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【ガイドブックに載っていない韓国旅行案内】浦項九龍浦の落書き
初稿:2024.09.01
更新:2024.09.01
(この記事は 8,100文字です)
浦項市内の日本家屋
2008年3月12日のこと。
朝鮮日報インターネット版の日本語ページに、ある記事が載った。
一部を抜粋すると、次のような内容である。
浦項市内の日本家屋、日本人向け観光地に
日本による植民地時代に日本人が居住していた慶尚北道浦項市九龍浦邑九龍浦港一帯の敵産家屋(終戦後、日本人が引き上げる際に残していった家屋)が2010年までに大々的に整備される。
浦項市は2010年までに45億ウォン(約4億7000万円)を投入し、浦項市九龍浦町にある400メートルの通りに密集している日本風の家屋200件余りを対象に補修や復元作業を行うほか、漁村博物館を造成し、駐車場や案内板も設置するなど整備事業を行うことにしたと11日、明らかにした。これに向け、年内に調査を行い、来年から整備事業に入る計画だ。
日本植民地時代の歴史に関心があって、韓国をあちらこちら訪ねてきた。
日本家屋については、今までに、ソウルや釜山、群山、木浦などで見てきた。
そのほかの地方にも日本家屋が残っているという話は聞いてきたが、この記事を読んで、浦項市の九龍浦(구룡포 クリョンポ)にもまとまった規模で日本家屋が残っていることを知った。さらに、それらの建物を「敵産家屋」(적산가옥 チョクサンガオク)と呼ぶことも学んだ。
その夏の韓国旅行を計画するとき、日程の一日に九龍浦を組み込んだ。
観光案内所で聞く
2008年7月26日、浦項に着いた。
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バス‐ターミナルの近くに泊まるホテルを見つけ、荷物を置いた後、すぐにターミナルの前にある観光案内所に向かった。
「日帝時代に建てられた日本家屋が残っていると聞いたのですが……」
案内所の女性職員はすぐに、
「敵産家屋と言います。九龍浦です」
と言いながら、地図を取り出して開き、「ここですよ」と示してくれた。
そこまで行く方法をさらに尋ねた。
「×××番のバスに乗って、終点まで行ってください。バスを降りたら、テポの方に向かって行くとあります」
地図に대포면(テポミョン 大甫面)とかかれている場所は九龍浦の北にある地域で、つまり終点から北に向かって進めということだ。
女性職員は「私はまだ行ったことがないのですが、わからなければ、そこ(終点)で道を尋ねるといいでしょう」と付け加えた。
バスの料金が1500ウォンであることまで教わり、礼を言って、バス停からバスに乗った。
(대포면(テポミョン 大甫面)は、2010年からは、호미곶면(ホミゴンミョン 虎尾串面)に名称が変わった)
製鉄所の町
バスは浦項市内を走っていく。
建物が多いところもあれば、まばらなところもある。
強く記憶に残るのは、浦項総合製鉄の敷地の広さだ。九龍浦に行くときには左の車窓から製鉄所が見える。浦項総合製鉄を英語表記し、略称とした「POSCO」(ポスコ The Pohang Iron and Steel Companyの略)という名称が広く使われている。2002年に浦項総合製鉄から、POSCOに社名が変更された。関連会社も多く、車窓からはあちらこちらにPOSCOの文字が見える。
車窓から見える建物でもう一つ目立つのは浦項空港である。
POSCOと浦項空港を眺め終わると、バスは九龍浦のある半島、虎尾半島(호미반도 ホミバンド)に入って行く。
終点
バスは商店街の中で停まり、乗客が皆降りて行く。
「終点ですか?」
と運転手さんに聞くと、うなずいた。
バスを降りて、観光案内所で教えられたとおり北の方に向かって歩いて行く。左右に家が迫っている狭い通りに入って行った。
途中で、路上の端に床机台を出して、5~6人のおばちゃんたちが座り込み、どんぶりを手にラーメンを食べていた。ここに住んでいるおばちゃんたちが集まって、井戸端会議をしながら時々大声で笑い、ラーメンをすすっているようすだ。
私はその前に立ち、日本家屋がどこにあるかを尋ねた。
突然の私の登場に、おばちゃんたちは、「かまう」相手が現れたことに嬉しそうだった。一人のおばちゃんが、案内をするのは任せておきなさい、という感じに、腰を浮かしながら、
「この道を行きなさい。もうそこから日本の家があるから」
と教えてくれた。もう何回おなじ説明を繰り返してきたかわからない、また同じことを聞く日本人が来たじゃないの、説明はまかせておきなさい、という雰囲気が漂っていた。たまたまこのおばちゃんが、5~6人の中で勢いがあって代表して教えてくれたようなのだが、もし用事があってこのおばちゃんがラーメン会を欠席している日には、他のおばちゃんたちも同じような雰囲気で教えてくれそうだった。おばちゃんグループには元気がみなぎっていた。
私は礼を言って足を進めた。すぐに日本家屋が現れた。
日本家屋の通り
日本家屋は、その通りに集中して残っているようだ。
この通りの道には、「九龍浦길」(구룡포길 クリョンポキル 九龍浦道)と名前がつけられている。
夏の暑い日のことで、家々の玄関や窓は開け放たれていて、中から話し声が聞こえてきていた。
玄関や窓、軒先などに日本家屋の特徴をもつ建物がいくつも並んでいた。
1945年の光復から60年以上が経っている。建物は古く、建築された当時の姿をよく保っているものもあれば、部分的に改修されているものもあった。全体的には、建物の傷みが激しいように感じられた。
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開け放たれた窓や入り口から中の様子が見えて、今も生活が行われている建物もある。一方、割れた窓ガラスや破損した壁から空き家となっている建物もあるようだった。
九龍浦公園入口の石段
通りを歩いていると、途中に石の階段がある。階段の上り口に「九龍浦公園入口」と漢字で刻まれた標石が立っている。側面には「龍王堂入口」と刻まれている。
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階段を見上げるように写真を撮っていたら、10人ほどの日本人旅行者の団体が、韓国人ガイドに連れられてやって来た。ほとんどが60~70歳代くらいの年配の人たちで、さかんに石段や周辺の写真を撮っていた。
何泊の予定で韓国に来ているのであろうか。ここが主たる観光地とは思えないので、近いところにある慶州観光に加えて寄ったのだろうか。慶州からここまでなら、車で50~60kmの距離だ。浦項の日本家屋が旅行コースに入っていることが、面白い企画の旅行のように思えた。
団体に、韓国人ガイドが日本語で説明をする。大きな声で説明していることもあり、近くにいた私にも聞こえていた。私は、何となくそこに居合わせた個人旅行者という風情で、説明を盗み聞きした。
その説明によると、階段の両側に現在立っている石柱には、もともとは日本人の名前が彫られていたそうだ。それが解放後に削り取られ、韓国人の名前が刻みなおされた。さらに柱の裏側に年月日や功績について小さな文字で刻まれていたものも、すべてセメントで塗りつぶされているとのことだ。
石柱を覗いて見ると、確かにそうなっている。
ずっといっしょに歩くのもはばかられたので、団体と離れたが、石段を上ったところに何かがありそうである。私は石段を上がっていった。
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復元補修事業
冒頭に説明したように、計画では2009年から九龍浦の通りの日本家屋の復元補修事業が開始され、2010年に完成する。ここ一帯は、「구룡포 일본인 가옥거리」(クリョンポ・イルボニン・ガオッコリ 九龍浦日本人家屋通り)と名前がつけられ、観光地となった。
私が訪ねたのは事業開始前の2008年のことだ。そのため、通りは事業開始前のようすをとどめていた。現在は、要所要所に説明のためのパネルが設置されているようだが、2008年にはそれもなかった。言ってみれば、何なのかよくわからないけれども、自分の目で見て、かつて日本人がここに住んでいたのだな、と感じることができるくらいで、詳しいことはわからないところだったと言える。
今、インターネットで検索すると、九龍浦公園入口の石段の手前にも説明パネルが設置されていることがわかる。韓国語・英語・日本語・中国語の4か国語で説明が行われている。日本語では次のように書かれている。
九龍浦公園入口階段の石柱
公園入り口階段と石柱は1944年度、日本人たちにより造られたもので、石柱は左61本、右59本と計120本がある。石柱には九龍浦港造成に寄与した、九龍浦に定着した日本人名が刻まれている。
敗戦によって日本人がすべて引き揚げると、九龍浦住民はセメントで記録を塗りつぶし、石柱の上下を逆にして立てた。
その後、1960年、九龍浦の住民たちは、石柱を元に戻し、国に殉じた烈士たちの位牌を安置する忠魂閣の建設の後援者名を刻み、今日に至っている。
以下、現在設置されている説明パネルの説明も添えながら、紹介をしていくことにする。
九龍浦公園
階段を上りきると、そこには石碑、東屋、忠魂閣などがある。
東屋では地元の人たちが夕涼みをしている。
東屋の隣には、巨大な碑が立っている。頌徳碑(しょうとくひ 韓国語では「송덕비 ソンドクピ」)で、碑文はセメントで厚く塗りつぶされている。そこにはどんな文字があったのだろうか。
復元補修事業により、現在は次のような内容の説明パネルが設置されている。韓国語・英語・日本語で説明してあるが、日本語部分を引用する。
十河弥三郎頌徳碑
この碑は十河弥三郎を讃えて建てられた頌徳碑である。
十河弥三郎は日本の強占期、九龍浦の防波堤の築造や道路開設などに関わった人物である。日本人たちは彼の業績を讃えるために日本から珪化木を輸入し、強占期から解放される前の1944年に頌徳碑を建てたという。
敗戦により日本人たちが日本へ引き上げた後、九龍浦の住民がセメントで碑を塗りつぶしたので、現在碑文の内容は知られていない。
十河弥三郎を韓国語の説明では「도가와 야스브로 トガワヤスブロ」としているが、「とがわやさぶろう」が正しい読み方だろう。
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頌徳碑から少し離れたところには忠魂閣があり、その近くには塔の基壇だけがのこっている。
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この基壇には、現在、次のような説明パネルが設置されている。
旧忠魂塔基壇、神社跡の礎石及び手水舎
この構造物の裏には昭和という年号が、前の基壇部には「帝国在郷軍人会」という文字が記されていることから、日本の強占期に設置されたものと考えられる。
とくに、基壇部の前面は、1960年に旧忠魂塔を建てる際にセメントで塗りつぶし、「大韓軍人遺族会」と刻み、塔身の土台にしたという。
2008年現在、龍王堂を新築するために従来の建物を撤去する過程で大正2年(1913)と刻まれた礎石と、神社を参拝する前に手を洗う手水舎が発見された。また、砲弾の形をした石のかけらが発見されたが、日本人が出征の前に勝利を祈って祀ったものであるという。龍王堂の新築後、現在の場所に移転された。
この説明パネルにもあるように、基壇の前面と背面には、もとは日本人の名前や「昭和」の年号が刻まれていたものを塗りつぶし、韓国人の名前や「檀紀」による年号が刻まれているので、読みにくくなっている。
また、手水舎が発見された、と説明されているが、手水舎は建物のことであり、ここでは「手水鉢」が発見された、というのが正しいだろう。
新しい忠魂塔
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近くには新しい忠魂塔が立っていて、脇に説明パネルが設置されている。
一部を抜粋すると、次のような内容だ。
ここ忠魂塔は、6.25戦争など大韓民国を守護されていて壮烈に散華した浦項(当時、迎日)地域出身戦没軍警の魂を追慕するために1960年に建立したが、当時の劣悪な財政状況などで塔身の台が日帝時代に日本人たちが設置した構造物で、その上に忠魂塔が設置されてきて、2007年9月に国家報勲処の支援で再建立された顕忠施設物です。
奥には「忠魂閣」という建物がある。
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「忠魂閣」には、古い説明パネルに加え、現在は次のような内容の説明パネルが設置されている。
忠魂閣
この忠魂閣は韓国戦争に参戦した護国英霊の魂を賛えるために1960年に建立した。忠魂閣には朝鮮戦争に参戦して散華した浦項(当時 迎日)地域出身の戦没軍警をはじめ、235人の位牌が祀られている。毎年顕忠日にその志を賛えるための追慕行事を行っている。
「忠魂閣」の隣には、「龍王堂」という建物があるが、2008年の7月の時点では、まだ工事が完成していなかったようだ。
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「龍王堂」には、現在は、次のような説明パネルが設置されている。
龍王堂
この龍王堂は九龍浦漁民の豊漁と安全操業を祈願するための祭堂だ。一般的に龍堂には女神である「龍神おばあさん」、「龍王夫人」を祀るのが普通だが、九龍浦龍堂は男神である「四海龍王」を祀ったのが特徴だ。
龍王堂の建物は、日本人が九龍浦に定着して建設した神社を撤去し、1956年に建設したが、建物が古く老朽がひどく、2008年に撤去し、新たに韓屋の建物に新築した。
この説明を読むと、かつてはここに日本人が建てた神社が存在していたことがわかる。
九龍浦道をさらに歩く
九龍浦公園から石段を降り、日本家屋の並ぶ道「九龍浦道」(クリョンポキル)を歩いた。
行ったり戻ったりしながら歩く。奥まで歩いて行くと、港に出て行く。
現在、「구룡포근대역사관」(クリョンポグンデヨクサグァン 九龍浦近代歴史館)と名づけられて展示施設になっている家屋の前も歩いているはずなのだが、なぜか記憶がない。2008年の当時、そこがどんなようすだったのか、写真に撮ってもなかった。
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ある落書き
九龍浦公園への登り口の石段を正面にして立つと、ちょうど背中側には一軒の廃屋があった。
かなり傷んだ建物で壁がなくなっている箇所もある。
2階の窓ガラスは割れていて、人が住んでいる雰囲気はない。
1階出入口をふさいでいるトタンの板には、落書きだと思われる黒い文字が書かれている。薄い白色と濃い白色の文字も見えるが、こちらははっきりしない。
私には黒色の文字が、「친일」と見えた。「친」を共通にして、縦にも横にも「친일」(チニル)と読むことができる。
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「친일」(チニル)つまり「親日」のことだろうか。
「친일」(チニル 親日)には韓国では、2つの意味がある。
韓国の「国立国語院 標準国語大辞典」で「친일」を調べると、
「1」 일본과 친하게 지냄.
「2」 일제 강점기에, 일제와 야합하여 그들의 침략ㆍ약탈 정책을 지지ㆍ옹호하여 추종함.
と意味が解説されている。
日本語にすると
「1」日本と親しく過ごすこと。
「2」日帝強占期に、日帝と野合して彼らの侵略・略奪政策を支持・擁護して追従すること。
という意味になる。
ここでは、トタン板に落書きのように書かれている雰囲気からして、「2」の意味であろう。国語辞典の説明だと表現が抑制されているが、「国賊」、「売国奴」のような意味合いが含まれるのが、この場合の「친일」(チニル 親日)という言葉だ。
いったいこの家にはどういう人が住んでいたのだろうか。何が理由となって「친일」(チニル 親日)と書かれることになったのだろうか。
住んでいた人とは無関係に、空き家になって単に落書きとして書かれただけのものなのだろうか。そうだとして、書いた者は、なぜ「친일」(チニル 親日)と書いたのだろうか。
消えた建物
日本家屋の復元補修事業が完了したあとのようすをインターネットで調べてみる。
海岸線に平行に「호미로」(ホミロ 虎尾路)という幹線道路が走っている。この道路よりも陸側にある狭い道「구룡포길」(クリョンポキル)が、日本家屋が並んでいる道だ。(下の地図では、「구룡포길(クリョンポキル 九龍浦道」という文字のすぐ上=北に、左右にのびている道である)
2008年当時は、「호미로」(ホミロ 虎尾路)からは、九龍浦公園入口の階段は見ることができなかった。間に建物やタンクがあったからだ。その建物のひとつ、下の地図で赤い四角で囲んだ建物が「친일」(チニル 親日)と書かれていた建物だ。
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現在は、「호미로」(ホミロ 虎尾路)から見ると、九龍浦公園入口の階段までの間の建物やタンクはなくなり、「구룡포 일본인 가옥거리」(クリョンポ・イルボニン・ガオッコリ 九龍浦日本人家屋通り)という扁額がつけられた門が立っている。また、その先には「구룡포 일본인 가옥거리」と書かれた柱も建てられている。奥には九龍浦公園入口の石段が見える。ここが、「구룡포 일본인 가옥거리」の正規の入り口のようになっていることがわかる。
「친일」(チニル 親日)と書かれた建物は完全になくなり、その場所は、「구룡포 일본인 가옥거리」へのアプローチ(導入路)として、整えられていた。
この入り口には、ここ全体を説明するパネルが設置されている。
九龍浦日本人家屋通り
東海最大の漁業前進基地だった九龍浦は、日帝強占期の1923年、日帝が九龍浦港を築港し、東海圏域の漁業を管轄し、日本人の流入が増えた。 それと共に、現在九龍浦の日本人家屋通りが位置している通りには、病院やデパート、料理店、旅館などが並び、多くの人が集まり、地域商圏の中心的な役割を果たした。
しかし、残っていた日本の家屋は、各種の開発過程で撤去され、長年にわたって毀損され、過去の我が民族に痛んだ歴史の生きた証拠物が消えていく実情を迎えた。 浦項市は地域内の家屋を補修・整備し、日本植民地時代に日本人の豊かな暮らしぶりを見せることで、相対的に日本によって搾取された韓国経済と生活文化を記憶する生きた教育場として「九龍浦日本人家屋通り」を造成した。
2011年3月から始まった整備事業を通じて457mの距離にある28棟の建物を補修した「九龍浦日本人家屋通り」は2012年12月国土海洋部が主管する「第2回大韓民国景観大賞」で最優秀賞を受賞し、都心活性化事業の優秀事例に選ばれた。
「現在九龍浦の日本人家屋通りが位置している通りには、病院やデパート、料理店、旅館などが並び、多くの人が集まり、地域商圏の中心的な役割を果たした。」と説明にある。
「친일」と書かれた建物のあった辺りも、にぎやかなところだったのだろう。
この土地に日本人が来て住み始めたことで、いったいあの家にはどのような歴史が始まったのだろうか。
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私が九龍浦の日本家屋を訪ねたのは、2008年のことで、もう16年も前のことになる。
その間には、浦項市による整備事業が行われ、きれいに通りや建物は整えられ、説明パネルも設置された。
もう一度、九龍浦を訪ね、丁寧に歩いてみたいと思う。
地図(naver mapへのリンク)
・九龍浦日本人家屋通り
・九龍浦近代歴史館
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