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ナクバとは~新説1948年 :イスラエルのアーカイブに何が起きているのか

1948年5月14日、中東のパレスチナ地域でイスラエルの建国が宣言されました。パレスチナの人が「ナクバ」と呼ぶこの歴史的な転換点について、今日は筆を取りたいと思います。

当時パレスチナにはイスラム教徒やキリスト教徒、ユダヤ教徒らが混住していました。古代以降そこに国は無く、歴史を通して数々の帝国に支配され、人々は他宗教ながらもアラビア語でコミュニケーションをし、アラブ人としての文化を共有していました。パレスチナというのもこの地域の呼び名で、広くは大シリア地方に属していました。

19世紀末から、そのパレスチナへユダヤ人の移民がやってくるようになり、ユダヤ人だけの国を作ろうとします。対してアラブ人(住民)もアラブ人の国を作りたいと思っていた。ちょうど世界中でナショナリズムが高まり、昔から続く帝国からの独立運動が激しかったころです。パレスチナを支配していたオスマン帝国も第一次世界大戦で負けて、代わりにイギリスがその支配権を手にしてから、ユダヤ人の移住はますます増加し地元住民との衝突が増えていきました。イギリスの外交政策に問題があったのですがここでは置いておいて、ともあれパレスチナは段々きな臭くなってしまいます。1947年、イギリスはその統治を放棄して国連にパレスチナの分割案を考えてもらうことにしますが、ここで示された案がユダヤ人寄りで、その時点でのアラブ:ユダヤの土地所有の割合を無視したものだったため、アラブ側が交渉のテーブルを離れてしまいます。ユダヤ側は主張が通った形なので建国の準備を進めていき、そのなかで「現地アラブ住民の強制追放」も計画に盛り込みました(参照:イラン・パぺ「The Biggest Prison on Earth」2017)。実際の強制追放や村の焼き討ちは建国以前の同年2月から始まり、既に20万人ほどの難民を出していたといいます。そして、パレスチナは1948年の5月14日を迎え、イスラエルの建国が公式に宣言されるとともにアラブ諸国軍とイスラエルの戦争が始まり、70万人以上の難民が発生。元々あった517の村が「消された」のです。こうした一連の出来事をパレスチナの人達は「ナクバ=大災厄」と呼んでいます。今週はこのナクバをめぐって対談があったり、映画の無料公開やハッシュタグキャンペーンが行われます(架け箸のナクバに関するアクションはこちらhttps://www.facebook.com/events/701920063943922/)。

さて、このナクバの記憶はパレスチナの人の間でも長く語られてきませんでした。PTSDのようになってとても話せなかった人や、立て続く戦争で難民経験が一度では済まなかった人もたくさんいて、語ることが困難だったからです。消された村の名前を集めて回り、研究者がリスト化したのもだいぶ後になってからのことでした。語られ始め、記録されているこの出来事はしかし、イスラエルの政府によって消されようとしています。イスラエルの新聞社ハアレツの長文記事を以下に翻訳&要約して、ナクバの歴史をめぐる現代の動きを追いたいと思います。

Burying the Nakba: How Israel Systematically Hides Evidence of 1948 Expulsion of Arabs/ナクバを葬り去る:イスラエルはどのように計画的に1948年のアラブ人追放の証拠を隠滅しているのか

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