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淡路島から来たおじいさん
1995年(平成9年)1月17日、阪神・淡路大震災が起こりました。
地震発生当時、私は四国の部隊で勤務していたので淡路島に災害派遣で出動しました。
この話は、大震災が終わって約15年ぐらい経った頃の話です。
私は、兵庫県伊丹市の伊丹駐屯地で行われた中部方面隊創立記念行事に、善通寺の部隊から参加しました。その時、大震災とゆかりのあるお年寄りと感動的な出会いがありました。
兵庫県伊丹市にある伊丹駐屯地には中部方面総監部があります。
自衛隊は憲法の建前上、軍事用語をマイルドに表現しているため解りにくい名称がいくつもあります。その一つが部隊の名称です。中部方面隊と書いても世界標準用語ではないので部隊の規模がどれくらいなのか解りません。
しかし中部方面軍と書けば、軍事にちょっと明るい人なら数万の兵員を要する方面軍だと解ります。
方面総監部というのは自衛隊独特の名称で世界標準で言うと方面軍司令部です。中部方面隊と言うのは、陸上自衛隊に5つある方面軍(方面隊)の一つで、東海・北陸・近畿・中国・四国の2府19県の防衛・警備・災害派遣等を担当しています。
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私達、四国の部隊から見れば中部方面隊の本部のある駐屯地の記念行事は、年に一度実家でやる行事のようなものです。というわけで一家の主から声が掛かります。
「精一杯、盛りあげんかい!( ̄^ ̄)ゞ」というわけで、観閲行進・警備支援・アトラクション等の各種支援の割り当てがある訳です。
私は運よく観閲行進参加部隊から免れました。
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記念日行事の観閲式参加部隊は、方面隊内の全ての部隊が参加する訳ではありません。中部方面隊には37の駐屯地がありますから、全ての駐屯地の部隊が参加すれば、参加車両だけでも膨大な数になります。
そういうわけで方面隊内の、各師団・旅団等の部隊の中で「今年はお前の所が観閲式にでろ」「今年は参加しなくていい。」「勤務員だけでいい。」と言う感じの持ち回りになります。
私に回ってきた任務はイベント会場での「さぬきうどんコーナー」の責任者でした。責任者と言えばカッコいいのですが要はイベントコーナーの担当者に過ぎません。料金は取らずに体育館で行われている祝賀会食のうどんコーナーと屋外テントでのうどんの無料提供です。
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うどんのイベント要員の勤務員は、私以下約10名…うどんは、勿論、手打ちうどん!と行きたいところですが、手打ちうどんは早朝から準備してうどん玉を作るまでに相当な労力と時間がかかるので素人には無理です。
それに手打ちうどんだと、生のうどんを窯でるので10分はかかるのでイベントには適しません。
そこでゆで麺を湯通しして出す簡単な形式で臨みます。というわけで、うどん900食、たれ、ネギ、かまぼこなどの食材を、香川県で事前に買い込んで自衛隊の中型トラックに積載して伊丹駐屯地に出発します。
窯は自衛隊の野戦釜、その他の食器類は伊丹駐屯地隊員食堂にある糧食班で調達します。
さて、前日の準備ですが、場所は祝賀会食がある体育館の隣の広場のテント内です。運動会で良く見かける大型の白テントを二つ。体育館から借りた長机を10個ならべて野戦釜を設置して食器を準備します。
全ての準備が整うとその日は、伊丹市内に外出します。
そして、次の日、朝の7時過ぎから当時の準備に入ります。音楽隊やパレード実施参加部隊の車が走り回る中で、湯を沸かしねぎを切って態勢を整えます。服装は下はトレーニングウエア―に運動靴。
上は駐屯地のネーム入りの法被を着て頭には部隊識別帽子をかぶります。
準備を終えて、観閲式が始まるまでの2時間程度は駐屯地内のメインストリートの模擬売店などを見学してウロウロします。
そしてグラウンドで記念式典が始まると時間を見ながら、うどんを作りはじめます。予定数は900食、大半は体育館で行われる祝賀会食のうどんコーナー用で、屋外のテント内でもうどんを無料で配ります。
記念式典が終わり、アトラクションが終わると駐屯地内の道路には記念行事を見学してた人が溢れます。祝賀会食が始まると、一気にうどんを作らないといけません。
火事場の馬鹿騒ぎのような忙しさになります。体育館に約600食、わずが1時間程度の間に600ですからかなり忙しいです。
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祝賀会食が終わりに近づくころ、やっとテント内にも余裕が出て来ます。
テントでうどんを食べにくるお客は断続的にやってきます。そんな中、1人のおじいさんが珍しそうな顔をして私たちのテントに近づいて来ます。
私はうどんを勧めました。
「讃岐うどん、どうですか、無料ですよ。」
「ああ、美味しそうやな、じゃあいただこうかな…」
おじいさんは、上手そうにうどんを食べました。「ああ~うまかった。茹でた麺でも美味しいな。やっぱり香川のうどんはうまい。いやあ、ありがとうごちそうさん。」
食べ終わった後で、そのおじいさんは、私が被っている識別帽をジッと見つめて言いました。
「ところで…わしは淡路島から来たんじゃが…その帽子に見覚えがあってな~それは15連隊の帽子じゃと思うんじゃが…淡路の震災の時に、それと同じ帽子を被った自衛隊さんがようけ来てくれた。あんたが隊長さんかな?…」
「いえいえ、隊長じゃありませんが、私も淡路島の北淡町に行きました。小隊長の次ぐらいの役職でした。」
「ああ~やっぱりそうやったか…いやいやあの時はお世話になりました。うどん。ありがとうな~。おいしかったわ」
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そう言っておじいさんはテントから離れようとしました。ところが二歩、三歩、歩いて、なにか思い出したようにクルリと向きを変え私に近づいて来たんです。
「あっ、それとこれだけは言うとかんといかんなあ~」
「あんたらは、最後まで残ってようやってくれたな。淡路島を元通りにしてくれたのはあんたらや。ワシは死ぬまでこの事は忘れんからな。これだけは言うとくぞ」
「ありがとうございます。善通寺に帰ったらみんなに伝えます。」
私は丁重にお礼を言いました。震災が終わってもう15年の時が過ぎました。
最初に出動したのは津名町で、二回目の出動が大震災の震源地である北淡町野島地区でした。
大規模な災害の時は被災者は精神的余裕がありません。私の経験で言うと大災害で被災された人達が平常心を取り戻すのに数週間掛かったと思います。
淡路島の人達も最初に出動した時はそうでした。
呆然自失状態の人、崩れた新築の家の前で頭を下げて泣いていたおじさん。「こんな島、もう住みとうないわ~」と投げやりな言葉を口にしていた老人。
「お前ら何しに来たんや、手伝いに来てくれたんと違うんか!」と暴言を吐いた人。みんな大きなショックを受けていてやり場のない怒りや憤りを誰かにぶつけないと気持ちが治まらなかったのでしょう。
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それが数週間すれば立ち直るのです。
私は震源地の北淡町で家の解体作業中に屋根の上からバナナやリンゴの差し入れを貰いました。「ここに置いておきますから、後で皆さんて食べて下さい」道路の傍らに差し入れの品を置いた奥さんは壁の崩れた家の中に入って行きました。
自分の家がどうなるかも解らないのに差し入れをしてくれるんです。優しさと心遣いに感動して感情がグッと込み上げてきた思い出があります。
数週間前は夢遊病者のように呆然としていた人達が、立ち直っている姿をこの目で何度も見ました。
二週間も経つとおばちゃん達に冷やかされるようになります。「毎日、毎日、真っ白になって男前が台無しやな~」「ホントですよ本当はもてるんですけどね…」そう言うとおばちゃん達は笑います。
まだ崩れている家が一杯あるのに…災害派遣現場で復旧の手ごたえを感じるのは地元の人達の明るい笑い声や冗談です。
生の声で地元の人にお礼を言われるといつも感動します。
「淡路島を元通りにしてくれたのは、あんた達やからな。ワシは死ぬまでこの事は忘れんからな。」
一言一句、正確には覚えていませんが、今でも言葉の暖かさは心の中に残っています。