【ガイドブックに載っていない韓国旅行案内】端宗を追って 清冷浦・荘陵・死六臣墓・思陵(草稿)
草稿:2024.01.09
(この記事は10,322文字です)
この記事を書く作業に、時間がかかっています。一旦、「草稿」という形で公開をします。内容のおおまかな部分は間違いがないように確認をしていますが、人名、細かな経緯、数字については間違っている部分があるかも知れません。さらに詳細な内容は、現在、調査を続けています。今後、加筆や修正をしていく予定です。そのことをあらかじめご理解いただき、拙文をお読みいただけたらと思います。
世宗と集賢殿の学者たち
朝鮮王朝第4代王である世宗(세종)は、ハングルをつくった王として知られている。朝鮮語は中国の漢字を用いて表記されてきた。しかし中国語とは文の構造が異なる朝鮮語を漢字のみで表記することには困難があり、朝鮮独自の文字を創る必要を世宗は痛感していた。
集賢殿は王宮である景福宮に設置されていた研究機関である。世宗はその機能を拡大させてきた。新しい文字を創り出す作業を、世宗は集賢殿の学者たちに命じた。
新しい文字ハングルは、1446年に『訓民正音』という名の書物によって発表された。執筆したのは、鄭麟趾、 申叔舟、成三問、 朴彭年、李塏、崔恒、姜希顔、李善老 の8名の学者たちである。
朝鮮王朝の正宮である景福宮の中、かつて集賢殿のあった場所には、現在は「修政殿」と呼ばれる建物が立っている。
多くの成果をあげた集賢殿は、1456年に起きた事件により廃止されることになる。また、ハングルを創り出した学者たちの何人かは、命を落とすことになる。
世宗から文宗・端宗へ
世宗は自分の次の王を、長男である文宗(문종)にすることに決めていた。文宗は体が弱かったため、短命であることが予想された。文宗が早く亡くなった場合には、孫(文宗の長男)である端宗(단종)に王位が渡されることになる。
世宗は、長男である文宗、孫の端宗の将来を心配した。気になっていたのは、文宗の3歳年下の弟である首陽大君(수양대군)の存在である。首陽大君は血気盛んな性格で、文宗や端宗を脅かすような存在になると考えられた。
そこで世宗は、もっとも信頼をしている集賢殿の学者たちに、文宗と端宗の2人を補佐するように頼んだ。
1450年に世宗は崩御する。このとき、文宗は36歳、端宗は9歳であった。
世宗が崩御すると文宗は王位につく。病弱だった文宗は、自身の短命を予見していて、自分の子である端宗が即位したときのことを心配していた。そこで、皇甫仁(役職は領議政=議政府の最高官職)、南智(役職は左議政=議政府の正一品の官職。領議政の下、右議政の上)、金宗瑞(役職は右議政=議政府の正一品の官職)などに、端宗を輔弼することを頼んだ。
文宗は即位からわずか2年後の1452年、38歳で崩御する。
端宗が王位を継ぐ。端宗はこのとき11歳だった。
首陽大君の台頭
幼い端宗が王位につくと、文宗の兄弟たちは権力を手中にするために勢力争いを始めた。その中でも、文宗の弟の首陽大君、さらにその弟の安平大君は宮中を二分するように巻き込みながら、勢力を強めていった。
これに対し、右議政の金宗瑞は自らの臣下を従えて、首陽大君、安平大君の二大勢力を牽制する強大な勢力を形成していった。
朝廷の大臣たちが安平大君側につき始めると、危機を感じた首陽大君は、權擥、韓明澮、兪應孚などの部下を中心にし、さらに彼らを通じて洪達孫、楊汀などの武人30人余りを抱き込んだ。
これにより首陽大君の勢力は強固になり、さらに、申叔舟、武芸に精通した文官 洪允成、武官 楊汀、淸白吏 領議政 黃喜の息子 黃守身、 金宗瑞の最側近 李澄玉の「兄 李澄石」と「弟 李澄珪」兄弟などがその勢力に加わる。
また、讓寧大君、臨瀛大君、永膺、世宗の後宮である慎嬪金氏の実子である桂陽君 李璔などの主要な宗親も彼の勢力となった。
首陽大君のクーデター 癸酉靖難 1953年
首陽大君は、韓明澮などの部下の知恵をかりて権力を奪取するための計略を画策する。最初の計略は、「首陽大君が権力奪取を計画している」という自身に向けられた警戒心をほどくことだった。
そこで首陽大君は部下とともに明に使臣として出かけ、勢力争いの舞台である朝鮮を離れる。このことによって、朝廷の大臣たちの警戒心を弱めることに成功する。
明からの帰国後、首陽大君は韓明澮、權擥、洪允成らとともに、自身の勢力拡大に邪魔となる重臣の名を記した殺生簿を作成し、殺害を実行に移して行った。
最初の標的は左議政 金宗瑞。首陽大君は部下に景福宮を占領させ、ほかの部下たちとともに金宗瑞の家に向かう。
金宗瑞は殺害される数日前には、申叔舟と崔恒の訪問を受け、殺害される当日には、權擥の訪問を受けていた。訪問をした3名は、いずれも首陽大君側についている者たちである。しかし、金宗瑞は首陽大君がクーデターを企てていることには全く気づかず、警戒していなかった。
金宗瑞の家に来た首陽大君は、部下に対して合図とともに金宗瑞を鐵槌で叩きつけるよう命じた。
首陽大君は金宗瑞の家には入らず、外で部下たちと共にいた。家に入るように勧める金宗瑞に対し、首陽大君は用意しておいた手紙を渡す。金宗瑞が手紙を月明かりに照らしてみた瞬間、首陽大君は合図を出し、部下は鐵槌で金宗瑞を叩きつけ、さらに別の部下は金宗瑞の息子金承珪やその同僚たちを鐵槌で叩きつけた。
こうして癸酉靖難は始まった。
殺されていく反対勢力
さらに首陽大君は、計画を実行していく。四大門と主要な軍施設を掌握した後、端宗に会う。首陽大君は端宗に、金宗瑞が安平大君(首陽大君の弟。端宗の叔父)と組んで謀反を企んだと報告する。
首陽大君は端宗からの王命を利用し、朝廷の大臣たちを全員、宮中に集まるように指示を出す。時坐所に一人ずつ入って来させるようにして、首陽大君は、自身に反対する大臣たちを、洪允成らの部下に鉄槌を振るわせて殺していく。皇甫仁、李穰、趙克寬などが殺された。殺された大臣たちの妻や子どもたちは、奴婢にされた。
さらに首陽大君は、対抗勢力の安平大君を江華島に流刑させ、死薬を下して殺す。
逆に、首陽大臣側に立っていた大臣や臣下に対しては功臣として位を与え、朝廷の主要な官職につかせた。これにより、首陽大君は朝廷の中で独占的な勢力をもつことになる。
首陽大君が起こしたこのクーデターを「癸酉靖難」という。「癸酉」は1453年の干支、「靖難」は「国の危難を平定すること」という意味がある。
端宗 王位から上皇へ
端宗の正妃である定順王后宋氏は、1440年の生まれで、端宗より1歳年上である。癸酉靖難の翌年1454年2月19日(陰暦1月22日)、王妃に即位した。
癸酉靖難が起こり、首陽大君の勢力が大きくなったことで、端宗の譲位が強要されていく。1455年7月25日(旧暦 閏6月11日)、端宗は首陽大君(世祖)に王位を譲り、上王に退き、壽康宮(昌徳宮の東にあった宮殿。のちの昌慶宮)に居を移した。
端宗復位計画 1456年
端宗が譲位したとは言え、実際は首陽大君が王位を強奪したようなものである。この動きに対し、異議を持つ者たちがいた。
首陽大君(以下、世祖と表記)が即位した年1455年の10月ころから、のちに「死六臣」と呼ばれることになる成三問、朴彭年、李塏、河緯地、柳誠源、兪應孚、および金文起(「金文基」と表記する資料もある)たちは、端宗を復位させるための計画を立て始める。
このうち、成三問、朴彭年、李塏、河緯地、柳誠源は、集賢殿の学士出身官僚である。
彼らは、翌1956年6月に昌徳宮で開催されることが決まった明からの使節を饗応する会の時を、世祖暗殺計画の実行日と決めた。当初、この会場で王の横には、剣を持った護衛(別雲剣)がつくことになっていた。成三問の父親である武臣の成勝が、この護衛の役割として参加し、機会をとらえて世祖親子の首を斬る計画だった。ところが会場の都合から、世祖は剣を持った護衛(別雲剣)を置かないことを事前に指示したため、饗応会での世祖暗殺計画は、後日に延期されることになった。
計画が延期されると、加担者の一人であった金礩は先行きに不安を持ち、自分の義父鄭昌孫に計画を話し、端宗復位計画は暴露されてしまう。
死六臣
成三問、朴彭年たち首謀者は捕らえられ、拷問を受け、処刑される。
(それぞれどのような拷問を受けたのかを筆者は調べてみたのだが、まだ詳しくは整理できていない。調べられた範囲で書くことにする。)
成三問……義禁府に投獄され、灼刑((熱した鉄で体を焼かれる拷問)、車裂刑(거열형)(2台の車に足を片方ずつ縛って動かし、体を2つに引き裂いて殺した刑罰)を受けて殺される。死体は凌遲處死(능지처사)にされた。凌遲處死とは、大逆罪を犯した者に科された極刑で、殺された後、四体を頭、腕、脚、体をバラバラにされて、各地に回して見せる刑罰である。
朴彭年……義禁府に投獄され、ひどい拷問を受けて獄中で死亡した。死体はさらに車裂刑にされ、首はさらし首になり、首以外は全国に回して見せられた。
李塏……拷問を受けたあと、車裂刑。
河緯地……車裂刑。
柳誠源……成均館で成三問や朴彭年のことを聞き、家に帰って妻と別れの杯を交わした後、先祖の祠堂の前に行き、腰の刀で自分の首を刺して自決した。遺体はその後、車裂刑。
兪應孚は、灼刑(熱した鉄で体を焼かれる拷問)、車裂刑を受けて、死んだ。
ーーー
金文起……車裂刑。
死をもって世祖に服従しなかった臣下たち、すなわち、成三問、朴彭年、河緯地、李塏、柳誠源、兪應孚の6人を「死六臣」と呼ぶ。最後に名前を書いた金文起は、三重臣の一人として扱って「死六臣」に入れない資料もあるが、死をもって世祖に服従しなかった臣下という広い意味で「死六臣」に入っている。
死六臣墓
死六臣の墓は、ソウル市内銅雀区鷺梁津洞にある。
地下鉄1号線または9号線の鷺梁津(노량진)駅から500mほど離れた「死六臣公園」が、墓のある場所である。
死六臣墓を目指して進んでいくと、まず、紅살門(홍살문)がある。門をくぐってさらに進むと、不二門(불이문)があり、そこを入っていくと、正面に義節祠(의절사)、左に神道碑(신도비)、右に六角の死六臣碑(사육신비)がある。
死六臣を追慕するために、粛宗7年(1681)に民節書院(민절서원)が建てられ、正祖6年(1782)には神道碑が建てられたと伝えられている。民節書院は今はなく、その跡には義節祠と六角の死六臣碑が建っている。
ここには、朴彭年、成三問、兪應孚、李塏、河緯地、柳誠源、そして金文起の7つの墓がある。
墓域は、義節祠の裏側にある。
死六臣墓には、次のような説明板が設けられている。
大規模な粛清
刑を受けたのは「死六臣」だけではない。死六臣に関係した臣下、家族、親類縁者等を含め、数百~千人以上の者たちが刑を受けた。死刑だけではなく、流刑になったものもいた。また、女性は奴婢や妾にされた。
また、端宗復位運動を首謀した者や関係者に集賢殿の学者や集賢殿出身者が多かったことから、集賢殿は廃止された。
端宗の流刑と死 1457年
死六臣の事件があった翌年1457年、端宗は、死六臣の事件に関わっていたという疑いにより、世祖によって上皇から魯山君(与えられた称号)に降格されて寧越に流刑される。
端宗が流刑された場所は、江原道寧越の清冷浦。蛇行して流れる川の中に突き出した広大な岸のようなところだ。三方は川に囲まれ、残る一方は山の険しい岸壁に行く手を遮られている。見る位置によっては島のようにも見える。
船で渡らなければ抜け出せない場所であるため、流刑地となった。
端宗はここで1457年6月から約2か月の間、流刑生活を送る。
「禁標碑」
端宗が流刑されていたここに一般人が出入りしたり行動したりすることを制限するために、英祖2年(1726年)に建てられた碑石。「東西三百尺、南北四百九十尺」と制限区域を表す範囲が刻まれている。
「望郷塔」
「端宗大王が流配されてここにお留まりになられる間、王妃宋氏を思いながら石を拾って積み上げた塔です」と説明がある。
「魯山台」
「端宗大王が魯山君に降封され、清冷浦に滞在している間、ここに登って憂いに沈んだ場所です」と説明がある。
流刑生活が2か月ほど経った1457年の夏、清冷浦は洪水に襲われる。
洪水を避けて端宗が移り住んだところが觀風軒である。
その近くには、子規樓という建物があり、端宗は觀風軒からここに来ては樓に上り、子規詞や子規詩を詠んだ(子規は、ホトトギスのこと)。そのため、この建物は子規樓と呼ばれるようになった。
端宗が流刑された1457年の9月。死六臣事件にかかわって流刑されていた錦城大君(世祖の弟)は、流刑地である順興(慶尚北道)で、ふたたび端宗復位計画を立てて実行する。これに対し、世祖は錦城大君に死薬を飲ませて自死させた。さらに寧越にいた端宗に対しても死薬を飲ませ、自死させた。端宗は16歳(数え17歳)で生涯を閉じた。
端宗が亡くなっても、後難を恐れて誰も彼の遺体を埋葬できないままになっていたが、寧越郡の戸長である嚴興道が遺体を収拾して、今、陵があるところに仮埋葬をした。封墳としての形を備えることになったのは、端宗の死から59年後の1516年のことである。
荘陵
端宗の王陵である荘陵は、寧越バスターミナルや寧越郡庁あたりからだと、2kmほど離れたところにある。
筆者が荘陵を訪ねた時、いちばん最初に抱いたのは、「丁字閣」とその先に見える「荘陵(封墳)」との位置関係に対する違和感だった。
「丁字閣」から「荘陵(封墳)」を見ても、「荘陵(封墳)」は正面を見せてくれない。正面は右を向いている。そのことが、端宗の死に方やその亡骸のその後の埋葬のされ方と関係があるのかどうか、筆者にはわからないでいる。
「荘陵(封墳)」に近づくためには、「丁字閣」のある位置よりもだいぶ手前で右側の松林の中に入り、山の中の小道を歩いて行くことになる。
晩年の王妃
端宗の王妃であった定順王后宋氏は、1954年に端宗と結婚をした。
1455年、端宗が首陽大君(世祖)に王位を譲り上王になると、王妃は王大妃となり懿德の尊号を与えられた。
1456年に端宗復位事件(死六臣事件)が起こる。 その事件に関係したとみなされ、端宗は1457年に魯山君という称号を与えられて降格され、江原道寧越に流刑される。懿德王大妃(定順王后宋氏)は宮中を追い出された。
王大妃は、東大門から1.2kmほど北東、崇仁洞にある青龍寺の近くに草庵を建てて、侍女たちと共に暮らした。
青龍寺は、地下鉄6号線の창신駅の近くにある。
3番出口から外に出て、坂道をのぼっていくと、左側にあるのが青龍寺である。寺の門よりも手前に見えてくるのが、王大妃(定順王后)が晩年を過ごした淨業院の跡を示す碑閣である。
淨業院跡を示す碑閣には、次のような説明が設置されている。
青龍寺の門の前に立ち、後ろを振り返ると、住宅の先に木々が茂る小山が見える。そこが東望峰である。青龍寺の前の坂道をのぼっていき、小山をめざす。住宅の中の狭い道に入らないようにして、車が通れる広い道を歩いて行くと、公園として整備されたところにつく。
現在は、端宗と定順王后に起きたできごとを絵と文章で紹介する説明板が立っている。
青龍寺の脇に建つ淨業院跡の碑閣扁額には、英祖が「前山の裏岩千万年続くだろう(前峯後巖於千萬年)」と書いたが、英祖の願いもむなしく、岩は千万年残ることはなかった。
思陵
定順王后の陵である思陵は、京畿道南陽州市眞乾邑思陵里(경기 남양주시 진건읍 사능리)にある。
ソウル市の中心部から地下鉄を利用する場合には、地下鉄京春線に乗車し、思陵駅(사릉역)で下車すると、そこから約2kmのところにある。
筆者が訪ねたのは2009年。このときには、丁字閣から先、奥の思陵(封墳)まで歩いて行くことができた。
朝鮮王陵はこの年に世界遺産に登録される。王陵の保存のための措置はよりいっそう厳格になり、現在は丁字閣のすぐ先には柵が設けられていて、奥には立ち入りができなくなっているようである。
端宗と結婚をしながらも、わずかな年月をともに過ごしただけで離れて生きていくことになった定順王后。端宗のことを思い続ける毎日だったことから、その陵の名は「思陵」とつけられた。
朝鮮王陵は観光目的で訪ねることになるわけだが、一般的な観光地ではなく「墓」である。「墓」であることを忘れずに見学をしたい。また、朝鮮王陵は世界文化遺産である。敬意と保護という面から、注意を守って見学をすることが必要である。
中級程度の韓国語の読解力があれば、各所の説明文の内容の理解はできると思われる。
端宗の陵である「荘陵」はハングルで表記すると「장릉」である。同じく「장릉」と表記される別の陵に、「章陵」、「長陵」がある。ハングルでは区別がつかないため、端宗の陵を表す場合には場所を加えて「寧越 荘陵」(영월 장릉)としていることが多い。
ちなみに「章陵」は「金浦 章陵」(김포 장릉)、「長陵」は「坡州 長陵」(파주 장릉)である。
地図(naver mapへのリンク)
・景福宮修政殿(集賢殿があったところ)(ソウル市)
・死六臣墓(ソウル市)
・清涼浦(チケット売り場)(端宗の流刑地)(江原道寧越郡)
・觀風軒(端宗の2番目の流刑地)(江原道寧越郡)
・荘陵(寧越 荘陵)(端宗の王陵)
・青龍寺(ソウル市)
・思陵(京畿道南陽州市)
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