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egg(58)

 
第三十二章
 
「お父さんなんて嫌い。大っ嫌い」
暗闇の中で、わたしこと高藤由美は布団をかぶって不貞腐れていた。
 
昨晩、部屋でバレエをしていたら、外から帰宅したらしいお父さんが乱暴にドアを叩いて、いきなりわたしを叱りつけたのだ。
「おい、何時だと思ってるんだ! 真夜中に2階でドタバタ踊るやつがどこにいる? そんなに踊りたいならまたバレエを習わせてやるから、その部屋から出て来なさい! お母さんもノイローゼ寸前だ! かわいそうだと思わないのか!?」
わたしは流れる汗をタオルで拭いて、声がする方をむっとして見た。いくら空間を遮断しても、音までは消せない。
「うるさいな……」
と向こうに聞こえないくらいの声でぼそっと悪態をつくと、ヘッドホンをつけてラジカセのスイッチをオンにした。途端にAMラジオのにぎやかなトークが始まる。わたしはお父さんのことは全無視して、不貞腐れたまま布団を頭から被ってラジオに聞き入った。
そのあとしばらくの間、ドアをバンバン叩く振動が伝わってきたが、じきに聞こえなくなった。
 
そのまま眠ってしまったらしい。ふと目を覚ますと、今度は玄関の外からお父さんの怒鳴り声が聞こえてきた。
「近所迷惑な人だ」
うんざりして悪態をついた瞬間、お父さんが「哲治!」という言葉を発した気がして、わたしはベッドからがばっと起き上がった。
「……?」
板を打ち付けた窓に近づいて耳をそばだてる。ハスキートーンの女性の声も聞こえる気がする。途端にバイト先にやってきたお母さんそっくりの若い女性をまざまざと思い出した。
「お兄ちゃん……?」
思わず口からこぼれ落ちた言葉に、わたしは背筋がぞくぞくするのを感じた。
ドキンドキン! 
高鳴る心臓の音がうるさくて、くぐもった外の声がますます聞こえなくなる。わたしは痛いくらいに耳を板に押し付けた。
 
車が立ち去り、家の周りはしんと静かになった。お父さんとお母さんが出かけたようだ。
 
何がどうなっているんだろう。
お兄ちゃんが来たのかな。
わたしのことには気がつかないで帰っちゃったのかな……。
叫んだら気がついてもらえたのかな。
お兄ちゃんと話したいことがいっぱいあるのに……。
 
目から涙がぽろりぽろりと転がり落ちる。窓に打ち付けた板にしがみついて、涙が床に落ちるに任せていると、階段を上がって来るぎしっぎしっという音が聞こえてきた。
そして。
 
トントントン。
 
と、ためらいがちにわたしの部屋のドアを軽くノックする音がした。
 

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