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「つくる」意識と「奪われている」意識の差が大きくなる

最近、なにを「つくって」いますか。

もっとも身近な”つくる”は「料理」でしょう。朝食、昼食、夕食と多くて1日に3回も機会があるし、食が身体に与える影響はいつだって直接的です。食ったものが身体を作るからこそ”つくる”ことの重要性は高い。

流行りで言えばDIY。衣食住の「住」を自ら”つくる”ことの満足度は、己の技術と知識の総力戦。だからこそ足りないことに気づき続けられるし、鍛錬のその先には毎日暮らす家の景色や利便性を担保してくれます。

ぼく自身は昨年から料理にもハマっているし、家庭菜園や市民農園で農作物を”つくる”ことにも挑戦中。PDCAのサイクルが1年単位だからこそのおもしろさと「1年まわした感覚と2年目が圧倒的に違う」感覚もあります。バカみてえに10cm感覚で植えたトマトの苗。バカみてえに育った分だけ土に影響を与える。同じ種類の野菜を植え続けることによって、土の生態系のバランスが崩れる…その連作障害が起きると収穫量も減るんですって。わけがわからんようで、わけがわかる。偏りが生む生態系のバランスって、現代社会が叫ぶ多様性の何かがありそうですよね。これも”つくる”から”わかる”こと。

ちょっとずれるかもしれないけれど、”育てる”こともまたおもしろい。観葉植物や多肉植物、そして最近は淡水魚を育てるアクアリウムにも手を出してしまいました。10代後半でハマった経験があって、小遣い全部アクアリウムにベッド!みたいな時期を過ごしていて。20年ぶりに解禁しました。

30cm×30cm×30cmのコンパクト水槽に欲求を押し込んでいるんですけど…まぁ、これが毎日見飽きない。餌をあげるたびに魚の様子や水草の成長を観察してるんですけど、ここ数週間はなんとなく飼ったグッピーが子を産みまくって「自然の生態系が循環している〜〜〜〜!」と叫んでいます。水草をびっちり育てたからこそ、隠れ場所があって生存率が高まる生態系。ここまで順調な水槽は10代では叶えられなかったので、全国取材で自然勘を養ってこれたからこその反映なのかもしれません。

いや、もうほんとに”つくる”ってとてつもなく尊い行為なんですよ。同時に利己的であり、自己満足みたいな極みの世界に思考を送ることができます。コントロールできないような世界、かつ非効率な趣味に思考を送るってことは、一日あたりの集中度と日々の小さな喜びを担保しやすいってことなんですよね。このあたりジモコロでどうぶつの森を引き合いに出した「小さな用事を愛でることが大事」って記事で触れています。よかったら読んでみてください。


社会の不満は「奪われている」意識に拠る

これは仮説の域を出ないような思いつきの話です。長野に移住して約4年。自然のフィールドにアクセスしやすい環境では、大多数の人が庭いじりをしたり、農業や林業の生業で規則正しく生活していたり、流行りのサウナもそこまで混雑せずに温泉とワンセットで楽しんでいます。そこに豊かさを感じるかどうかは人それぞれですが、家賃が安くて、土地があまっている地方は「つくる環境が身近にある」と言えます。

時代はコロナ禍。人間の寿命が伸び続けた結果、一昔前なら長老クラスの政治家が有事をその場しのぎの保身的な判断で国を動かしています。そもそも日本古来から伝わる祭りを盛り上げる青年期は28歳前後。ここが数百年続く、身体的にも精神的にもひとつのピークを迎えた”旬”の人間なはずなんですけど、60〜80歳のいまだ死を恐れ欲望を抱え込んだままの爺さんたちが、まともな判断なんt…って普段おさえこんでいる政治感がこぼれてしまいました。これは絶対に長くなるので今度どこかの機会で。

あらゆる書籍で語られているように近代社会を豊かに”つくり”あげてきた日本の制度疲労は限界にきています。無理ぽ。停滞し続ける日本のGDPも、イノベーションが生まれないのも、ワクチンの打ち手が後手後手なのも、極論をいえば金遣いのヘタな、現実を観察できていない爺さんたちが実権を握っているからです。

その結果、ありとあらゆる不満がSNSに噴出しています。その背景には長年にわたって続いている制度疲労が生んだ「奪われている」意識があるんじゃないかな、と。一言でいえば搾取。法律と倫理を踏みにじる政治。経済バブルの価値観をズルズルと引きずったおじさんたちの狂騒は、若者たちの可処分所得とか処分時間を奪って、なにかを”つくる”ことのモチベーションの芽を摘んでいる気がしてなりません。

東京の家賃が高いのは有名です。経済成長が停滞していても、都心の家賃は高騰し続けている。狭くてそこそこの家賃の物件を借りて、暮らしの機能は外部化に頼る。食は24時間営業のコンビニやスーパーへ。冷蔵庫や冷凍庫の機能も補ってくれます。お風呂は銭湯ブーム。いまや都内の人気銭湯はなかなかに混雑していて、サウナは行列待ちです。約1,400万人の人口規模を誇る東京都は中央集権によってありとあらゆる経済的需要を生んできたのは事実ですが、暮らしの機能を外部化したことによる余白、曖昧な領域の少なさは致命的な欠点ではないでしょうか。

せめて”つくる”ことに対して、もっと金銭的、空間的な余裕があれば心の拠り所が増えるんじゃないかと感じています。1口コンロで快適な料理はむずかしい。賃貸物件でDIYはなかなかできない。トンカチで釘を打てば、近所迷惑になるかもしれない。そもそも人間に欠かせない土が少ないし、管理効率を突き詰めた結果はコンクリートとアスファルト舗装の世界です。

もちろん工夫をしながら”つくる”を楽しんでいる人は世の中大勢います。東京だってそうでしょう。東京23区もぴんきりだし、外部化の中で頼れる広い公園や商業施設の緑化計画も進んでいる。

それでも”つくる”ことが自分自身の生活に小さな+を積み重ねられるものだと仮定したら、”奪われる”ことの意識は大きな−の連続です。この差分が一ヶ月、三ヶ月、半年、一年…と開いていったときに、健全な議論がこのインターネット上に生まれるとはなかなか思えない。

後手後手にまわったコロナ時代の影響は、「耐え凌げばなんとかなる世界」をとっくのとうに終えていて、「自己判断による大股の一歩が自分の機嫌をよりよくする世界」になっている。待てど暮らせど、社会はよくならない。悪者を探して、匿名の石つぶてを投げても、目の前にある自分が捉えている現実は動かない。この前提をぼくは少しでも理解できるように生きていたいし、まずは自分の機嫌をなんとかギリギリの気持ちの中でとりながら、手の届く範囲で誰かの機嫌を良くするきっかけを”つくれ”たらいいなと最近考えています。

決意表明でもなんでもない。もっと”つくる”人を増やしたほうが、おもしろく生きることができる。学校でもっと教えてほしかったような当たり前の喜びをあえて言葉にしたいだけの衝動です。みんなもっとつくろう。アンコトローラブルな自然に触れる時間を増やそう。そのためには時間、空間、概念的なスペースが欠かせない。想像力を広げるために、誰かが作った常識に風穴を空けて、スペースを勝ち取ろう。まずはそこからだ。

つくるは大事。そしておもしろい。


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ホラン千秋さんのラジオ番組『Drive Discovery PRESS』に出演しました。全国を旅するおもしろさや発見について話しています。
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1982年生まれ。全国47都道府県のローカル領域を編集している株式会社Huuuuの代表取締役。「ジモコロ」編集長、「Gyoppy!」監修、「Dooo」司会とかやってます。わからないことに編集で立ち向かうぞ!