見出し画像

【ガイドブックに載っていない韓国旅行案内】浦項九龍浦の昔(2008年)と今(2024年)

更新:2025.02.06
初稿:2025.02.04

(この記事は 9,589字です)


16年ぶりの九龍浦

 浦項市の九龍浦に残る日本家屋を訪ねたのが2008年。
 そのときのことについて、note に次の記事を書いた。

 日本家屋が多く残る地区は、整備される計画があり、私が訪ねた2008年はそのための調査が行われ、翌2009年から整備が始まるという予定になっていた。
 ここ2、3年(現在2025年)、九龍浦のようすをインターネットで検索してみると、古い日本家屋は、建物を利用して洒落た店に変わったものがいくつもあるようだ。
 日本家屋の残る通りへの入り口も、きれいに整備されたことを知った。
 2008年から16年が経った2024年の秋、韓国旅行で九龍浦を再び訪ねてみることにした。

釜山から浦項へ、九龍浦へ

 2024年10月、長めに時間が確保できたので、14泊15日の韓国旅行をすることにした。
 旅行の計画では、途中、釜山に4泊することにして、浦項市には釜山から日帰りで行くことにした。釜山にはバスターミナルがいくつかあるが、私の旅行計画には「부산서부사상버스터미널」(プサンソブササンポストミノル 釜山西部沙上バスターミナル)が便利だったので、その近くに宿をとった。
 2024年10月23日(水)。朝4:55にセットしたアラームで起き、身支度を済ませて地下鉄に乗り、沙上バスターミナルのすぐ前にある「사상역」(ササンニョク 沙上駅)には5:53に着いた。
 バスは7:00出発。浦項市外バスターミナルに着いたのは8:42だ。

浦項市外バスターミナル

 9:08,ターミナル近くのバス停から900番のバスに乗る。
 途中、車窓からは POSCO 本社が見えた。市街を抜けると、浦項慶州空港にも寄る。
 運転手は、スピードを出して運転する。カーブでは体にGがかかり、前の座席にしがみついて耐えた。道路のもりあがった箇所でもスピードを緩めないので、バスが上下に跳ねる。久しぶりに「韓国のバス」を体感した。

九龍浦日本人家屋通り

 9:50、バスは「구룡포 일본인 가옥 거리」(クリョンポ イルボニン ガオク ゴリ 九龍浦日本人家屋通り)停留所に着いた。脇に広い駐車場があり、マイカーで来た人たちはそこに車を置くことができる。観光案内所やトイレもある。
 そのすぐ前に、九龍浦日本人家屋通りの入り口がある。

「九龍浦日本人家屋通り」の入り口
階段を上ると「九龍浦公園」がある

 入り口の門をくぐって進んで行くと、左右にのびる通りがある。この通りが「九龍浦日本人家屋通り」で、通りに面して日本家屋が並んでいる。
 正面の階段を上って行くと、九龍浦公園に着き、忠魂閣や忠魂塔などがある。

 入り口の門の脇に、韓国語・英語・中国語・日本語の4か国語で説明がある。

九龍浦日本人家屋通り
東海最大の漁業前進基地だった九龍浦は、日帝強占期の1923年、日帝が九龍浦港を築港し、東海圏域の漁業を管轄し、日本人の流入が増えた。 それと共に、現在九龍浦の日本人家屋通りが位置している通りには、病院やデパート、料理店、旅館などが並び、多くの人が集まり、地域商圏の中心的な役割を果たした。
しかし、残っていた日本の家屋は、各種の開発過程で撤去され、長年にわたって毀損され、過去の我が民族に痛んだ歴史の生きた証拠物が消えていく実情を迎えた。 浦項市は地域内の家屋を補修·整備し、日本植民地時代に日本人の豊かな暮らしぶりを見せることで、相対的に日本によって搾取された韓国経済と生活文化を記憶する生きた教育場として「九龍浦日本人家屋通り」を造成した。
2011年3月から始まった整備事業を通じて457m距離にある28棟の建物を補修した「九龍浦日本人家屋通り」は2012年12月国土海洋部が主管する「第2回大韓民国景観大賞」で最優秀賞を受賞し、都心活性化事業の優秀事例に選ばれた。

「九龍浦日本人家屋通り」入り口門脇の説明

 九龍浦日本人家屋通りは、私が訪ねた2008年当時のようすを残しながら、多くの建物はリニューアルされていた。
 入り口の門をくぐって進むと、すぐ右側に案内地図がある。

案内地図

 家屋のイラストがあり、それぞれの家屋にアルファベットと番号がついている。
 ひとつひとつの家屋の歴史的な説明はなく、現在の施設内容が、地図の左側に「カフェ&デザート」「食堂」「海産物」「記念品&小物」「見もの&体験」「宿」「美容室」に分類されて書かれている。

左右にのびる通りを左方向(西方向)に進んで、端まで行ってみることにした。

通りの西の端

 端まで来ると、ここにも「九龍浦日本人家屋通り」を示す表示がある。

通りの昔(2008年)と今(2024年)

 このまま元に戻るように通りを歩いて行くことにした。
 2008年に来た時と、どう変わったのだろうか。そのことに興味があったので、あらかじめ日本でスマートフォンの中に2008年に撮影した写真を保存してきて、それと見比べながら通りを歩いた。
 2008年に撮った写真と今回2024年に撮った写真を並べて紹介することにする。
 通りを行ったり来たりしながら撮ったので、実際の家屋の並び順とは違うものもあると思う。
 写真の右下に「2008」と数字が入ったものが2008年に撮影したもので、数字が入っていないものが2024年に撮影したものである。
 両方の年で使用したカメラが違うため、トリミングをして同じ範囲が見られるように調整したものもある。

正面に見えるのは「동백서점」(トンベクソジョム)

 「동백서점」(トンベクソジョム)は、日本語でいうなら「椿書店」となる。

手前の入り口の店は「동백을 지나서」、そのすぐ右の2階建ては「까멜리아 인 구룡포」

 「동백을 지나서」(トンベグル ジナソ)は「椿を過ぎて」という意味、「까멜리아 인 구룡포」(カメリア イン グリョンポ)は「カメリア in 九龍浦」という意味。どちらも「カフェ&デザート」に分類されている。

「까멜리아」(カメリア)

 「까멜리아」(カメリア)は、カフェ&デザートの店。「동백서점」(トンベクソジョム 椿書店)の左隣にある。
 この辺りは名前に「동백」(トンベク 椿)のついた店が並んでいる。
 私はまだ見たことがないのだが、韓国のKBSが2019年に放送したドラマ『동백꽃 필 무렵』(トンベッコッ ピル ムリョップ)(邦題:「椿の花咲く頃」)のロケ地が、ここ九龍浦だったということだ。
 調べると、ヒロイン(女優:공효진 コン・ヒョジン)が開いたスナックがここ「까멜리아」(カメリア)という設定になっているようだ。
 「까멜리아」(カメリア)の入り口には、そのことを紹介するパネルが設置されている。ヒロインがこの店の塀から顔を見せている写真が載っている。このドラマのファンには、たまらない場所だろう。

 観光案内所でもらったリーフレットによると、「까멜리아」(カメリア)は日本の植民地時代には「大藤旅館」という旅館で、「この建物は当時、九龍浦に来る人なら誰でも宿泊をしたがっていた旅館だった。こじんまりとした感じの正面とは違って、平面が深い特徴の建物だ。各階には多くの部屋を持つ2階建ての木造建物で、1938年に新築された。最近放送されたドラマ『椿の花咲く頃』の撮影場所として有名だ。」と説明がある。

 さらに進んで、「까멜리아」(カメリア)の右隣が「동백서점」(トンベクソジョム)。

「동백서점」(トンベクソジョム)

 通りの反対には、脇に入る道が見える。

  さらに進んで、「동백서점」(トンベクソジョム)を振り返って見た。

「동백서점」(トンベクソジョム)が右側に見える

 左側の建物は、2階の壁はトタンで覆われ、1階は改装中という感じだ。新しい店舗ができるのかも知れない。
ーーーーーーーーーー
 向きを変えて、先をめざす。

「九龍浦公園」に上っていく階段

 階段を上ると、忠魂閣や忠魂塔がある。
 階段の登り口も、こぎれいになっていた。
ーーーーーーーーーー
 階段の反対側には、2008年には、「친일」(チニル 親日?)と落書きされた建物があった。建物脇の奥にはタンクが見えている。

写真(1)
写真(2)

 ここ周辺は大きく変わっていた。
 建物脇の道は、タンクは撤去され、通りが拡張され、日本人家屋通り入り口の門が設置されている。
 「친일」と落書きされた建物は、どうなったのだろうか?
 写真を撮った時点では、写真(1)の建物が、写真(2)の建物に改装されたのだと思った。
 しかし、この記事を書きながら、2008年のときのことを書いた自分の記事で確認すると、2022年の航空写真による地図には写真(1)の建物は消えていることになる。
 もう一度、写真(1)と(2)を見比べていて気付いたことは、写真(1)の右側の建物の窓の配置や大きさ、換気扇と思われる壁の穴の位置が、写真(2)の建物と一致しているということだ。
 ということは、「친일」と落書きされた建物は、やはり撤去されて、そこは道になったのだ。

 写真の中に、オレンジ色の帽子やベストを身に着けた女性が見える。
 尋ねると、シニアの方で、ボランティアで「九龍浦日本人家屋通り」の案内をしているということだ。他にも何人かの同じ活動をしている方々が来ていた。
 スマートフォンの画面で、2008年の「친일」と落書きされた建物の写真を見てもらい、「なぜ、친일という落書きがあったのか、ご存じですか?」と尋ねてみた。わからない、ということだった。

 さらに先に進んだ。

 振り返って見る。

 上の写真で、鉢から緑の葉が伸びているところが、「九龍浦公園」への階段の登り口。

 さらに進むと、「九龍浦近代歴史館」がある。あとで寄ることにして、先に進んだ。

「九龍浦近代歴史館」
通りの東の端

 まもなくして、「九龍浦日本人家屋通り」の東の端に着く。

九龍浦近代歴史館

 「구룡포근대역사관」(クリョンポ グンデ ヨクサグァン 九龍浦近代歴史館)に戻った。

九龍浦近代歴史館

 入り口に説明がある。

九龍浦近代歴史館
この建物は1920年代に日本の香川県から移住してきた橋本善吉が住居として建てた2階建ての日本式木造家屋だ。 解放後、個人住宅として使われてきたものを浦項市が買い入れ·修理し「九龍浦近代歴史館」として使用している。
建物内部には100年余り前の姿がよく残っていて、当時の生活の様子を多様な展示資料を通じて見せている。 建物は日本式建物の構造的·意匠的特徴をよく示していて、多くの人々が関心の対象としている。

「九龍浦近代歴史館」説明

 観覧は無料でできる。

日本人の生活の様子
生活用具や漁業用具
生活用具

 1か所、長文の説明パネルがある。

九龍浦エルドラード
香川県の貧しい漁師たちの朝鮮出漁は1880年~1884年頃に始まった。
当時、瀬戸内海には狭い漁場に多くの漁師が押し寄せ、大小の紛争が絶えず起きた。
力なく貧しい日本の漁師たちは、より広い漁場を探すために瀬戸内海を離れ、遠くの海に向かった。
彼らはもっと広くて良い漁場で、満船の夢を叶えるために命をかけて航海をした。
1883年、朝日通商章程が締結され、日本の漁民たちは本格的に朝鮮海で魚を捕った。
1908年頃、香川県の貧しい村、小田漁村の漁師たちと岡山県の漁師たちが中心となって九龍浦に移住した。
九龍浦に本格的に定着した代表的な日本の漁師としては、九龍浦公園内の功徳碑の主人公である十河彌三郎と橋本善吉がいる。岡山県から移住した十河彌三郎と香川県から移住した橋本善吉は、九龍浦日本人移住漁村の二つの柱になった。九龍浦の豊かな魚資源は日本の漁師たちの夢を叶えてくれた。
黄金色のエルドラード九龍浦は貧しい日本人漁師たちに新しい時代、新しい人生を開いてくれた。

「九龍浦近代歴史館」内の説明パネル

 「エルドラード」とは、黄金郷・理想郷という意味である。
 敷地入り口の門の脇の説明には、「当時の生活の様子を多様な展示資料を通じて見せている」とあるが、建物の規模の割には展示資料が少ないように思えた。
 建物には2階もあるが、建物の老朽化で危険なため2階は立ち入り禁止になっている。

 観光案内所でもらったリーフレットには次のような説明がある。
「この建物は1920年代に香川県から来た橋本善吉が住まいとして建てた2階建ての日本式木造家屋だ。 建物を建てるために当時日本から直接建築資材を運搬して建設したという。
橋本一家が日本に帰った後、長い間韓国人が居住していたが、2012年に復元工事を終え『九龍浦近代歴史館』として開館した。」
「1F 橋本が居住していた部屋には当時の日本住宅の伝統的な家具と小道具が展示されており、一昔前の台所とトイレも当時の姿で再現された。
2F 橋本の娘の部屋と客の接待部屋などがあった空間の窓、格子などが多様な文様で作られ、装飾用換気窓は通風を重視した日本人家屋の特徴をよく表している。」(「九龍浦日本人家屋通り リーフレットより引用)

建物の履歴書

 昔(2008年)と現在(2024年)のようすを比較して、通りのようすを紹介した。
 現在の建物には、その建物がかつて何だったかを示す説明板がつけられている。
 たとえば、次の建物は「울산식품」(ウルサンシップム 蔚山食品)と看板が出ている。

 その壁には〈「孫永壎 醫院」日本強占期に九龍浦通り内唯一の韓人病院として盛業した2階建ての木造建物で、現在は商店と住宅として使用している。〉と説明がつけられている。

 次の建物は、「동백서점」(トンベクソジョム 椿書店)の向かいにある建物である。

 この建物の場合は、上の写真に見える屋台の屋根のすぐ後ろの壁に説明板がつけられている。
 〈「料理屋 旭樓」3階建ての木造建物で、日帝強占期に料理屋としてかなり規模が大きかったところで、現在は住宅として使用している。〉と説明されている。

 次は、はじめの方で紹介した「까멜리아」(カメリア)や「동백서점」(トンベクソジョム 椿書店)の近くにあるカフェ。

 〈「友助理髪店」平屋の木造建物で、かつて床屋をしていたが、現在は住宅として使用している。〉
 「現在は住宅として使用している」という説明があるが、現在はカフェになっている。リニューアルされる前は住宅であって、その時点の家屋調査によってこれらの説明板はつけられたものと思われる。以下、同じように「現在は住宅」と説明されている建物がいくつかある。

 次の建物は、「ドラマ・写真館」と看板が出ている。

〈「安宅食堂」木造平屋の建物で日帝強占期に食堂をしていた建物だった。現在は住宅として使用している〉

 何度も登場することになるが、日本人家屋通り入り口の近くのこの建物にも説明看板がついている。

〈「中川春吉 百貨店」2階建ての木造建物で百貨商店として盛業したが、現在は一般住宅として使用している〉とある。
 この「中川春吉 百貨店」は、後述するので覚えておいてほしい。

 この他も含めて、私がカメラで撮影できた、かつての建物の説明板を書き出してみると、次のようになる。
 ・店名に個人や団体等の名前が含まれているタイプ(計21件)……「和田玩具店」「孫永壎 醫院」「布源四郎請負工場」「和田金物船具店」「石原荒吉漁業部」「松罔八淸漁業部」「木村喜三八商店」「長町正榮漁業部」「後藤繁三郎商店」「友助理髪店」「安宅食堂」「料理屋旭樓」「池田遊技場」「鮮海漁業株式会社」「中村理髪店」「中川春吉百貨店」「松井忠一」「増田薬店」「中華布木店」「中堅健太郎商店」「鮮人理髪館」
 ・業種を表しているタイプ(計6件)……「土木建築請負工務所」「酒店」「飲食店」「水産物仲買店」「洋雑貨店」「菓子米穀店」
 ・そのほか、説明板の前に樋や障害物があって判読できなかったものが2件、看板表示の印刷がはがれていて読めないものが1件あった。
 このほかにも存在に気づけなかった説明板が、まだあるのかも知れない。

昭和5年(1930年)の町の地図

 通りの途中には、「구룡포 100년을 걷다」(九龍浦100年を歩く)という題をつけて、古い地図が掲示されている休憩所がある。
 もとは手で広げて持つことができるような紙製の地図なのだろうが、展示用に拡大したものがここには掲示されている。

 この地図には「慶尚北道九龍浦市外圖」と題があり、右下に奥付にあたる情報が書かれている。

昭和五年三月十日印刷 昭和五年三月二十五日発行
慶尚北道迎日郡滄洲面九龍浦三九〇番地
発行兼編輯人 河合清活
印刷人    慶尚南道馬山府幸町六五番地
       小林毅一
印刷所    慶尚南道馬山府幸町六五番地
       南鮮印刷所
定価壹部 金四拾五銭

 これから、この地図が昭和5年(1930年)に発行されたものであることがわかる。
 同じ地図が、九龍浦近代歴史館の中にも掲示されていた。
 日本の植民地支配から解放されたのが昭和20年(1945年)であるから、日本人が住んでいた最後の年からさかのぼると、この地図はその15年前に作られたことになる。15年の間に、ようすが変わった建物もあるかもしれない。

 この地図の中で、現在「九龍浦日本人家屋通り」になっている部分が含まれるように切り出してみる。

 同じ範囲を NAVER MAP の現在の地図から切り出したものが次である。

 この2枚を重ね合わせると、次のようになる。

 NAVER MAP と重ねてみると、道のズレはあるが、日本人家屋通りは2枚の地図でかなり一致している。
 昭和5年(1930年)の地図をよく見ていくと、建物につけられた説明板の店名がいくつも見つかる。
 今日、「九龍浦公園」と呼ばれるところを昭和5年(1930年)の地図で見ると、その場所には、「九龍浦神社」があり、神社の裏には「九龍浦高等尋常小学校校舎」「全校運動場」「校長宿舎」があったことがわかる。
 さらに、全校運動場の通りをはさんで北側には、「高〇寺」(〇部分の字は判読できず)・「本派本願寺」という2つの寺があったことがわかる。

 今は、中川春吉 百貨店」の道向かいの階段を上って「九龍浦公園」に行く。昭和5年(1930年)の地図で「中川春吉 百貨店」を探してみると、階段とは離れた位置に見つかる。それが、地図製作上の大きいズレなのか、「中川春吉 百貨店」が後に現在の場所に移転したのか、詳しいことはわからない。

 中川春吉 百貨店」の位置と関係して、昭和5年(1930年)の地図には、今日の「九龍浦公園」(昭和5年の九龍浦神社)に上っていく階段がなかったこともわかる。

九龍浦公園

 九龍浦公園に上っていくことにする。

 階段上り口の左側の石柱には、「九龍浦公園入口」と彫られている。
 その前の説明パネルには、次のように書かれている。

九龍浦公園入口階段石柱
ここの公園入口の階段と石柱は1944年度に日本人が建て、石柱は左側61個、右側59個など計120個がある。 石柱には九龍浦港を造成するのに寄与した九龍浦移住日本人の名前が刻まれている。 敗戦で日本人が去った後、九龍浦の住民たちはセメントを塗って記録を全て覆ってしまい、石柱を逆に回して建てた。 その後、1960年に九龍浦の住民たちが殉国烈士および護国英霊の位牌を奉安する忠魂閣を建てる過程で助けを与えた後援者たちの名前を再び前後を回して建てた石柱に刻み現在に至っている。

 これを読むと、階段は1944年に日本人が建てたとある。昭和5年(1930年)の地図に階段が載っていない理由がわかった。神社や高等尋常小学校は、昭和5年(1930年)にはあったのだが、階段は昭和19年(1944年)に作られたことになる。
 現在は左の石柱には「九龍浦公園入口・龍王堂入口」、右の石柱には「九龍浦忠魂閣」と刻まれている。もしかすると1944年に階段ができた時には、「九龍浦神社」という文字が刻まれていたのかも知れない。(私の勝手な想像である。)

 階段を上って行って、最初に目に入るのは龍の造形物である。

 ここから先の説明については、前に書いた次の記事と内容が重なるため、ここでは2024年に撮影した写真のみ紹介することにする。

十河弥三郎頌徳碑

あたらしい忠魂塔

旧忠魂塔基壇

神社跡の礎石及び手水鉢
 かつてあった「九龍浦神社」のものだと考えられる。

忠魂閣

龍王堂

九龍浦と日本

 「九龍浦近代歴史館」の中の説明によると、1908年頃、香川県の小田漁村と岡山県の漁師たちが中心となって、九龍浦に移住したという。
 その頃およびそれ以前は、九龍浦はどんなところだったのだろうか。
 1910年に韓国は日本に併合され、日本の植民地となる。
 漁業を中心とした九龍浦は、日本人が多く住む町となり、水産関係の会社のほか、食堂、雑貨店、飲食店、酒屋、米穀店、医院、理髪店、百貨店、玩具店など多くの施設ができて賑わったことだろう。海が見渡せる高台には、神社も学校もできた。
 1945年、日本の敗戦により、韓国は「光復」を迎える。
 日本人は九龍浦をあとにし、日本に引き揚げていく。「九龍浦神社」は破壊されたのではないだろうか。
 「岡山県から移住した十河彌三郎」と「香川県から移住した橋本善吉」は、どういう生涯だったのだろうか。岡山県と香川県には、二人の足跡が残っていないのだろうか。
 九龍浦神社裏の高等尋常小学校の運動場北には2つの寺があった。その寺も現在の地図から消えている。墓はあったのだろうか。
 九龍浦に移住してきた日本人と、そこに住んでいた韓国の人たちは、どのような日常を送っていたのだろうか。
 わからないことがたくさんある。
 九龍浦の歴史を調べていくと、地方の町における日本と韓国とのさまざまな関係について、考えないではいられない。

椿の花咲く頃
 九龍浦公園をあとにして階段を降りようとしたら、カップルが階段に座って写真を撮っていた。スマートフォンをスタンドで支え、二人並んだ後ろ姿の写真を撮っていたのだ。

 二人のじゃまをしては無粋だと思い、撮影が終わるまで待っていることにした。
 ふと見ると、脇にドラマ『동백꽃 필 무렵』(トンベッコッ ピル ムリョップ)(邦題:「椿の花咲く頃」)の1シーンだと思える写真が設置されている。きっとここはドラマに関係した撮影スポットなのだ。

 若い世代にとって、九龍浦は、日本植民地時代を想像する場所であるとともに、ドラマの追体験ができるロマンチックな場所なのだろう。


旅行者の味方「ピオラウンジ」

 九龍浦日本人家屋通りの途中(通りの中間)には、旅行者の支援や休憩所を提供する「피어라운지」(ピオラウンジ)という施設がある。
 9:00~21:00の時間帯で「観光案内」「トイレ」「Free WiFi」「物品保管」「授乳室」「車いす・ベビーカー貸出」を行っている。
 私も通りの探索中、トイレでお世話になった。


足を延ばして 虎尾串日の出広場

 「九龍浦日本人家屋通り」の見学をして、さらに時間があるなら、訪ねる場所の選択肢のひとつとして「호미곶해맞이광장」(ホミゴチェマジグワァンジャン 虎尾串日の出広場)はどうだろうか。
 「九龍浦日本人家屋通り」の入り口近くのバス停から、バスに乗れば、30分ほどで着く。
 「虎尾串日の出広場」とか「虎尾串日の出公園」で検索すると、情報が得られるだろう。

虎尾串日の出広場

地図(naver mapへのリンク)

・九龍浦日本人家屋通り(구룡포일본인가옥거리)

九龍浦近代歴史館(구룡포근대역사관)

・虎尾串日の出広場(호미곶해맞이광장)


いいなと思ったら応援しよう!

かきあげどん
よろしければ応援お願いします!いただいたチップは、今後の取材費用に使わせていただきます。