【ガイドブックに載っていない韓国旅行案内】李韓烈記念館ほか
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1987年。
この年は、韓国国民にとって、軍事政権を終わらせ民主化を達成した記念すべき年である。
民主化をもとめる動きには、中心となって活動した大学生にとどまらず、多くの会社員も加わり、国民全体の抗争になった。そしてその展開には、2人の若者の死が大きな意味をもっていた。
その若者について、死を悼むとともに、その死の意味を伝える場所がある。
全斗煥政権
1979年10月、朴正熙(パク・チョンヒ)大統領が側近である中央情報部長金載圭(キム・ジェギュ)により暗殺される。クーデターを起こして政権を握ったのは、全斗煥(チョン・ドゥファン)だった。軍事政権の終焉と民主化を求める国民は、全国各地で示威行為をおこなった。その最大規模のものが、1980年5月の光州民主化抗争である。これに対し全斗煥は軍を光州に送り、多くの市民を虐殺し、民主化運動を鎮圧した。
その年の秋、全斗煥は統一主体国民会議において大統領に選出される。統一主体国民会議とは、朴正熙大統領の時から続く機関で、大統領を間接選挙で選ぶことを目的としていた。
全斗煥は大統領となり、自由な言論活動を制限し、民主化運動を弾圧し続けた。
国民の間には、大統領直接選挙と民主化への要求が高まっていく。
朴鐘哲の死
1987年1月13日、ソウル大学言語学科3年の朴鐘哲(パク・ジョンチョル)を、治安本部対共分室の捜査官6名が連行する。連行された場所は、南営洞にある対共分室。民主化運動や労働運動を行い、軍事政権にとって不都合な活動家たちが連行され、拷問されることで悪名高い場所だった。朴鐘哲連行の目的は、手配中の朴鐘雲の居場所について尋問するためだった。朴鐘哲が答えないでいると、治安本部は暴行、電気拷問、水拷問等を行う。その結果、翌14日、朴鐘哲は死亡する。警察は拷問の事実を隠蔽し、「尋問中に白状しろと机を叩いたら心臓麻痺を起こして死んだ」と発表した。
しかし、死後の解剖により朴鐘哲の体には拷問の痕跡が見られたことから、解剖医は拷問による死亡であることを認める。
このことにより国民の政府に対する怒りは高まる。
警察は、2名の警察官が拷問をしたとして、その2名を拘束した。
(朴鐘哲が拷問を受けて死亡した場所は、保存されている。この場所については、別項で紹介する予定である)
拷問殺人隠蔽工作糾弾
1987年、大統領である全斗煥は自らの大統領の任期中には改憲を行わないことと、大統領間接選挙制の維持を図ろうとしていた。4月13日、全斗煥は大統領特別談話を発表し、大統領間接選挙の維持を宣言する。
大統領直接選挙制と民主化を望む国民の動きが続く中、一月に死亡した朴鐘哲が受けた拷問状況について、新たな事実が判明する。光州民主化抗争7周忌にあたる5月18日、追慕ミサの中で、朴鐘哲に拷問をおこなった警察官は2名ではなく、あと3名いたことが明らかにされる。警察は拷問事件を矮小化するために2名の警察官に責任を負わせて、事態を収拾したのである。
このことがわかると、国民の怒りは爆発した。
全国各地で、拷問殺人隠蔽工作糾弾の大規模集会が開かれる動きが始まった。また、各大学でも示威や集会が行われる動きが出てきた。
5月27日には、香隣(ヒャンニン)教会の礼拝室を会場にして、「民主憲法争取国民運動本部(略称:国本)」が結成され、民主勢力が一つにまとまる。
倒れた学生
李韓烈(イ・ハンニョル)は1966年8月29日、全羅南道和順郡で生まれ、光州広域市内の小学校・中学校・高等学校で学んだ。1980年5月の光州民主化抗争時には中学2年生だった。光州民主化抗争について詳しく知るようになって衝撃を受け、民主化運動への関心を持つこととなった。
李韓烈はソウル市内にある延世大学に進学する。
1987年6月、その時、李韓烈は経営学科2年生。
6月9日(火)、各大学の動きに合わせ、延世大学でもデモがおこなわれていた。翌6月10日に予定されていた「朴鐘哲拷問殺人隠蔽工作糾弾および民主憲法獲得国民大会」を前に、「6・10大会出場のための延世人決議大会」が行われていたのである。
民主化運動に積極的に関わっていた李韓烈も他の学生たちとともに示威を行っていて校門前に出た。そこに待機していた戦闘警察たちは、示威を鎮圧するために催涙弾を水平に発射した。催涙弾は李韓烈の後頭部を直撃し、彼は血を流して倒れる。そこに居合わせた図書館学科の学生イ・ジョンチャンは、李韓烈を抱きかかえた。その2人の姿を、ロイター通信記者ジョン・テウォンが撮影した写真がよく知られている。
李韓烈は、その場にいた数人の学生たちに抱きかかえられ、延世大学構内にある附属セブランス病院に運ばれた。
当時、警察と衝突をして死亡した者の遺体は、証拠隠滅のために警察に奪われることがあった。そのため学生たちは病院に交代で詰めて、警察の進入を阻んだ。
李韓烈が催涙弾の直撃で倒れたこの事件は韓国国内および海外に報道され、国民の軍事政権に対する怒りはさらに高まり、示威を拡大化させることになる。
拡大するデモ
6月10日(水)、民主憲法争取国民運動本部が主催する大規模デモがソウル市庁前の広場で行われた。学生だけではなく、大勢の会社員たちも加わった。政府は、道路の封鎖、車両の警笛禁止措置、地下鉄の市内無停車通過、早期退勤等でデモを抑え込もうとした。警察が集会を解散させると、市民たちは場所をあちらこちらに分散させて集会を継続した。
警察がデモ隊を逮捕していくと、一部は明洞聖堂に逃げ込んだ。そして籠城闘争が始まる。明洞聖堂の神父や修道女たちはデモ隊を守るために聖堂前に立った。政府が聖堂に警察を突入させることは、世界のカトリックを敵にすることになる。そうなると、翌1988年に開催が予定されているソウル・オリンピックを、カトリック国家がボイコットすることが予想された。そのため籠城しているデモ隊を逮捕することはできなかった。
6月15日(月)、全国の主な大学でデモが始まる。
18日(木)には、催涙弾追放大会が全国の都市で開かれた。この時の参加者は全国で150万人と推計される。全斗煥政権は、デモの鎮圧のために軍隊を投入することを検討する。
19日(金)、全斗煥政権は、戒厳令を出して軍隊を投入する準備を完了する。
全斗煥政権の武力によるデモ鎮圧の動きに対し、アメリカはそれを阻止するために韓国軍に圧力をかけた。5・18光州民主化抗争のような悲劇を繰り返させないようにし、韓国の民主化を進めることにアメリカは注力した。韓国軍内部からも、武力鎮圧に反対する声が多くなっていた。
6月29日(月)、ついに全斗煥政権は大統領直接選挙制を受け入れることとした。次期大統領候補の指名を受けていた盧泰愚が、民主化のための宣言を出し、大統領の直接選挙制が約束された。
李韓烈の死
催涙弾の直撃を受け、延世大学構内の附属セブランス病院に入院していた李韓烈は、意識が戻らないまま、7月5日、息を引き取る。
李韓烈の葬式は7月9日、「民主国民葬」として行われた。延世大で行われた時点では群衆10万人が参列し、葬列が新村ロータリーに進むと30万人、さらに市庁前に進むと100万人に増えた。その日のうちに、李韓烈の棺は光州市の望月洞墓地に運ばれ、埋葬された。光州市での参列者は50万人。この日、総計では160万人が参列したと言われている。
軍事政権を終わらせ、大統領の直接選挙制を実現し、韓国を民主国家にした、この1979年6月の運動を、「6月民主抗争」と呼ぶ。
李韓烈の遺志をつなぐ
延世大学近くに「李韓烈記念館」がある。李韓烈の死に対する国からの賠償金と国民からの寄付をもとに建てられたものである。
3階は企画展示室。3階から内階段を上って、4階の常設展示室に入る。ここには李韓烈の遺品が展示され、6月民主抗争の経過が説明されている。催涙弾の直撃を受けたときに着ていて、血痕が付いたトレーナーもここに保存展示されている。
2階には「李韓烈記念事業会」の事務局がある。3階に並べられた書籍や記念品は、ここで購入することができる。
たとえば書籍『1987 이한열』(1987 李韓烈)には、6月9日から葬儀までの李韓烈に関係した多くの秘話が記録されている。
延世大学の正門前で李韓烈が頭に催涙弾の直撃を受けて倒れた場所には、そのことを記録する銘板がはめ込まれている。そこには次のように刻まれている。
「1987年6月9日午後5時、当時延世大2年生だった李韓烈烈士が催涙弾に撃たれ倒れたこの場所で、6月民主抗争の火花が咲いた。2016年6月9日 李韓烈記念事業会 延世大学校」
「李韓烈 被撃 現場 1987.6.9 延世大学生 李韓烈が警察の直撃催涙弾に撃たれて倒れた場所」
延世大学の正門から構内の奥に向かって歩いて行くと、右側にある100周年記念館と学生会館の間に、李韓烈の追慕碑がある。
「198769757922」という数字が刻まれている。これは李韓烈が催涙弾の直撃で倒れた日付1987年6月9日、死亡した日付7月5日、国民葬が行われた日付7月9日、李韓烈の享年22歳(数え年)を意味している。
なお、いずれの場所も一般的な観光地ではない。日本語の説明はないことを理解したうえで、訪ねていただきたい。中級程度の韓国語の読解力があれば、内容の理解はできると思われる。
地図(naver mapへのリンク)
・李韓烈記念館
・延世大学校門前 被撃現場
・延世大学校 学生会館前 李韓烈追慕碑 (地図は学生会館)