第一回 みんな食堂かけわたしを終えて
「『みんな食堂かけわたし』という場所で、参加してくれるみんなが食を共にし、人との関わりを通して、一人ひとりが笑顔になれるような場を創りたい。」
そんな想いで開催した『第一回 みんな食堂かけわたし』。
ボランティアの方や参加者にとっての場を創る僕たちにとって、僕たちが誰よりも前線でボランティアの方々を引っ張り、誰よりも頑張っているんだろうとそんなことを感じていた。
けれど、当日僕たちは特に何もしていなかった。
拍子抜けしてしまうぐらいに、自分たちが何かを成し遂げたという実感もわかなかった。
ただみんな食堂の開催が終わった時には、みんなの楽しそうな様子が見られ、また無事に開催が終わったという安堵、そして参加してくれたみんなに対しての感謝の気持ちが自分の中にこみあげてきた。
また、振り返りの時には、それはみんな食堂の開催中からもうすでに同じだったのかもしれないけれど、それぞれがお菓子を食べたり、休憩をしたりと動きたいように、また自分の感じたこと、思ったことを言いたいように、自由にその場で過ごしていた。
改めて、「ボランティア」ってなんだろう?
誰かの役に立ち、誰かから感謝される行い?、無償で誰かに貢献するという奉仕?
今回の『みんな食堂かけわたし』でのボランティアの方がそうであったように、「ボランティア」っていう言葉自体に、いろいろな考えや意味があっていいと思うし、参加する人それぞれが、それぞれの意義のため、目的のためのボランティア活動でいいのだろうと僕は思った。
もしかしたら、「意義」とか「目的」とかそんな難しいものすらもいらないのかもしれない。
それでも、今回の『みんな食堂かけわたし』を終えて、僕が感じる「ボランティア」とは、
『ただ、「あなた」という人がそこにいて、そこに別の「あなた」という人がいる。また、そこに別の誰かが来て、特に気にも留めていなかったけれど、気づけば「あなた」という人になっている。たくさんの「あなた」という一人の人がいて、そこに紛れもなく「わたし」という人がいる。
もしかしたら、「あなた」はその後、私が知っている「あなた」ではなくなるかもしれないけれど、今そこにいる「あなた」から「わたし」は、とても大切なものをもらっている。
「わたし」ももしかしたら、その後「あなた」の前にはいないかもしれないけれど、「あなた」というものをきっかけに、「わたし」というものはどこまでも続いていく』
分かりにくいかもしれないけれど、「わたし」という存在と、「あなた」という存在の両方が、ただそこに存在していることの価値や意味の大きさに気づくことなのではないかと思う。
人との関わりが希薄になっている今の社会、自分らしく生きてみることすらもままならない今の社会において、
自分よりも明るいだとか暗いだとか、優れているとか劣っているとか、優しいとか厳しいとか、そんな相手との比較に自己嫌悪に陥ってしまうこともあるかもしれないし、自分と相手との価値観や意見の食い違いにモヤモヤすることもあるかもしれないけれど、
それでも、誰もが「あなたという存在に出逢えてよかった。」と思えるような、人との出逢いやきっかけをかけわたしていきたい、そんな想いでこれからも『みんな食堂かけわたし』を開催できたらと思います。
今回参加してくださったたくさんのボランティアスタッフの方、また参加は難しくとも、僕たちの興味を持ってくれたり、開催までの応援してくださったたくさんの方々、ありがとうございました。
(中居聖矢)