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「環境問題」とどう向き合うか

お仕事の中で環境問題についてふれることが出てきたので、少し考えをメモしておきたいと思います。ここで結論を出すことはせずに、考える過程を記録しておくことにします。

「地球にやさしく」するための環境保護

「環境問題」という言葉には複雑な響きを感じる。単に環境の汚染や変化という意味だけではなく、それを問題としているという視点が入っている。科学におけるどんな問題もそうなのかもしれないけれど、問題を提起し、捉え、解決しようとする人がいる。そうした人々の気配をこの言葉からはまず感じる。

私の人生史においてこの言葉が出てきたのは確か小学生くらいのときで、2000年台初頭の頃だった。節電、節水が重要だと言われていて、水質汚染に注目が集まっていた。授業でも川の水質を調べた記憶がある。

地球温暖化については新聞の一面広告などで出てきて、二酸化炭素が原因かどうかわからないけど、とにかく減らしたほうがよさそうということらしい、という話をどこからか聞いた。

当時の代表的なスローガンは「地球にやさしく」で、環境問題に関するコミュニケーションや広報活動には「地球がかわいそうだから環境を守らなくてはいけない」というメッセージにあふれていた。

「やさしく」ってなんだよ…と思い始める

そのうちもう少し自我がはっきりしてきて、「地球がかわいそうってどういうことなんだ」と反感を覚え始め「環境問題に取り組むのは地球のためではなくて人間のためなんじゃないか。こんな伝え方はおかしい」といつからかスローガンに文句を言っていた記憶がある。

環境が変化すること自体はあるのだから、それを維持しようと言うのは人間の勝手な都合である、人間だって自然の一部なのだから環境を変化させることくらいあるだろうというのがこの辺までの私の認識だった。「地球にやさしく」スローガンに対する反感が少し暴走気味である…。

(中学生くらいの時は何かと「本当」「本物」にこだわっていた。高校受験の面接では中学生時代に印象に残った人を問われて「本当の優しさを教えてくれた人」について話していたくらい。その時期とスローガンで「やさしさ」が使われる時期が重なり、余計に「やさしさってなんだよ」という気持ちが増幅されてしまったようである。。)

環境の人工的な変化に対して悲しみを感じてはいた

私の育った場所はいわゆる自然豊かな場所で、山と川に冗談ではなく挟まれている地域で、中学生くらいまで山と川で本当に遊んでいた。川には堆積する土や枝、葉で陸地や坂道が形成されていて、そうした陸地の形を捉えながら歩くのも楽しみだった。

ところが、この陸地がメンテナンスのために全て押しのけられてしまった。好きな陸地で、魚もいて植物もあって、蛇もたまに流れてきて、そこにしかない生き物の落ち着きどころがあると感じていたので、それらが全て重機で押しのけられるのは見ていても辛かった。

陸地がどんどん大きくなると川が氾濫するのだろうから、メンテナンスは必須なのだと思う。周りやその先に住む人々のことを考えると有効なのかもしれないけれど、悲しいなとは思った(それが環境保護や問題と直結しているのかどうかは今もわからない)。

人間のための環境問題へ

文化的背景のようなもの

中学生から高校生くらいになると、「地球にやさしく」という少し擬人化的な表現を目にすることが少なくなり、代わりに人間が自然に影響を与えている、といった人間と自然を対極的にみなすスローガンが増えてきた。社会全体の流れかもしれないし、ターゲット層として少し年齢が高くなったからかもしれない。

高校生になって、評論の授業や問題集で事物を主体である人間とは切り離して客観視する、というのがドイツかどこかの哲学者の考え方である…というのを読んだ。それでなんとなく、この人間と自然を切り離す考え方は日本で生まれたものではなくて、ヨーロッパやアメリカの文化圏で生まれたものなのではないかとうっすら感じた。なぜそれらの地域で生まれた考え方が日本に直輸入されているのかまではわからなかった(今もはっきりとはわからない…)。

環境問題はおおごとである

大学生以降になると、国際的な機関が旗を振ることで環境問題を議論していることがわかってきた。2019年にはグレタ・トゥーンベリさんが "How dare you!" とスピーチしたことでかなり大きな波紋が広がった。環境問題はスローガンでなんかいい雰囲気になることではなく、マジで結構やばいことなのだと、多くの人が突きつけられたように感じた。

当時私は修士1年で、私たちよりも下の世代は本当に未来に対して危機感と怒りをもっているのかもしれないなと思った。今まではスローガンを聞いたり節電・節水など「私たちができること」は選択式というか、本当に小さいことに思え、なかなかこれといった解決策が見えていなかったので、正直なところ「よく言った」と思った。その直後に自分の年齢を思い出し、解決のために何もやっていない側だと認識して罪悪感を感じた。

こうした下の世代からの突き上げに情けなさを感じつつ、もはや一人一人の努力ではどうにもできない側面があるようだとまたもうっすらと感じはじめた。各国の首脳が集まる場所で怒りを見せることが社会に大きな衝撃を与えている、という時点で、つまりはその場所のような国際社会上の大きな舞台で言われるようなことやその背景が、環境問題に大きな影響を与えているのだと思えた。

環境問題を取り巻く人々

Twitterで見えたものと敬遠

この頃からTwitterを始めていて、いろいろな意見を見るようになった。環境保護として取り組まれていることが実は悪影響を与えている例を見た。環境保護のために運動する人たちも見た。それらの人を批判するアカウント群もあった。過激と言われる活動もあった。環境保護について活動するよりも勉強することを優先したほうがいいと投稿するアカウントもあった。ニュースでは科学者による警鐘が流れる。人間は生態系から恩恵を受けているという視点もあった。率直に言えば、結構、カオスだ。

環境問題というテーマで話をしているとみられる人々も、その立場によって感じ方や考え方、拠り所にしているものが異なっている。信条、大事にしたいものや優先するものが人によって違っていて、「地球にやさしく」といった一つの言葉でまとまれるような状況ではなさそうだという感じがした。この時点でだんだん環境問題という言葉がセンシティブであまり近寄らないほうがよいもののように感じられてきた。

社会の話じゃなくて自分の話

こうしたカオスを一旦引き受けた上で自分なりにぼんやり概観を描こうとしてみると、やっぱりどう考えても人間が他の生き物やひっくるめて「環境」と生きていることは間違いがなく、21世紀を生きる人間として環境問題は少なくとも無視はできないことだと思った。またサイエンスコミュニケーションを少しだけさわった者としては、サイエンスに関する情報伝達という観点でも気になった。環境問題は社会問題で、私はその社会を生きているのだから、私の文脈というべきか、人生史にも環境問題が結びつく点があるなと思った。

それで環境活動の原点とも言えそうな感じがしたのでレイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー』を読んでみた。環境活動に関する基本的な姿勢を垣間見ることができ、名著には間違いなかった。ただ私に取ってはエモーショナルすぎて、またカーソン自身の信条や前提となる価値観がしっかりとあり、信条や価値観が異なってしまうと話が成り立たなくなってしまうように感じた。

それで少し建設的に環境問題というものを、スローガンや意見、情報を一方的に受信するのではなく、信条や価値観を一度置いておいて、自分でその情報源まで遡って一度整理したいという気持ちが出てきた。エモーションやメッセージになる前の、実際に起きていることを冷静に一度、観測できている範囲でもいいから整理したほうがいいと思った。誰かが情報として伝えようとする前の現状把握をやっておくことに、一人間としてもコミュニケーターの端くれとしても必要を感じた。そうでないと、誰かの演出したメッセージに自分の行動が束縛されてしまう。

今まで受信してきた断片的な情報によると、環境や人間はどうやらこのままだとやばいらしい。どのくらい何がやばいと、誰が言っていて、その予測はどのくらい妥当なのかを知っておいたほうがいい。環境から人間はさまざまな恩恵を受けているから、単純に人一人の考え方で同行できる問題ではないことを知った上で、とりあえず身の回りで何が起きていて、その情報はどこから取ってこれるのかくらい知っておいたほうがいい。それは誰かの物語に乗っかるためではなくて、自分が自由でいるためだ。

今年の目標に

というわけで、今年は環境に関して少しずつ調べ物をしている。誰かに行動を促したいわけではなくて、自分がただ納得がいかなくて、どうにも見通しが悪いからやっている。

こういうことに手が伸びたのは、科学関連の調べ物や執筆に少しだけ慣れ始めたからだ。科学がどういうもので、誰がどうやって論文を書いていて…といったところの解像度が中学生くらいのときよりは高くなっている。

周囲の環境が変わっていくことに対して、人々や社会がどのように反応するかといったことも気になる。どうして人間はずっと活動し続けてきたのに、21世紀になって環境を振り返り始めたのか。環境の変化は実際のところどのように起こっていて、人間がそれをどうやって感知して調べているのか。なぜこれほど環境問題がセンシティブに捉えられる現状があるのか。

環境のように、自分が生きる基本となることについて考えるのは正直辛い。環境に対する人間の在り方を考えれば考えるほど、存在を否定されているような気がしてくる。人間がいなければ問題提起する人も人間として自然影響を与える人もいないのだから、「環境問題」は解決以前にそもそもなくなるからだ。大体現実を直視するということが辛い。。

だから、できればそんな問題は気にしないで、衣食住満ち足りた状態で生きていたい。でも、どうにも無視できない状況になってしまった。これを解決することはおそらくできないが、人からのメッセージで動くのではなく、自分で自分の行動を決めるためには、状況を見ておくくらいはしておいたほうがよさそうだ。一年くらいはこういうことに集中してみる年があってもいいと思う。

2021年は自分の抱えていたモヤモヤを書き、2022年は今の社会をつくる科学や技術を書き…というところまで経験させてもらえた。今年2023年は、今の社会で起きていることを科学の観点を加えながら捉えるという年になってきている…かもしれない。


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かきもち
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