ナイツが新百合ヶ丘で漫才を教えていた?
小田急線「新百合ヶ丘」がかつて「お笑いの聖地」だった、という記事を、少し前に書いた。
新百合ヶ丘駅前の「日本映画学校」で内海桂子・好江が講師を務めていた。そのクラスが、マセキ芸能社への登竜門になっていた。
そこから、バカリズム、狩野英孝、ニッチェらが巣立って行った。
ーーという内容だ。
ところが、それに関して、昨日の狩野英孝に関するスポニチ記事で、新事実が書かれていた。
ナイツも、新百合ヶ丘でお笑いを教えていた、というのだ。
(狩野は)宮城から上京し、エンターテインメントを総合的に学ぶ専門学校に入学。そこで、お笑いの講師に「ナイツ」が来たことで、「お笑いを教えていただく中でおもしろいなと思って」と興味を抱いた (sponichi 3月11日)
日本映画学校が「エンターテイメントを総合的に学ぶ専門学校」になっているのはどうかと思うが、それはともかく、講師に「ナイツ」が来ていた、というのは、私の調べでも出てこなかった。
上の私の記事で言及した、塙宣之氏が内海クラスのことを話した動画でも、そのクラスに自分たちが出講していたとは話していなかった。
ナイツ(塙宣之、土屋伸之)と内海桂子との関係を考えると、内海のクラスに出るのはありうる話ではあるが、タイミング的にはかなりきわどい。
というのも、狩野が日本映画学校に入学したのが、2000年4月。
ナイツの結成も2000年4月だが、よく知られるように、塙宣之氏が交通事故で重傷を負ったため、実際のデビューは2001年になった。
日本映画学校は3年制だ。狩野が2年次(2001)、ないし3年次(2002)にナイツの講義を受けたのかもしれないが、ナイツはデビューしたてである。20代前半の彼らに講師が務まったのだろうか。
もっとも、ナイツは、創価大在学中から活動していたし、塙宣之の兄の「はなわ」は、その頃もうテレビに出ていた。だから、すでに業界の「プロ」として講師を務めても、おかしくはなかったのかもしれない。
ちなみに、塙宣之は1978年3月生まれ、 狩野は1982年2月生まれ。どちらも早生まれだが、4年の年齢差だ。
ナイツが講師に来ていたのだとしたら、バカリズム(升野英知、松下敏宏)はどうなのだろう。
コンビ時代のバカリズムは、コンビのどちらも日本映画学校出身で、狩野が在学していた頃にはテレビで活躍していた。升野は1975年生まれで塙よりさらに年上であり、OBとして母校・日本映画学校に教えに来ていておかしくない。
そういえば、升野と狩野は日本映画学校で重なっていないにもかかわらず、狩野の学校時代の話を升野はしている。それが、ちょっとおかしいとは思っていた。卒業後に、講師として教えに来ていたとしたら、学生時代の狩野を知っていても辻褄が合う。
いずれにせよ、上記の記事を書いたとき、ナイツは新百合ヶ丘とは関係ないと思っていたが、日本映画学校で教えていたのなら、ナイツも、もう新百合ヶ丘関係者と言っていい。
前の記事で、狩野英孝とバカリズムとニッチェの銅像を新百合ヶ丘駅前に立てろと言ったが、ナイツも加えていいかもしれない。
ナイツの講師は一時的なものだったのか。継続的だとすれば、いつ頃まで新百合ヶ丘で教えていたのか。バカリズムも講師に来ていたのか。そのあたり、柿生郷土資料館に調べておいてほしい。
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