日本人の「死に水」としてのガリガリ君
アイス半額最終日
きのう(31日)は業務スーパー「アイス半額」の最終日ということで、熱中症で死ぬかもしれんと思いながら、自転車こいで業スーへ行った。
いや、実際、死ぬかと思いましたよ。暑かった!
でも、考えてみると、毎年、死ぬような思いで業スーの「アイス半額」セールに行っている。
2年前にも私はnoteに書いている。
クーラーに「赤城しぐれ」と「ガリガリ君」を詰めれるだけ詰め、店を出るとすでに暑い。クーラーに入れているとはいえ早く帰らねば、と自転車を漕ぐうちに、やはり暑さだろうか、道に迷ってしまった。
いかん、アイスが溶ける、と焦るほどに混乱する。一時は「熱中死」も覚悟した。
ニュース記事が頭に浮かぶ。
「今日も猛暑が襲う中、東京都町田市で熱中症と見られる老人が倒れているのが発見されました。自転車での買い物帰りとみられ、荷台から溶けたアイスが大量に道路に流れ出していました。病院に運ばれた老人は間もなく死亡が確認されました。亡くなる前に「ワクチン1回分の摂取を無駄にしてしまった。残りのもう1回分は誰かに回してほしい」などと言い遺しました。」
そうか、2年前は、ちょうど最初のワクチンを打ったころだった。
そして、2年前も猛暑だったのだ。
しかし今年は、一説には十何万年ぶりの猛暑だ。今年はマジ死ぬかもしれんと思った。
でも、これを書いているわけだから、私は死んでいない。
そして、今年も結局、私は「ガリガリ君」を買えるだけ買ってきたのだった。
無意識に「ガリガリ君」を買っている
とくに意識して「ガリガリ君」ばかり選んでいるわけではない。
きのうも、出かける前は「ガリガリ君」は頭になかった。
しかし、炎天下に肌を焼かれ、意識が遠のきそうな暑さで死を覚悟したとき、「ガリガリ君」が脳裏に浮かんだ。
日本人は、死を意識したり、死に直面したりすると、無意識的に「ガリガリ君」を欲するのである。
これはもう、日本人の遺伝子に刻まれているようだ。
ガリガリ君は、日本の緩和医療の現場で使われている。
数日前も、ガリガリ君が、終末期の患者への「食事」として評価されている、という記事が載っていた。
ガリガリ君自体の食べやすさは、緩和ケア医の廣橋猛氏が2022年11月22日に「体力が弱って飲み込みが悪くなり、食事が難しい終末期の患者にとって、救いの神」として紹介したことで話題となった。
赤城乳業も取材に対し「カップ商品に限らず、ガリガリ君全般として『冷たくてさっぱりしている』『かき氷が少しずつ口の中で溶けるのでむせにくく、飲み込みやすい』などを理由に、緩和医療の現場で役に立っているという声は以前からいただいておりました。2019年に日本緩和医療学会よりガリガリ君へ感謝状をいただいております」と、以前から緩和ケア患者への食事として評価する声があったとした。(J-castニュース 7月28日)
上の記事では、終末期患者に対し、ガリガリ君が優れている点として、
「冷たくてさっぱりしている」
「かき氷が少しずつ口の中で溶けるのでむせにくく、飲み込みやすい」
などを挙げている。
それとともに、元気で陽気な商品パッケージが、日本人に「極楽往生」のイメージを伝えるのではなかろうか。
「死に水」とは、仏陀が死の間際に水を欲した逸話が元になっている。
死に水・末期の水(しにみず・まつごのみず)
仏教における考え方で、もとは仏陀が死の間際において水を所望したという、末期の水という逸話が元となり、亡くなった後(もしくは直前)、綿などに水を含ませて故人に与える事、長じて故人の最期を看取る意味合いも含まれる。
そのため、死に水を取るのは個人の臨終の際に立ち会った近親者全員が行う場合が多い。
(美郷石材株式会社HPより)
https://www.misatosekizai.co.jp/word_houyou/ma/matugono_sinimizu.shtml
日本人は、死の間際にガリガリ君を欲する。
もちろん、我々は昨年、アントニオ猪木が死の床でガリガリ君を食べたのを忘れていない。
「ガリガリになった猪木がガリガリ君を食う」という猪木の最期のジョークを忘れていない。
ベッドに横になっていた猪木さんが車いすでテーブルのところまで移動し、撮影スタッフの前で砕かれた状態でコップに入れられたガリガリ君をスプーンですくって口に運んでもらっていた猪木さん。スタッフにもガリガリ君を勧めることも忘れなかった。(2022年10月7日 日刊ゲンダイ)
ガリガリ君は、日本人の「死に水」になったのである。
(臨終の場で、逝く者と送る者、みんなで仲良くガリガリ君を食べる、というのを日本の新たな風習にすればどうだろう。「死にガリを取る」なんつーて。平和な心境になれる気がする。「ガリガリ教」みたいになるね)