【ガイドブックに載っていない韓国旅行案内】南山人権空間
初稿:2023.09.17
更新:2024.11.03
(この記事は10,150文字です)
速報
2024年10月27日現在、朝鮮総督府官舎遺構と「記憶6」展示館があるエリアの東側の一帯は、南山ゴンドラ工事がおこなわれていて立ち入り禁止となっています。朝鮮総督府官舎遺構は見ることができます。「記憶6」展示館は、建物の外側は見ることができますが、ゴンドラ工事の関係で閉館中となってます。(2024年10月27日に訪ねた時に確認しました。)
南山人権空間
ソウル市内、地下鉄4号線の明洞駅で降り、1番出口から地上に出る。
近くにある世宗(セジョン)ホテルから離れるように、南に延びている坂道を登っていくと、これから紹介する「南山人権空間」(남산인권마루 ナムサンインクォンマル)に入っていく。
今、「南山人権空間」と書いたが、ここ一帯の正式な名称が何なのか、正確に書くことはむずかしい。
NAVER map でここ一帯を検索してみると、「南山芸場公園」(남산예장공원)、「南山人権の森」(남산인권숲)、「日本軍慰安婦記憶の場」(일본군 위안부 기억의터)等の名称がそれぞれの限定された場所に記されている。
また、実際に歩きながら案内表示を見ていくと、「国恥の道」(국치길)と書かれたものもある。
消防災難本部の建物の近くに、総合的な案内地図ではないかと思われるものがある。そこには「南山人権空間」(남산인권마루 ナムサンインクォンマル)と書かれているので、ここではその表記にしたがうことにする。なお表記中の「마루 マル」は、「空間」と訳してみた。また、この案内地図には「旧中央情報部(国家安全企画部)配置図」とも書かれている。
その案内地図には、次のような説明が書かれている。
「南山人権空間
ここソウルの南山の北麓は、庚戌国恥(1910)の現場であり、中央情報部(国家安全企画部、国家情報院の前身)があった場所(1961~1995)です。
市民の意思を集め、この跡を南山人権空間として整え、標石を立て、八道の石を集めて礎石にします。
旧中央情報部(国家安全企画部)の跡地
総面積約82,000m、建物41棟」
南山芸場公園
明洞駅から坂道を登っていくと、最初に訪れるところは南山芸場公園(南山芸場公園)(남산예장공원)となる。南山人権空間は、ここから始まっている。
朝鮮時代には、ここは武芸の訓練場だった。公園の名前もそれに由来している。
ここをスタートとして奥に(南に)進みながら、建物や表示板を見ていくことにしよう。
辺りを見回すと、赤い郵便受けの形をした建築物が目に入ってくる。この建築物の隣には、古い建物の基礎部分が残されている。
赤い郵便受けの形をした建築物は、「記憶6」展示館(旧中央情報部6局)であり、その隣の古い建物の基礎部分は、朝鮮総督府官舎遺構である。
ここ一帯には、大きく分けると、日本が韓国を統治した時代に関係した建物と、韓国の軍事政権時代にできた中央情報部に関係した建物、という2つ時代のものが保存されている。
これから先のものを見ていくにあたり、この2つの時代について簡単に整理しておくことにしよう。
韓国統監部
1910年の韓国併合により日本が韓国を統治することになった。その統治のための機構のすべてを統括したのが朝鮮総督府である。
その建物は、景福宮の宮殿正面に建てられていたものがよく知られている。1926年に建てられた建物は、日本による韓国の植民地支配のための中心的役割を担う。韓国の独立後は、韓国の政府庁舎「中央庁」、その後は国立中央博物館として使用されたが、1995~1996年に解体・撤去されて、今は景福宮に朝鮮総督府の姿はない。
この朝鮮総督府の前身が、統監部(韓国統監部)である。
1904年の日露戦争終結後、1905年に日本(大日本帝国)と韓国(大韓帝国)との間に第二次日韓協約が結ばれる。乙巳年に締結されたことから、韓国では乙巳条約と呼ばれる(乙巳勒約とも呼ばれる。勒約とは、無理やり結んだ条約のこと)。この協約により、大韓帝国のほとんどの外交権は、日本(大日本帝国)に取り上げられ、大韓帝国は事実上保護国となる。
日本は、政治・行政および軍事面の統治をおこなうための機関として、現在のソウルに統監部を設置し、1906年2月1日に業務を開始する。初代統監は伊藤博文。
1910年8月22日に、韓国併合条約が寺内正毅統監(第3代統監→初代総督)と李完用首相により調印される。これにより、大日本帝国は大韓帝国を併合した。8月29日、朝鮮を統治するために朝鮮総督府が設置された。
ただし、統監府はまだ存続し、朝鮮総督の職務は統監が行使した。同年9月30日に朝鮮総督府官制が制定され、統監府は朝鮮総督府に改組された。
朝鮮総督府では、建物としては韓国統監府の庁舎を使用した。
朝鮮総督府の庁舎は、景福宮敷地内で1916年7月10日に起工し、1926年10月2日に完成して、使用が開始された。
統監部(および景福宮敷地内に新築移転するまでの朝鮮総督府)の庁舎があった場所は、次の住所である。
新住所:서울특별시 중구 소파로 126
旧住所:서울특별시 중구 예장동 8-145
現在(2023年9月)、工事中だが、ソウル・アニメーションセンターがあったところである。
中央情報部
「中央情報部」について、韓国民族文化大百科事典は、次のように説明をしている。日本語に直し、抜粋して紹介しよう。
年配の日本人の場合には、「中央情報部」という名称とともに、「KCIA」という名称が記憶に残っているのではないか。
その「中央情報部」の主要な建物・施設があったところが、ここ一帯である。
「南山人権空間」とは、統監部(朝鮮総督府)と中央情報部という、時代は異なるが人権を侵害した2つの象徴的なものが存在していた場所である。
ソウル市は、中央情報部があったことで立ち入りが禁じられていたこの一帯を緑地公園にし、史跡を保存するために、2015年に南山芸場公園再生事業を開始した。事業は、2021年に完成した。
中央情報部6局
中央情報部6局があった場所は、かつての建物は撤去された。柱や壁など、わずかなものが残されているだけである。
その場所には、新たに「記憶6」と名づけられた、赤い郵便受け型の展示館が建てられている。
展示館は、午前10:00~18:00に開館されている(公休日は12:00~18:00)。月曜日休館。
建物に入ると、復元された地下取調室を見下ろすように見ることができる。
取調室については、次のような説明がある。
展示館内には、その他にいくつかの説明が設置されている。
この中央情報部6局(「記憶6」展示館)内には、ソウル市が制作した「国恥の道」(국치길)と「人権の道」(인권길)という2種類のリーフレットが置いてあり、もらうことができる。
表紙に「南山踏査案内」とあるように、内側にはコース図が記されている。
QRコードを読み取ると、動画(韓国語)で各場所の説明を見ることができる。
コース地図には、周辺の建物の情報がほとんど記載されていないため、初めて訪ねる場合には、周辺の詳細な地図も参考にしながら歩く方がよいだろう。
また、中央情報部6局(「記憶6」展示館)は、開館時間までは入れないので、最初にリーフレットを手に入れてから歩くためには、開館時間以降に行く必要がある。
李会榮記念館と南山芸場公営駐車場
なお、「記憶6」や朝鮮総督府官邸跡がある南山芸場公園の地下部分(公園から見ると地下に見える)には、李会榮記念館と南山芸場公営駐車場がある。
中央情報部事務棟
現在は「ソウル特別市 消防災難本部」となっている建物は、かつての「中央情報部事務棟」である。
玄関脇に標石が建てられていて、「捜査と行政機能を担当していた事務空間と共に留置場としても使用した建物です」と説明がある。
チュジャ派出所跡(鋳字派出所跡)
藝場公園から下の道路におりると、チュジャ(鋳字)派出所跡の説明がある。
チュジャ派出所の建物は残されていないが、説明板が立っている。
「中央情報部(国家安全企画部)に連行された人の消息を知るには、ここ(中部警察署のチュジャ派出所)で受付をして、ひたすら待たなければなりませんでした。よく“面会所”と呼ばれていましたが、面会はほとんど行われませんでした。」
中央情報部長公邸
中央情報部事務棟(消防災難本部)の脇を奥に進むと、「文学の家・ソウル」と名前がついている建物がある。
ここが、中央情報部長公邸だったところである。
建物を左に見ながら、前の道路を奥に進んでいくと、庭に入れる門があり、脇に「中央情報部長公館」であったことを示す表示板がある。
総合案内板
ふたたび中央情報部事務棟(消防災難本部)までもどり、山林に入っていく道の脇を注意してみると、案内地図がある。
ここ一帯についてのもっとも公式的な案内地図と思われる。
この案内地図の前が駐車場所として使われているため、案内地図の前に車が止まっていると、気づきにくい。
案内地図の左上には「南山人権マル(空間)」の表題があり、右上には「旧中央情報部(国家安全企画部)配置図」とある。
内容については、この記事の最初に書いたとおりである。
ケヤキとイチョウ
中央情報部事務棟(現:ソウル特別市消防災難本部)から、統監官邸跡の方に進むと、道の左右にケヤキとイチョウの巨木がある。下の写真は、統監官邸跡の方から振り返って見た場合のものである。左がケヤキ、右がイチョウ。
木の説明板によると、どちらの木も1996年8月16日に保護樹に指定されている。その日の時点で、ケヤキの樹齢は450年、イチョウの樹齢は400年ということである。この2本の木は、この辺り一帯の歴史を見てきたことになる。
インターネットで統監官邸を検索すると、統監官邸の建物の写真で、近くに巨木が写っているものがある。その巨木がこの2本の木である。
日本軍慰安婦記憶の場
この先には、「日本軍慰安婦記憶の場」と名づけられた場所があり、「大地の目」、「社会のへそ」というモニュメントがあった。ここは2016年に、慰安婦の女性たちを追慕するためにつくられた場所だった。かつて統監官邸があった場所という意味合いから、この場所が選ばれた。
「大地の目」には、慰安婦だった金順徳さんの絵、慰安婦たちの証言、慰安婦たちの名前が刻まれていた。
「社会のへそ」は、訪問者たちが一休みできる場所になっていた。
ところがこの2つのモニュメントの制作に関わった芸術家の林玉相氏にセクハラ問題があり、裁判で一審有罪となったことから、ソウル市は2023年9月5日、2つのモニュメントを重機により撤去した。
統監官邸跡
撤去された「大地の目」と「社会のへそ」にはさまれるように、「統監官邸跡」を示す碑石がある。
表面には、
「日帝侵略期、統監官邸があったところで、1910年8月22日、3代統監 寺内正毅と総理大臣 李完用が強制併合条約に調印した庚戌国恥の現場である」
裏面には、
「庚戌国恥100年を迎え、2010年8月29日、申榮福が書き、民族問題研究所が立てる」
と刻まれている。
「庚戌国恥」の「庚戌」(こうじゅつ、かのえいぬ、韓国語では경술)は干支のことで、ここでは1910年を意味している。
朝鮮総督府官舎遺構と統監官邸跡どちらにも言えることだが、その建物があった当時の建物の配置図や間取り図のようなものが、資料として近くに設置してあると、その時代についての理解がより深いものになるのではないか。
逆さに立てた銅像
統監官邸跡の碑石の横には、「逆さに建てた銅像」がある。
銅像本体部分はなく、基壇部分の3面の石が、裏返しに組まれ、なおかつ上下が逆さになっている。
この銅像には、次のような説明がある。
「逆さまに立てた像
林権助(1860~1939。1900年、駐韓日本公使として赴任)は、高宗皇帝と大臣たちを脅迫して乙巳勒約(1905年11月17日。徳寿宮中明殿)を強要するなど、併合の足掛かりを築いた人物である。
日帝はその功績で男爵爵位を与え、大韓帝国が国恥(1910年 庚戌年 8月22日、総理大臣李完用と韓国統監寺内正毅が署名。29日発表)をされた、ここ韓国統監官邸に銅像を建てた。銅像の名前は男爵林権助君像である。
光復70周年を迎え、散らばっていた銅像の残骸を集め、逆さまに立てて辱めを称える。」
中央情報部本館(ソウル・ユースホステル)
さらに先に進んでいくと、ソウル・ユースホステルの建物が現れる。
ここがかつて中央情報部本館だったところである。
玄関前の郵便受けに、次のような説明がある。
玄関前の「ソウル・ユースホステル」の碑石には、次のような説明がある。
中央情報部第6別館
ソウル・ユースホステル前の駐車場を間にして、反対側には「ソウル総合防災センター」がある。
その隅に、「旧中央情報部 第6別館」についての説明がある。
中央情報部第5別館(中部公園余暇センター)
ソウル・ユースホステルとソウル総合防災センターの間をぬけて、さらに先に進んでいくと、トンネルが現れる。
そのトンネルをぬけると、玄関に「ソウル特別市 中部公園余暇センター」と表示された建物が現れる。
ここが「中央情報部 第5別館」だったところである。玄関脇の植え込みの中に、説明がある。
そのほかの情報
統監官邸跡の周辺には、調べると、乃木神社跡、京城神社跡、やや離れて朝鮮神宮跡がある。
たとえばリラ初等学校の隣にある「社会福祉法人 南山園」の敷地内には、乃木神社にあった手水舎の水盤(手水鉢)が残されている。私はかつて南山園を訪ねて、水盤(手水鉢)を見せていただいたことがある。2003年7月30日のことだ。
今から20年も前のことになるので、最近のようすを韓国内のブログやインスタグラムなどで調べると、周りの様子や配置が変わっている。置かれている位置も変わっているかもしれない。しかし今も南山園にあることがわかった。
ただ、ここは南山園という施設の敷地内のため、勝手に入って見るわけにはいかない。要件を説明して、許可を得る必要がある。
その他、京城神社跡、朝鮮神宮跡については、手元に資料がないため、今回は紹介をしなかった。今後調べて、紹介したいと思う。
もうひとつの南山
ソウルにある南山ソウルタワー(Nソウルタワー)というと、ランドマークともいえる場所である。ケーブルカーを使うと、簡単に行くことができる。タワーの展望台に上ると、ソウル市内がよく見える。また、夜には夜景がすばらしい。
観光地としても有名なところだが、南山には、日本が統治していたころの歴史や中央情報部による人権侵害の歴史が残っている。
なお、いずれの場所も一般的な観光地ではない。訪ねると、ただ建物や礎石が残っているだけ、という感想を持つかもしれない。日本語の説明がないところもある。しかし、「記憶6」の展示室内の説明文にもあるように、「歴史に話しかけるときだけ、石やセメントも叫んで答えてくれるはずです。歴史が言葉がないのではなく、話しかけないときに歴史が沈黙するのです。」という言葉を、ここではもう一度、載せておきたい。
以上のようなことを理解したうえで、訪ねていただきたい。中級程度の韓国語の読解力があれば、各所の説明文の内容の理解はできると思われる。
地図(この記事のはじめに載せたものと同じ)
地図(naver mapへのリンク)
・南山芸場公園
・記憶6展示館
・統監部(および景福宮敷地内に新築移転するまでの朝鮮総督府)所在地
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