【小中学生のための鎌倉ガイド】04.元鶴岡八幡宮(由比若宮)
元鶴岡八幡宮(由比若宮)
鎌倉のシンボルともいえる鶴岡八幡宮。
源頼朝は、鎌倉幕府の祭神として、鶴岡八幡宮を建て大切にした。
この鶴岡八幡宮だが、今ある場所にはじめから建てられたのではない。もとは違う場所に建てられていた。
若宮大路「下馬」の交差点からさらに海方向に行くと、道沿いに鎌倉女学院や鎌倉警察署がある。この鎌倉女学院の脇を入って行き、住宅地の中の細い道を奥に進んだところに「元鶴岡八幡宮」と呼ばれる小さな神社がある。ここがその名のとおり、最初に建てられた鶴岡八幡宮であり、本来は「由比若宮」という名前である。
今の鶴岡八幡宮の規模の大きさからすると、その小ささに驚くことだろう。
前九年の役・後三年の役
源頼朝をさかのぼると、その祖先に源頼義という武士がいる。頼朝から5代前の人物である。988年に生まれ1075年に亡くなっているので、鎌倉時代の初めのころからでは、100年以上も前の人物である。
清和天皇を祖とする源氏は、その子である貞純親王、さらにその子である源経基から始まる。さらにその子である、満仲、頼光、頼信あたりから、源氏は力を持ち始める。そのころ、源氏の本拠地は畿内(おおよそ今の兵庫・大阪・奈良・京都)にあった。
一方、平氏は東国(箱根・足柄・碓氷以東の諸国あたり)に勢力をもっていて、平忠常が1028年に房総(今の千葉県)で反乱を起こす。源頼信が平忠常を討つことになると、頼信の武名に恐れをなし、平忠常は戦わないまま降伏してしまう。よほど頼信は強かったのだろう。このことをきっかけに、源氏は東国に力を伸ばしていく。
さらに、陸奥(現在の福島県、宮城県、岩手県、青森県と秋田県の一部)では豪族である安倍氏が勢力を持っていて、国司と争っていた。ここで源頼義の登場である。頼義は、陸奥守兼鎮守府将軍としてその地に行く。安倍氏はこれに対して乱を続け、子までも含めて戦い続けた。そこで源頼義はその子、義家といっしょに東国の武士を率いて安倍氏と戦い、安倍氏を滅ぼした。これを前九年の役(前九年合戦 1051~62年)という。
安倍氏が滅んだあと、奥州を支配した清原氏の内紛に、源義家は介入し、戦闘が起こる。これを後三年の役(1083~87年)という。義家は清原氏を破る。
前九年の役、後三年の役を含めて、源氏は東国の武士団との主従関係を強めていった。
さて、前九年の役の戦いにでかけていくとき、源頼義は、京都の石清水八幡宮を訪れ、戦勝を祈ってから東国に向かった。石清水八幡宮は、源氏の氏神である。前九年の役で勝利をおさめ、京都に帰る途中1063年、頼義は鎌倉に立ち寄って、石清水八幡宮の祭神を勧請(移して祭ること)したのだといわれている。ここに「由比若宮」が始まる。「由比」は土地の名前を表している。「若宮」とは、本宮の祭神の分霊を他のところにまつった社、という意味である。つまり、ここでは、石清水八幡宮の祭神の分霊を由比にまつったものとして「由比若宮」と名付けられたわけである。
さらに頼義の子である義家は、後三年の役に行く途中で1081年にここに参詣して社殿を修理し、源氏の氏神として信仰したという。
これは、源頼朝が鎌倉に幕府を開くときよりもさかのぼること100年も前のことになる。
元鶴岡八幡宮が建てられてから約100年後の治承4(1180)年に、源頼朝は現在の場所に鶴岡八幡宮の社殿を移す。
旗立の松
元鶴岡八幡宮の本殿に向かって歩いていくと、雨よけの屋根の下に大きな松の幹が置かれている。「源義家公 旗立の松」と呼ばれる松である。後三年の役のときに、源義家が旗を立てて戦勝を祈った松だと言われている。