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10年目の春に思うこと。

東日本大震災の発災から10年。もう10年か、まだ10年か。
いずれにせよ、震災の記憶が自分の生き方に影響を与えていることは間違いないのだろうと思う。

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発災当時、中学校の卒業式を数日前に終えて、両親はどちらも出勤していて、揺れが来たときは実家に1人で、経験したことのない揺れ方だったことは今でも覚えている。だんだん大きく、しかも長く揺れる中で、「閉じ込められるのは避けないと」と玄関のドアを開けに行く判断を咄嗟にしていた。

いくつか本やものが棚から落ちたぐらいで、電気も水道もガスも設備に損傷がなかったのは幸いだったけれども、その日は陽が落ちても、大津波に襲われる市街地、沿岸部の火事、「被害の全容を把握するには数日かかりそうです」と話すアナウンサーが映し出されるテレビを呆然と眺めるしかなかった。

交通は止まっていて、母は発災の夜に、父は翌朝になって帰ってきたんだったかな。東北の親戚に電話が全然つながらなくて、冷や汗をたくさんかいたけど、メールで「まずは無事です」と一報あったときは本当に安心した。

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その夏、その親戚に連れられて、被災地を何か所か回った。
がれきが片づけられ、その山以外は何もなくなった、静かな風景はちょっと怖かった。人のいない土地というものを見たのはこのときが初めて。
街があった跡だけが残っていて、「ここに人は戻ってくるのかなぁ」とも思った。

秋には、地元新聞社が発行した全記録の冊子を送ってくれた。「忘れたくない」と思って、今も自宅の本棚に入っている。

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3年目の春、高校の卒業式の答辞で、同い年の被災地の生徒が読んだ言葉を借りた。

「困難なときこそ、支えあって乗り越えることがどんなに大切か、私たちは学び、今も復興に向かってたすけあっている」
「私たちの世代が復興した新しい社会をつくるときがやってくる」

あれからさらに7年が経った今、果たしてどうなのだろうか。

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大学生になり、献血に通うように。
「見知らぬ誰かのために、自分ができることを」という想いで今も続いているのは、やはりあの日があったからである。

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6年目の春、当時はとても話題になった銀座の広告を見に行った。
東京のビル街のど真ん中、たくさんの人が行き交う場所で、「もし今…」と考えて身震いがした。

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6~8年目には、大学生協のつながりで東北地域の学生と話す機会がたくさんあった。中学から高校にかけて震災を経験した世代。「あの日をどう語り継ぐか」「復興にはまだ時間はかかっても、東北のためにはたらきたい」と語る彼らのハートはアツかった。同時に「でも実際どうなっていくんだろう」と想定よりも進まない再生を憂う目もしていた

彼らの多くが実際に東北地域で社会人として今日もはたらいている。「橋が開通した!」などの報告をFacebookにアップしている友人のおかげで、着実に前進していることを感じる。
「まだ学生をしている自分には何ができるんだろうか」ともやもや考えていた時期でもある。

「社会のために仕事したい」と強く思うようになっていったのもこの頃かな。

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10年目の春に社会人になるということ。10年前の記憶と感情を今でも覚えているということ。
10年という節目も、震災があって日本社会全体で乗り越えてきたことも、美化するつもりはないけれど、これからの10年、もしかしたらもっと先のことを考えていくとき、自分たちの存在はきっと大事になるだろうと思っている。

コロナがなければ、10年前に見たあの場所の今を見に行きたいと思っていた。さすがにそれは叶わず。10年目の14時46分は、昨年と同じく研究室で向かえた。この10年を思い返しながら黙とうした。

自分が生きている場所で、自分にできること・任されることに一生懸命に取り組むことが誰かのため、社会のためにつながっていると信じて、人と人はたすけあえる存在であることを信じて、また明日からも頑張ろうと思う。

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