【ガイドブックに載っていない韓国旅行案内】国立大田顕忠院
初稿:2024.06.18
更新:2024.06.18
(この記事は10,759文字です)
国立墓地
韓国には、国立墓地(クンニムミョジ 국닙묘지)がいくつもある。
分類すると、国立顕忠院、国立民主墓地、国立護国院、国立新岩先烈公園の4つである。
このうち、国立顕忠院(クンニプヒョンチュンウォン 국립현충원)は2つあり、1つは国立ソウル(서울)顕忠院、もう1つはこのあと紹介する国立大田(テジョン 대전)顕忠院である。(2024年6月時点)。
さらに3番目の顕忠院として、国立漣川(ヨンチョン 연천)顕忠院(京畿道漣川郡所在)の造成が計画されていて、2024年秋に工事が始まる予定である。
国立ソウル顕忠院は数回、訪ねたことがある。韓国が国として、どういう方々を、どんなふうに埋葬しているか、ということを知りたかったからだ。同時に、その方々の生涯について知ってみたい、という関心がある。
調べると、国立ソウル顕忠院の他に、国立大田顕忠院があることがわかった。場所は、大田広域市儒城区。
国立大田顕忠院
国立大田顕忠院(クンニプテジョンヒョンチュンウォン 국립대전현충원)は、国立ソウル顕忠院の埋葬能力が限界に近づいていく中、朴正熙(パク・チョンヒ 박정희)大統領により新しい国立墓地の設置の検討が指示され、1976年に大田国立墓地の設置が決定されたことに始まる。
1979年から工事が本格的に始まり、1985年に完成する。埋葬は、1982年から始まっている。1996年に「大田国立墓地」から「国立大田顕忠院」に名称が変更された。
大田は何度か訪ねたことがあるけれども、訪ねた当時は顕忠院のことが意識になかった。あらためて、国立大田顕忠院に行ってみたいと思った。
国立顕忠院の安葬対象者
国立顕忠院の安葬対象者については、「国立墓地の設置及び運営に関する法律(略称:国立墓地法)」(국립묘지의 설치 및 운영에 관한 법률)の「第5条(国立墓地別安葬対象者)」に規定されている。国立ソウル顕忠院、国立大田顕忠院、国立漣川顕忠院(今後完成)の安葬対象者は、次のようになる。(以下の箇条書きは、筆者が条文を要約したものであり、正式なものではない。正式な条文には、細かい条件や但し書き等が入っている)
가.大統領・国会議長・大法院長又は憲法裁判所長の職にあった者と国家葬で葬られた者
나.殉国烈士と愛国志士として死亡した者
다.現役軍人と召集中の軍人及び軍務員であって死亡した者
라.武功勲章を授与された者で死亡した者
마.将星級将校または20年以上軍に服務した者のうち、除隊・退役または免役された後に死亡した者
바.戦闘に参加して戦死したり、任務遂行中に殉職した予備軍隊員又は警察官
사.軍人・軍務員または警察官として戦闘や公務遂行中に負傷して転役・退役・免役または退職した者で死亡した者
아.火災鎮圧、人命救助、災難・災害救助、救急業務の遂行またはその現場状況を仮想した実習訓練と消防支援活動および生活安全活動中に殉職した消防公務員と、負傷した消防公務員として死亡した者
자.6·25参戦在日学徒義勇軍人として死亡した者
차.義死者及び義傷者として死亡した者のうち、大統領令で定める要件を備えた者
카.山火事鎮火・矯正業務など危険な職務を遂行する公務員として職務遂行中に死亡し、関係機関の長が殉職公務員として安葬を要請した者
타.殉職公務員及び公傷公務員として、危険な職務遂行中に死亡又は負傷したと認め、安葬対象審議委員会が安葬対象者と決定した者
파.国家や社会に顕著に貢献した者(外国人を含む)のうち死亡した者
하.独島義勇守備隊の隊員として死亡した人
国立大田顕忠院へ向かう
大田(テジョン 대전)(正式には大田広域市)には、日本人旅行者の場合、ソウルからなら鉄道かバスで行くことになるだろう。
KTX(韓国高速鉄道)を使えば速くて快適だが、料金は高くなる。安い料金で、KTXよりはちょっとのんびり行くバスを選んだ。
終点の大田の複合バス‐ターミナルは、中心部の大田駅からは2km以上離れている。バス‐ターミナルから少し歩き、市内バスに乗って大田駅に向かう。そこから地下鉄に乗り、「顕忠院(ヒョンチュンウォン 현충원)」駅で降りる。(国立大田顕忠院に行く方法は、この他、市内バスを利用する方法もある)
あらかじめ大田顕忠院のホームページで調べておいた経路によると、この地下鉄「顕忠院」駅の2番出口を出たところが、顕忠院行きの無料のシャトルバス乗り場になっているということだった。
このシャトルバスは名前を「보훈모시미(ポフンモシミ 報勲モシミ)」といい、30分間隔で運行されている。
こうして2023年5月11日、天気は快晴、シャトルバス乗り場に到着したポフンモシミ号に、私は乗り込んだ。
運転席の横に顕忠院内の案内地図「安葬者位置案内」が何十枚も置いてあり、1枚もらった。
発車時刻が近づくにつれ乗客の数は増え、5月の平日であったが、車内は30人ほど乗ったのだろうか、満員の状態になった。乗客は老人が多かった。花束を抱えた老人もいた。私は老人に席を譲って立った。私も含め立って乗る者で通路はいっぱいで、車内はぎゅうぎゅう詰めだ。顕忠院までは約5分。
ポフンモシミは、顕忠院の正門入り口あたりが終点で、そこで降りることになるのかと思ったら、広い院内であるため、あちらこちらにバス停留所が設けられている。案内地図にはその停留所の位置が示されているが、どのバス停で降りたらいいのか、決めあぐねているままに乗っていた。初めての場所で、自分がどこを走っているのかもわからない。よくわからないまま、大きな建物の前で降りた。あとで位置関係がわかってくると、降りた場所は地図の「4」で「忠魂堂」(チュンホンダン 충혼당)の前だった。(地図の中央の右端付近)
私が気をつけていること
顕忠院や民主墓地などを訪ねるにあたって、私は気をつけていることがある。顕忠院も民主墓地も、「墓」である。埋葬された故人と関係のある方が、故人を偲ぶ場所だ。そういう場所を旅行者である私は歩かせていただいている。
そこで、私は、葬儀や奉安に直接関係した施設には立ち入らないようにしている。そういう施設は、入り口の雰囲気からして、とても厳粛に感じられる。一方、埋葬された方の業績や韓国の歴史を紹介するための展示施設もあり、こちらは入り口に「観覧時間」や「観覧の注意」などについての表示があったり、広報ポスターが貼られていたりして、区別がつく。
バスを降りた「忠魂堂」(チュンホンダン 충혼당)は、前者の葬儀や奉安に関係した施設だと感じられたので、中には入らなかった。あとで調べると、「忠魂堂」は遺骨の安置と儀礼のための施設であった。
大田顕忠院は広い
『斗山百科(トゥサンベックァ 두산백과)トゥピディア(두피디아)』事典によると、国立ソウル顕忠院の全体面積は、143万㎡。これに対し、国立大田顕忠院の全体面積は、329万6807㎡で、ソウル顕忠院に対し大田顕忠院の面積は約2.3倍の広さになる。
(国立ソウル顕忠院の全体面積については、144万㎡と説明している資料もある。また、国立大田顕忠院のホームページでは、総敷地面積を330万9553㎡と説明している)
また、ソウル顕忠院も大田顕忠院も、敷地のもっとも外側を囲むように散策路がある。それぞれの顕忠院の入り口から、散策路のもっとも遠い位置までの直線距離を naver map 上で計測してみると、ソウル顕忠院は約1.2km、大田顕忠院は約2.3kmある。大田顕忠院は、入り口からもっとも遠いところまで、まっすぐに歩いて行っても30分ほどかかる広さだ。
ソウルにある景福宮(キョンボックン 경복궁)の面積は約43万㎡ある。これをもとにすると、国立ソウル顕忠院はその約3.3倍、国立大田顕忠院は約7.6倍の広さになる。
墓域に入っていく
シャトルバスの中でもらった案内地図には、院内の主要な道路が灰色で描き込まれているが、その他に番号がふられた墓域と墓域の間にも人が歩けるくらいの幅の小道があり、全体の道は碁盤上の線のように通っている。
バスを降りた「忠魂堂」(チュンホンダン 충혼당)近くのトイレで用を済ませ、墓域に入って歩き始めると「508」「509」の表示が見えた。
そのまま進むと「顕忠館」(ヒョンチュングァン 현충관)の脇につく。「顕忠館」の裏手には、山林が残されている。突然、その林の中から何かが飛び出してきて、こちらに向かってきた。子どもの鹿だった。私に気づくと鹿は急に方向を変えて、また林の中に駆け込んで行った。
「顕忠館」も、葬儀や埋葬に関係した施設に感じられたの入らなかった。「顕忠館」は、追慕行事や文化行事を行う施設ということだ。
顕忠門と顕忠塔
さらに進んで、国立大田顕忠院の象徴的な建造物である「顕忠門」(ヒョンチュンムン 현충문)に向かった。
「顕忠門」があり、その奥には「顕忠塔」(ヒョンチュンタプ 현충탑)がそびえ立っている。
「顕忠塔」について、国立大田顕忠院のホームページに、次のような説明がある。
「顕忠門」には、次のような出来事がある。
国立大田顕忠院が竣工したのは、1985年。当時の大統領は全斗煥(チョン・ドゥファン 전두환)。
竣工の時点で「顕忠門」に掲げられた「현충문」(顕忠門)という扁額の文字は、全斗煥が書いた文字をもとにして作られていた。
しかし1995年、全斗煥は、12・12軍事クーデターや5・18光州での虐殺等により逮捕され、第1審では死刑判決を受け、第2審では無期懲役となる。禁固以上の刑が確定したことで、大統領経験者としての礼遇は奪われる。
全斗煥の文字が使われた「顕忠門」の扁額を取りかえるという動きが起こる。2020年、「현충문」(顕忠門)という扁額の文字は、安重根(アン・ジュングン 안중근)の文字をもとにした扁額に交換された。また、「顕忠塔」の前にある献詩碑の文字も全斗煥が書いたものであったため、これも安重根の字体に替え、裏面にあった全斗煥の言葉は消されることとなった。
全斗煥に関係したこととして、12・12軍事クーデターや5・18光州での虐殺に中枢として関わった軍関係者の墓が、国立大田顕忠院にあることが、課題となっているとのことである。(全斗煥と国立大田顕忠院に関係した以上の内容については、「OhmyNews」の記事「전두환 정권 때 준공된 대전현충원, 아직 남은 전두환의 흔적들」2023.11.13を資料にした。記事の最後にリンクがつけてある)
「顕忠門」と「顕忠塔」のある一帯は、広大な空間が設けてある。
私がそこにいた時間帯には他に誰もいなかった。
一人で歩いていると、自分が小さな存在に思えてくる。
埋葬されている死者の魂と、青く高くぬけた天との間で、霊的なものに包まれて自分がいるような気分になってくる。
セウォル号殉職教師の墓
案内地図を見ると、墓域の南の方に蒸気機関車のイラストが描かれている。
何だろうと思い、顕忠門からその方向に向かってみる。
すると、歩いている途中、道路には「세월호 순직교사 묘소」(セウォル号殉職教師墓所)という案内板が立てられていた。2014年4月に起きたセウォル号沈没事故で犠牲になった教師の墓がここにあることを知った。
矢印の方向に歩いて行くと、「공무원묘역」(公務員墓域)という表示板があり、その前に、「教師 〇〇〇」と役職と名前が刻まれた墓石が並んでいる。その前後の列には、「鉄道員 〇〇〇」「航空整備士 〇〇〇」というような役職の墓が並んでいた。
セウォル号沈没事故により亡くなった教師の墓石の側面には、「2014年 セウォル号沈没時 安山檀園高2学年の教え子たちを救っていたところ殉職」と刻まれている。
私が訪ねた時には、殉職したキム・チョウォン(김초원)先生を追慕する横断幕が、「セウォル号惨事9周忌」に合わせて道路脇に掲げられていた。
韓国の大型旅客船「セウォル号」(歳月号)は、2014年4月15日の夜、仁川港から済州島に向けて出航する。
この船には、3泊4日の日程の修学旅行で済州島に向かう京畿道安山市の檀園(タノォン 단원)高校2年生325名と引率教師14名も乗っていた。最初の夜を船の中で級友と過ごし、楽しい時間を過ごしたことだろうと想像できる。
一夜明けた4月16日、午前8時50分ごろ、船は全羅南道珍島郡鳥島面東巨次島里(전라남도 진도군 조도면 동거차도리)付近の海上で沈没する。
乗船していたのは、乗務員29名を含めて計476名。そのうち救助されたのは172名。死亡299名、行方不明5名。修学旅行の檀園高校では、2年生325名中250名が死亡、引率教師14名中11名が死亡した。
セウォル号沈没事故については、あらましを知っているだけだったが、この原稿を書くにあたり、あらためて調べてみると、namu.wiki の「청해진해운 세월호 침몰 사고」(淸海鎭海運セウォル号沈没事故)の項目内に、「경기 안산 단원고등학교의 피해 상황」(京畿安山 檀園高等学校の被害状況)の説明があり、その中で「단원고 학생들과 교사들의 이야기」(檀園高 学生たちと教師たちの物語」として、犠牲になった学生や教師、助かった学生たちについて当時の状況の説明がある。(韓国語)
https://namu.wiki/w/청해진해운 세월호 침몰 사고#s-8.1.1
事故発生を真っ先に海洋警察に通報した学生(死亡)、となりの友人に救命胴衣を譲った学生(死亡)、学生たちに救命胴衣を与えた後、学生たちを避難させようと指示を出し尽力した教師(死亡)、学生たちの脱出のために自らは最後まで残った教師(死亡)、友人を救出した学生(死亡)、友人20人を救助した学生(生存)、5歳の子を抱いて助け出した学生(生存)など、30名以上について紹介されている。
乗船客には何の責任もない事故だった。
楽しいはずの修学旅行の船旅は、突然に死に直面する恐怖の時間に変わってしまう。
その中、生徒を救おうとして殉職した教師たち。
墓の前でご冥福を祈った。
独島義勇守備隊
後日、案内地図をよく見ると、公務員墓域と同じ域内には、「독도의용수비대묘역」(独島義勇守備隊)の文字が並べて書かれている。
セウォル号沈没事故の殉職教師の墓に意識が向いていたため、気づかなかった。
調べると、「竹島」(韓国では「独島」と呼んでいる)を守るために1950年代前半、志願して島に上陸し、武装して日本の巡視船と戦った義勇守備隊がいたということである。この隊員の遺骨が国立大田顕忠院に埋葬されているということだ。
「竹島」をめぐる日本と韓国の間の主張の対立については、少し調べてみるだけでも複雑な歴史がある。
護国鉄道記念館
セウォル号殉職教師墓所をあとにして、さらに歩いて行くと、蒸気機関車と2輛の客車が展示されている。案内地図で蒸気機関車のイラストが描かれていたところだ。
この車輛には「護国鉄道記念館」という名前がついている。
まわりには、いくつか案内板がある。
文中「新灘津」というのは大田にある京釜線の駅で、この駅から分岐した線路が、大田鉄道車両整備団に伸びている。
蒸気機関車部分については、詳細な説明が設置されている。
説明を読み進めると、この蒸気機関車と後部の客車2輛は、展示施設になっているようだ。蒸気機関車部があって、次に先頭の客車が「護国館」、2輛目の客車が「歴史館」になっている。
先頭の機関車の脇から中に入れるようなのだが、なぜかその日は閉まっていて、入ることができなかった。「観覧時間 午前10:00~午後5:00 年中無休」と表示されているのだが、チェーンが張られていて入れない。また次の機会に訪れることにしよう。
1社1墓域お手入れ縁結び
歩いていると、こんな看板を見つけた。
「1사 1묘역 가꾸기 결연」、日本語にすると、「1社1墓域 お手入れ縁結び」というような意味になるだろうか。
この看板には、次のようなことが書かれている。
この「1社1墓域お手入れ縁結び」というのは、墓域での奉仕活動が可能な企業、団体、学校が顕忠院に申請し、太極旗の掲揚や回収、碑石拭き、墓域内の除草、枯れた花の片付けなどを継続しておこなうというものである。
看板の立っていた将兵墓域111~122は、大田忠南地方兵務庁・大田鶏山初等学校(小学校)・韓国自由総連盟儒城区支会の3団体が、墓域の手入れをしているということを示している。
報勲未来館
まだ訪ねていない建物が、「報勲未来館」(ポフンミレグァン 보훈미래관)だ。たどり着くと、そこが展示施設だった。
1階では、朝鮮戦争の経過、第2延坪海戦(2002.6.29)・天安艦被撃事件(2010.3.26)・延坪島砲撃戦(2010.11.23)の状況の説明の展示がある。また、軍人、消防士、南極観測隊、警察官などで殉職された方々の遺品と、殉職当時の状況についての説明が展示されていた。
2階には、主に子どもを対象にした展示がある。そのほか、「太極旗の歴史」という展示では、太極旗のデザインの変遷が説明されている。国立大田顕忠院の造成工事や建物の建築工事の写真も展示されていた。
第2延坪海戦(2002.6.29)(제2연평해전)・天安艦被撃事件(2010.3.26)(천안함피격사건)・延坪島砲撃戦(2010.11.23)(연평도포격전)の詳細については、インターネット上に日本語での情報が多数掲載されているので、読者の皆さんで調べてみてください。国立大田顕忠院の北側の方にある墓域に、これらの戦闘や事件により亡くなった方々の墓がある。
心に残ったのは、1階にある、殉職された軍人、消防士、南極観測隊、警察官などの方々の紹介のところである。
遺品として、傷だらけになった鉄帽も展示されていた。
タイトルの「1000のための1」というのは、1000人の村人を救うために1人犠牲になったという意味なのだろう。
なお、国立大田顕忠院のホームページには、「報勲未来館」は2023年から2024年にかけて改装工事を行っていて、2024年に再開館するというアナウンスが掲載されている。
報勲装備展示場
「報勲未来館」の外には、各種の兵器が展示されている。「報勲装備展示場」と名前がついている。
この方の墓もここに
国立大田顕忠院には、次の方々の墓もある。
「顕忠塔」の奥に位置する「国家元首墓域」には、崔圭夏(チェ・ギュハ 최규하)元大統領の墓がある。第10代大統領で、任期は1979年12月6日~1980年8月16日。
「日章旗抹消事件」で知られるマラソン選手、孫基禎(ソン・ギジョン 손기정)の墓。
独立運動家である金九の母:郭楽園(カク・ナグォン 곽낙원)と、長男:金仁(キム・イン 김인)、次男:金信(キム・シン 김신)の墓。
報勲ドゥルレキル
シャトルバスに乗って、国立大田顕忠院に着いたのが午前11:45。昼食をとることなく院内を歩き、午後2時過ぎに正門に向かった。
正門の近くには「보훈둘레길」(ポフンドゥルレキル 報勲ドゥルレキル)の案内板がある。ドゥルレキルとは、周囲をぐるりと散策する道のことだ。ここ大田顕忠院には周りをぐるりと囲むように散策路が設けられている。
道はエリアごとに色分けされている。場所によっては、エリア内で一周できるように設定されているところもある。すべての道を歩くと、約10kmの距離になるので、ハイキングのために訪れている人たちもいた。
墓地であるとともに、市民が親しむことができる場所にもなっているという印象を受けた。
シャトルバスの発着場所がすぐ近くにあり、乗車して地下鉄「顕忠院」駅に向かった。
「国立大田顕忠院」は、一般的な観光地ではなく、「墓地」である。
そのことを念頭に置いて、敬虔な気持ちで訪ねたい。
中級程度の韓国語の読解力があれば、各所の説明分の内容の理解はできると思われる。
関連記事(OhmyNewsへのリンク)
「大田顕忠院に埋もれた話」というシリーズの韓国語の記事がある。セウォル号沈没事故に関しては、No.11、13、16の記事が扱っている。「顕忠門」の扁額については、No.15の記事。(2024年6月時点)
地図(naver mapへのリンク)
・国立大田顕忠院