度原点に返って、強くあらねばならない」
かっこちゃん、彼のお母さんはアウシュヴィッツの生き残りで、18歳で一人イスラエルに帰還した。
家族全員ガス室で殺されたんだ。
お母さんに会ったこともあります。腕には数字の入れ墨があった。
かっこちゃん、TVや新聞はイスラエルがガザでパレスチナの人たちを殺していると報道しているよ。
イスラエルの友は、そのあとこう言った。
「こんなときにイスラエルへ来てくれてありがとう。
イスラエルが見捨てられていないと信じられる。
友情に心から感謝する」そして、泣きました。
イスラエルは、西暦73年、一度滅びました。
「勇気ある立派な戦士諸君、われわれはかつてローマ人にも神以外の他のいかなるものにも、奴隷として仕えないと決心した。
というのも、神だけが人間の真実で正義の主人だからである。
今われわれの決意を行動で証しする時がきた。
今われわれが生きながらえてローマ兵たちの手に落ちれば、奴隷にされるのはもちろんのこと、間違いなく手ひどい仕打ちを受ける。
われわれはローマに反旗を翻した最初の者であり、ローマ兵たちと戦う最後の者となった。
私は信じる。われわれは自由の戦士として立派に死ねるこの恵みを神から与えられているのである、と。
(同志諸君!)われわれの妻が辱められる前に、子が奴隷の身を経験する前に、彼らを天に送ろうではないか。そして彼らが逝ってしまったら、われわれも自由を埋葬用の高貴な包み布として保持しながら、互いに相手に対して寛大な奉仕をしようではないか。
しかし、そうする前にまず、我々の持ち物と要塞を焼き尽くそう。
そうすれば、私にはよくわかるのだが、ローマ兵たちは、我々の肉体を制圧できないために、また期待したものにありつけないために嘆き悲しむであろう。
だが食糧だけは残しておこう。なぜならそれは、我々が死んだ後も、決して我々が食糧不足のために屈したのではなく、最初の決意通り、奴隷になるよりも死を選んだことを我々のために証してくれるからである」
(ヨセフス・フラビウス『ユダヤ戦記』)
イスラエルで必ず訪ねる場所が、マサダです。
ここに日本人を導くのが、僕の使命でもあると思っています。
「マサダ」とは、ヘブライ語で「砦・とりで」という意味です。
死海のほとりにある自然の要塞であるマサダは、イエスキリストが地上で活動していたころ、イスラエルを統治していたヘロデ王の冬の宮殿があったことでも知られています。
建築の名手でもあったヘロデ王は、マサダにいくつもの貯水槽を作り、漆喰で塗り固めて水が漏らないようにして周囲の山々に降った水を集め、貯水しました。
年間降水量100ミリほどの荒野で、10年分の水を蓄え、農耕、牧畜をすることによって完全なる自給自足ができたのです。
エルサレムで反乱が起きたりして、危険が迫ったときにヘロデ王はマサダに逃げ込むつもりだったのでしょう。
高さ400メートルの頂上が平らに切り取られたような自然の要塞であるマサダは、ユダヤ民族にとって決して忘れてはならない重要な場所です。
西暦73年、マサダでローマ軍との戦いに敗れたイスラエルは崩壊、ユダヤ民族は世界に散らされることになったのですから。
西暦70年、ローマ軍によりエルサレムは陥落。
ユダヤ民族の魂の支えともいえる神殿も崩壊しました。
虐殺され多くの民が命を奪われました。
生きて捕えられたユダヤ人は奴隷として連れられてゆきました。
あまりの奴隷の数に奴隷市場の価格も暴落し、ユダヤ人一人は羊一匹より安くなったと記録に残っています。
エルサレムは陥落したけれども、最後の最後まで徹底的に抗戦すると覚悟を決めた熱心党の人々は南に逃げ延び、マサダに閉じこもったのです。
その数967名
彼らは、マサダで自給自足の生活をしながら、迫りくるローマ軍を迎え撃つ備えをしていました。
やがて、ユダヤ人の残党と最後の一戦を交えるべくローマ軍がやってきました。
ローマ軍は、マサダの麓に駐屯し、いくつもの陣地を作ってゆきます。
400メートル上の平らな山頂に籠るユダヤ人たちは、ローマ軍の動きが手に取るように見えます。
8つの駐屯地にやってきたローマ軍の兵士の数は、およそ1万。
ローマ軍は、駐屯地と駐屯地の間に石の壁を作り、ユダヤの反乱軍が一人も逃げられないようにしました。
難攻不落の自然の要塞です、ローマ軍も攻めあぐねます。
しかし、土木技術においても世界最強のローマ帝国です。
付近の山を崩し、マサダの頂上めがけ道路を築造してくるのです。
日に日に道路は伸びてきます。
ユダヤ反乱軍は、山頂から石の砲弾を投げたり、煮えたぎる湯をかけたりと抵抗を続けます。
3年もの間立てこもり、抵抗を続けてきたユダヤ反乱軍ですが、ある日を境に攻撃を中止しました。
道路を作る工事の最前線で働いているのは、エルサレムから連れてこられたユダヤ人奴隷だったのです。
マサダから攻撃をするということは、同胞を傷つけることになる。
もはや逃げ出すこともできず、ただ、ローマ軍が攻め込むのを待つばかりとなってしまったのです。
もはや万事休す、これまでだ。
もう数日で攻め込まれるに違いない。
そんなとき、ユダヤ反乱軍の司令官エリエゼル・ベン・ヤイールは、男たちをシナゴーグに集めて演説をするのです。
演説を聞いた男たちは、それぞれの家に帰って、愛をもって家族を殺しました。
再び男たちは集まり、10人を選ぶくじを引きます。
ユダヤ教では「殺すな」というモーセの十戒は掟の中の掟です。
なかでも自殺は最も重大な掟破りになるのです。
自殺者は、家族と同じ墓に入ることも許されません。
せめて自殺者は出さないようにと、彼らは考えたのでしょう。
選ばれた10人が、男たちを刺し殺しました。
10人の中から最後に一人が選ばれ、
残りの9人を刺し殺します。
最後の一人は、地面に剣を立て、それに突っ伏して死にました。
マサダの発掘現場から、その時のくじ引きの証拠が見つかっています。
3年間の鬱憤を晴らそうと、虐殺に息を弾ませてマサダに乗り込んだローマ軍が見たものは、静まり返った要塞に山と積まれた武器弾薬に食糧。
そして、ユダヤ反乱軍と家族の亡骸でした。
荒野である死海のほとりにあるマサダの貯水槽には、10年分の水が蓄えられていました。そんな貯水槽の一つに、二人の女性と五人の子どもが隠れているのが見つかりました。
彼らの証言で、マサダの最後の状況が伝えられたのです。
恐らく、ヤイール司令官はユダヤ民族の最後の姿を伝えさせるため、彼らを逃がしたのでしょう。
聞き取った話を、ヨセフス・フラビウスの「ユダヤ戦記」が伝えています。
マサダの3年にわたる抵抗を最後に、イスラエルは滅びました。
イスラエルは、世界の地図から姿を消すのです。
ユダヤ民族の流浪が始まったのです。
2000年にわたり国を持たない民族が、世界の各地で生きてゆきました。
ユダヤ民族としてのアイデンティティを失わずに。
それは、人類の奇跡というよりほかありません。
イスラエルは、1948年5月14日再び建国されました。
ユダヤ人国家です。
現在イスラエルでは、国民皆兵で18歳になると男女とも軍隊に入ります。
そして、入隊式が行われるのがマサダです。
「われわれは、何のために戦うのか。
再びマサダの悲劇を繰り返さないためだ。」
ノーモア マサダ!
マサダにはためく巨大なイスラエル国旗。
僕は、そこに立つたびに思い出します。
わが師、糸川英夫博士の言葉を。
「わたしは、ひとりでも多くの日本人にマサダに来てもらいたい。
話で聞くだけではだめだ。
ここにきて、国を失った民族の哀しみを感じれば、
国があることの有難さに感謝できるでしょう。」
糸川英夫博士の言葉を胸に刻み、1999年糸川先生昇天の後も私はイスラエルの旅を続け、
マサダに上っています。
そして、語り続けています。
命ある限り、伝え続けます。
それが、僕のライフワークなのです。
かっこちゃん、イスラエルの平安を祈ろう。
人質の無事を、一秒でも早い解放を念じよう。
イスラエルの攻撃と報道されて、イスラエルの哀しみを伝えられないもどかしさに心が破けそうだよ。
シャローム、シャローム イスラエル。