【ガイドブックに載っていない韓国旅行案内】(番外編)竹城里倭城、西生浦倭城の思い出
(この記事は4,254文字です)
2024.2.28
(2024年1月中旬から書いている原稿に手こずっていて、まだ完成の目途がたっていません。ちょっと気分転換をしたくなり、旅の思い出を書いてみることにします。)
(ここに書かれている内容は、2000年、2001年の時点のものなので、現在とは大きく変わっていることがあると思います。特に、鉄道については、路線や駅の位置が変わったものがあるかも知れないので、注意してください。また、案内板もそのときのものなので、現在は内容が変わっている部分もあるかも知れません。)
豊臣秀吉が朝鮮に侵攻した文禄・慶長の役は、朝鮮半島に多くの被害と混乱をもたらした(文禄の役1592~1593年・慶長の役1597~1598年 韓国では、壬辰倭亂[イムジンウェラン 임진왜란]、丁酉再亂[チョンユジェラン 정유재란]と呼ぶ)。たとえば観光名所である慶州の仏国寺は、1593年に加藤清正軍により火をつけられ木造建築はすべて焼失したと記録されている。
この文禄・慶長の役のときに、朝鮮半島南部に日本軍が築いた城=「倭城(왜성 ウェソン)」と呼ばれている城の跡が、いくつも残されているということを知り、あちらこちらよく訪ねていた時期があった。2000~2005年ころのことだ。
【地図と時刻表】
そのころは、韓国では PCバン(PC방)と呼ばれる高速通信可能なインターネット・カフェが、あそこにもここにもというくらいあったころだと思う。調べると初代 iPhone がアメリカで発売されたのが2007年6月。世の中は、まだスマート・フォンが普及する前だった。
Google Map も Naver Map も使うことができず、私は書籍の道路地図と時刻表を手に、旅行をしていた。道路地図は、眺めていると旅行ガイドブックには載っていない場所を発見できる楽しみもあり、また時刻表は全国の高速バスや市外バスの交通網がわかる頼りになる存在だった。
小学校に勤務していたので、夏季休業中に有給休暇をあて、土曜日・日曜日も合わせると、6~7日間の連続した休みをとることができた。毎年、韓国を旅行し、一度の旅行で1~2ヶ所の倭城を訪ねていた。
【竹城里倭城】
竹城里倭城(チュクソンニウェソン 죽성리외성)は、釜山広域市機張郡にある。釜山の中心部から北東に20kmほど離れたところである。訪ねたのは2000年7月24日。
そのころ、その機張郡に住む日本語を勉強している韓国の高校生と e-mail で文通をしていた。竹城里倭城の話をすると、同じ機張郡にあるので、案内をしてもらえることになった。
宿泊場所の釜山から汽車に乗った。鉄道の機張駅に迎えに来てくれていて、いっしょに昼食をとったあと、タクシーに乗って竹城里倭城をめざした。タクシーを降りた所は、小さな村の中のようなところに見えた。今では家並みも大きく変わっているのではないだろうか。
高校生が付近で道を訪ねながら、歩いて行った。竹城初等学校という小学校があり、その前を通っていくと、前方に小山のようなところがある。そこが、竹城里倭城のようだ。草の茂る山道を登って行くと城の石垣の一部が残っていた。
当時の案内板には次のように説明が書かれていた。
石垣に近づき見回すと、日本海がはるか彼方まで見えた。景色だけ見ると、よく晴れた夏の日で、さわやかな気分だ。
しかし、文禄・慶長の役の当時、朝鮮の人々はこの海をどんな気持で眺めていただろうか、と思うと、二つの国の間にあった歴史をあれこれと考えることになった。
倭城を降り始めたとき、私は下腹部に催したものがあった。大だ。トイレに行きたい。
来た道を降りると小学校がある。
高校生に「トイレをかります」といって、竹城初等学校の校庭を横切り、玄関に向かった。高校生が用件を伝えてくれた。
韓国の小学校も夏休みで、学校には子どもたちはいなかった。日直の女の先生がスリッパを差し出してくれて、トイレに案内をしてくれた。
用を済ませ、日直の先生に丁重にお礼をいって、小学校を後にした。
今回、この原稿を書くにあたってインターネットで調べてみると、私が訪ねた2000年のときと比べ、竹城里倭城は周辺が整備されたようにも見える。説明板も新しいものが設置されているように見えた。
Naver Map で竹城里倭城を検索すると、衛星写真には城の位置にビニル・ハウスのようなものが写っている。 これは何なのか。発掘調査のための雨よけなのか。
訪ねてから20年以上が経ち、辺りもかなり変わったことだろう。数年後、高校生は結婚し、仕事や家庭のことが忙しくなったのだろう、e-mail のやりとりもなくなってしまった。竹城里倭城に、また行ってみたい。
【西生で出会った学生たち】
西生浦倭城(ソセンポウェソン 서생포외성)は、蔚山広域市蔚州郡西生面にある。訪ねたのは2001年8月2日。
地図で見ると、宿泊場所の釜山からだと鉄道の西生駅が最寄り駅のようだ。最寄り駅と行っても、地図上だと駅から西生浦倭城までは直線距離で約6kmある。西生駅に着いたとして、そこから先、どういう交通手段があるのか、まったくわからなかった。それでも限られた旅行日数の中で、行きたいところには行ってみるしかない。約6kmなら、最後の手段は徒歩で行けば1時間ほどで着けるはずだ。釜山から汽車に乗り、西生駅についた。
西生駅につくと、そこは田舎の小さな駅だった。駅前商店街のようなものはない。
駅前を歩いていて案内表示板に気づいた。「서생포왜성 西生浦倭城 11km」とある。そのすぐ上には「진하해수욕장 鎮下海水浴場 10km」と並べて設置してある。地図で確かめると、西生浦倭城は鎮下海水浴場の近くだということがわかった。行先としてはほぼ同じだ。その距離11km。6kmどころではなかった。11kmなら歩くと2時間はかかりそうだ。歩いて行くか、あきらめるか。
悩んでいると、背後で複数の声が聞こえる。大学生と思われる男女のグループが、いつの間にか近くにいた。シャツには「합기도」(合気道)とプリントされていた。手には海で使う道具を持っていて、これから海水浴場に行くようだった。学生たちの傍らにはバス停があった。
私は緊張しながらたどたどしい韓国語で、「ここのバスに乗ると、鎮下海水浴場に行けますか?」と聞いてみた。
彼らは「行けますよ」と教えてくれた。
バスが来た。彼らは「このバスですよ」と教えてくれた。
バスの中で、私は彼らの近くに座った。私は窓から外の景色を眺めた。学生たちは談笑で盛り上がっていた。
バスにゆられること数十分、次の停留所が鎮下海水浴場らしい。彼らは「ここですよ」と教えてくれた。
いっしょにバス亭で降りて、私は彼らに何度もお礼をいった。
【西生浦倭城】
海水浴場近くのバス停から陸側に進むと、西生浦倭城はすぐにわかった。城の石積があったが、想像していたよりも規模が小さいように思った。ところがそれは、城域の入り口のような場所で、さらに山の方に登っていくと、木造の建物はないものの広大な範囲に石積が残されていた。
歩いていると、石積の陰から当時の兵が飛び出してくるようで、文禄・慶長の役の時代にタイム・スリップしたような気分になった。
案内板には、次のような説明があった。
文禄・慶長の役は、反日感情の原点だともいわれる。倭城が保存されていることで、歴史の記録は人々に受け継がれていくのだと思う。
【帰り】
うん?西生浦倭城からの帰りはどうしたか、ですって?
倭城からバス停までもどってくると、蔚山市外バス・ターミナル行きのバスがあることがわかった。市外バス・ターミナルまで行ければ、そこから釜山の市外バス・ターミナルに行くバスが絶対にあるはずである。
私はバスで蔚山市外バス・ターミナルに行き、そこから釜山にもどることができた。
今なら Naver Map で目的地と現在地を入力すれば、交通手段が複数表示され、料金、所用時間まで、あっという間にわかる。旅行者にとっては、たいへん便利になったものだと思う。
便利なものは便利なものとして使いながら、土地の人とふれあう旅がいちばん思い出に残っている。
地図(naver mapへのリンク)
・機張竹城里倭城
・西生浦倭城