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【職員コラム】掛川城を指定文化財にするための「あるべき姿」


※このコラムは掛川市発行の冊子「文芸かけがわ 第十八号」(令和六年三月 発行) に掲載されたものを、一部note掲載に合わせ編集したものです。


私は掛川城公園管理事務所に勤務している武藤と申します。

掛川城は令和5年3月末に外装漆喰の修復工事が終了し、趣も新にお客様のご来場をお待ちしているところであります。


さて令和6年には掛川城天守閣の再建30周年を迎えることになります。そこで今後掛川城を指定文化財にするための「あるべき姿」を考えてみました。

平成29年(2017)当時の掛川市・松井三郎市長は、

「現在の掛川市をつくり上げた固有の歴史的資産は、地域の誇りであり、次代に残すべき財産です。歴史まちづくりを進めることは・・・・・(中略)・・・・行政だけでなく、市民の皆様と一緒に進めてまいりたいと考えます」

とされ、『掛川市歴史的風致維持向上計画』を立ち上げました。

計画の期間は、平成29年度から平成38年度(令和8年:2026年)までの10年間としています。

今計画の実施体制は、事務局を都市政策課及び社会教育課とし、庁内関係課(企画政策課・文化振興課・観光交流課・都市政策課・土木課・社会教育課・図書館等)が中心となり、国(文部科学省等)及び、県(教育委員会等)と協議を行い、助言・支援を受け歴史的風致維持向上協議会・文化財保護審議会・景観審議会等と協議・調整を行うとされており、計画の円滑な実施を推進していくことになっております。


『掛川市歴史的風致維持向上計画』には、「未指定文化財については、市内全域において悉皆調査を実施し、その価値を適切に判断し、必要に応じて文化財指定の可能性について検討していく」となっております。

掛川城は現在指定文化財になっておりませんが、歴史的風致維持向上を計り、いずれは、文化財の指定を受けたいと思っております。

そこで掛川城を文化財に指定するには、何が必要か考察してみました。


文化財指定対象の要件


(文化財)指定対象の要件としましては、掛川城は「有形文化財(建造物)」になりますので、まずは文化財を今後どうしていくべきかについて、所有者や管理者等と協議し、保存、活用に向けた修理・整備、防災対策などを計画的に実施していくことが必要です。掛川城周辺における歴史的風致維持向上の実施事項を列記します。


歴史的風致維持向上の実施事項


  1. 建築物・工作物の高さは各部標高七十二メートルを越えない制限

  2. 掛川城、城下町風まちづくり地区との調和

  3. 商店街で統一した修景等を行なう


掛川城四足門下から市街地を眺める



次に、掛川城を具体的に文化財に指定する条件について記述します。
文部省における、国宝及び重要文化財(建造物)指定基準(平成八年二月九日文部省告示第六号)を準用して考えてみました。

「重要文化財建築物、土木構造物及び工作物のうち次の各号の一つに該当し、かつ、各時代又類型の典型となるもの」と明記されております。


指定の基準


○ 建造物の形態意匠的又は技術的に優秀なもの
○ 歴史的価値の高いもの
○ 歴史的な街並みの構成要素として重要なもの(学術的価値)
○ 建造物の外観が景観上の特徴を有しているもの
  (流派的又は地方的特色が顕著なもの)


では現在の掛川城が指定基準に該当しているか、項目ごとの説明をいたします。



○ 建造物の形態が意匠的又は技術的に優秀なものであるか


書籍「掛川城天守閣復元事業資料・掛川城天守を本格木造で復元する価値・宮上茂隆」を参照したところ、(※宮上茂隆氏は工学博士で掛川城天守閣設計者であります。)

「御天守台石垣芝土手崩所図」嘉永4年(1851)が存在している。
「遠江国掛川城地震之節損所覚図」嘉永7年(安政元年・1854)が存在している。
「正保城絵図」正保元年(1944)が存在している。
「高知城の築城に関する記録・御城築記」が存在している。高知城を築城した山内一豊の「天守は掛川の通り」との指示記録がある。
⑤創建した高知城は享保12年(1727)に焼失したが、再建され残っている。 

以上五項目により、宮上氏は「復元的研究を行い掛川城天守の復元について、正確な判断を下せるのである」としています。



○歴史的価値の高いものであるか


掛川城の成り立ちについて説明いたします。

平安・鎌倉・室町時代の武家社会におきましては、お堀や塀に囲まれた(環濠集落)がお城でありました。
例えば武田館(躑躅ヶ﨑)・駿府今川館が有名です。

当時のお城は攻防戦で籠城するには適さないため、館の近くに「詰の城」と言われる別のお城を備えていました。武田館には要害山城、駿府今川館には賎機山城がありました。平時は館で生活・政務を行なって居りますが、いざ戦となると「詰め城」に籠り領地を護ったのです。

織豊時代になり、織田信長が岐阜城の様な「御殿(館)」と、「天守(詰の城)」と呼ぶ一体型のお城を造ったのです。学者先生によりますと、御殿と天守の揃ったお城は、日本に三百位はあったと言われています。

それが、落雷・地震・一国一城令・廃城令、そして第二次世界大戦により焼失してしまいました。現在では犬山城や高知城の様な現存天守は十二城残っています。しかし現存の御殿は四つしか残っていません。埼玉県の川越城、高知城、掛川城そして国宝の京都二条城であります。

京都二条城は1700年代に、落雷により天守が消滅して、その後再建はされませんでした。よって、天守と御殿が現存しているのは、天守に本丸御殿を接続した高知城だけです。

掛川城は平成5年(1993)から本格的木造復元した天守がありますので、現存の二の丸御殿から地上50メートルの天守を仰ぎ見ることができる、日本では貴重なお城なのです。


掛川城の"本格的木造復元"天守



○歴史的な街並みの構成要素として重要なものであるか
 (学術的価値)


掛川城の歴史を説明いたします。

掛川古城が築城されたと想定される、1500年頃の掛川は斯波氏と今川氏の勢力争いの境界区域であり、斯波氏の勢力内でありました。

北条早雲(伊勢宗瑞)が今川氏親(義元の父)を擁護して、斯波氏の配下である、原氏(殿谷城)を攻める時に、現在の天守から東に約400メートルの位置にある、天王山に兵站基地(陣城)として築城したのが始まりであると考えます。

その後今川家の勢力拡大に伴い、永正9年(1512)龍頭山に朝比奈泰能(やすよし)が新たな城を築きました。当時天守は無く館でありました。

永禄3年(1560)に桶狭間で今川義元が織田信長に討たれると、永禄12年(1569)、徳川家康が掛川城に籠城した今川氏真を攻めた掛川城攻防戦の末、徳川領となりました。

そして天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐の後、家康が関東に移付されます。駿府城に中村一氏、掛川城山内一豊(やまうち・かつとよ)、浜松城に堀尾吉晴(よしはる)と順次秀吉の家臣が移封されました。

江戸の家康が大阪に居る秀吉に攻めてこない様に、大坂城を防護するために築城されたのです。この時掛川城に初めて天守が築かれました

縄張りは「惣構」で、町屋・武家屋敷を堀の中に囲い、農地と区別した構えです。周囲は4500メートルありました。一番外側の堀は農地と城郭を区分けした境堀とも言われる惣(総)堀、そして外堀・中の堀(蓮池等)・内堀(三日月堀・十露盤堀・松尾堀等)を施して天守を護っていました。

現在も残る三日月堀


城郭は「渦郭梯郭式」で、天守丸・腰曲輪・本丸・中の丸・松尾曲輪・二の丸・三の丸・竹の丸、そして下台所曲輪(大日本報徳社付近)・山下曲輪(掛川第一小学校付近)・大手曲輪と徳川時代まで整備拡張されていきました。

遺構としては太鼓櫓・蕗の門が現存しており、復元建造物としては、大手門・四足門を観ることができます。

現存する太鼓櫓と、復元された四足門


一豊は掛川に10年政務した後に、土佐高知に移封されていきました。天守は度々地震により崩壊します。宝永4年(1707)の宝永地震でも崩壊するのですが、その都度修築されました。

しかし、嘉永七年(1854)の安政地震では崩壊したまま放置され、明治維新には廃城となりました。



○建造物の外観が景観上の特徴を有しているものであるか
 (流派的又は地方的特色が顕著なもの)


平成5年(1993)、140年ぶり日本で最初の本格的木造復元城として、再建された天守の構造を説明します。

付け櫓の有る複合式天守です。
② 一階の東南と西南に張出低屋を施しています。
③ 二階に唐破風華灯窓を付けております。
④ 物見の塔を載せた初期望楼型天守です。

手前の張り出し部分が「付け櫓」


⑤途中階に武者隠しを施した三層(重)四階となっています。
⑥天守最上階には織豊時代の廻縁・勾欄を施しています。
⑦城壁は「白漆喰惣塗り籠め」の全体が白いお城です。
⑧防備としては、石落とし・忍び返し・狭間を施しています。
⑨天守南側・西側の石垣は、一豊時代に積んだ石を再度積み直した「打込接」です。

2階と最上階の間にある「武者隠し」。
この階は外観に顕れないことから、三層の四階建てとなっています。



以上、文化財の指定条件は大筋整っていると思われます。



指定文化財としていく今後の問題点


指定文化財に成るために、気になることが近年発生しております。

掛川城は建設当時から「日本で最初の本格的木造復元天守」であると、掛川市民は聞いておりました。

ところが、文化庁の区分け指定基準が改正されまして、掛川城は「復興天守」に該当することになりました。

掛川城を愛する一市民としては、寝耳に水で納得がいかないことであります。従いまして、掛川城は「復元天守」であるか「復興天守」であるかの、調査をいたしましたので記述いたします。

令和3年(2021)に文化庁が区分けした、指定基準を説明します。

「復元天守」とは、かつて天守があった場所に古写真や、図面をもとに伝統工法で原形に復する、元に復した建造物であること。

「復興天守」とは、かつて天守が存在していたが、写真や図面がなく、こうであろうと想定して再築した建造物であること。

このように区分けられたことから、現在の掛川城は「復興天守」であるとのことです。

私としては、29年前の建設当時「日本で最初の本格的木造復元天守」を建設しようとした、市長(榛村氏)と学者先生、高額献金をして頂いた白木女史、そして瓦一枚・柱一本を寄付した多くの市民は、今更歴史的根拠が無い、想像建造物と同じ「復興天守」では納得いかないと思います。


この判断基準においては、年代により相違があります。


①「復元天守」の定義の変遷


1997年

図面や古写真から元通りに建てた直された天守を呼び、外観のみでも旧天守に近ければ、外観復元と総称されている。

2018年

天守が現存した当時の図面や文書記録、遺構などに基づき、当時使われていた建材、構法、工法によって忠実に復元したもの、再建に当たっては様々な法律の規制がある。(木造復元天守)

2021年

かつて天守があった場所に古写真や図面をもとに伝統工法で原形に復する、元に復した建造物


②「外観復元天守」の定義の変遷


1997年

復元天守に含まれていた。

2018年

鉄筋コンクリートなどで構造を造り、外観だけを往時のように再現したもので、戦後から平成初期にかけて復元された天守が多い。展示室を設けて博物館として利用されていることが多い。

2020年

文化庁が令和2年(2020)に新基準「復元的」を新設しました。城郭協会によると、掛川城はこれにあてはまるかもしれないが、申請と承認が必要としている。

③「復興天守」とは 


1997年

外観や規模が不明でも、実在した場所に建てられたり、外観を変造して建てられた天守を呼ぶ。

2018年

かつて天守が建てられていたが、史料不足によりその規模や意匠に推定部分があり、外観を正確に復元していないもの、また規模、意匠を再建時に改変してしまった天守である。

2021年

かつて天守が存在していたが、写真や図面がなく、こうであろうと想定して再築した建造物。


④「復古式天守」とは


1997年

再建された天守が、創築当初の様式で築かれたものを呼ぶ、層塔型天守最盛期にあえて望楼型天守にする場合も同様である。部分的に下見板張りや廻縁・勾欄を採用するケースも復古の一例である。



掛川市中央図書館が所蔵している「掛川城に関わる図書」は十数冊ありました。調査した結果、掛川城を紹介している図書・資料には全て「復元天守」又は「復元城」としており、「復興天守」「外観復元天守」「復古式天守」の考えは全くありませんでした。

しかし掛川城は「復元天守」では無いと記述されている、歴史学者の著書がありました。


①「執筆者 K氏 織豊期城郭研究会 」


山内時代の掛川城は他の豊臣系大名の天守と同様に、下見板張りの黒い天守であった可能性が非常に高い。幕末時代になると勾欄と廻縁は外壁で取り囲まれて、二層目・最上階が下見板張りに戻されている。(一豊は1590年代で白漆喰の天守は1600年以降)

平成6年(1994)、木造で復興された天守である・・(中略)・・現存する
高知城天守の意匠を数多く取り入れた姿で、山内時代と言うより江戸時代後期の復古式天守の体裁である。初層入母屋屋根が小さく、外観の均衡を保つ姿の望楼型天守としたため、内部に矛盾が大きい。一階の建ちが極端に高く、そのしわ寄せが屋根裏階という、中途半端な階に現れている。

②「執筆者 T氏 織豊期城郭研究会 」


天守復元に先立ち、天守台が平成五年に発掘調査がされた。その結果、一豊時代の石垣が発見されたが復元天守建設に伴って埋められてしまった。また、発掘調査の成果は一豊段階の天守復元をうたっているにもかかわらず、その成果は活用されていない。

③「日本の城・天守閣 廣済堂出版」


「掛川城は平成六年に掛川市民や地元企業の協力により、戦後初となる木造で天守復元が行われた」とあるが「一豊が築城した高知城天守を参考に、資料が残されていない初代天守を再建したため「復興天守」とされることもある」としています。

④ 城郭研究家のS氏(城郭考古学者・大学教授)


最近の著書において、「掛川城は復元天守としては問題が有る」と執筆しています。


参考ではありますが、掛川城再建に関する、当時の市長(榛村純一氏)の思いを記述いたします。


掛川市・榛村純一市長解説談


宮上教授と研究調査委員会は、「掛川城天守閣の木造本格復元する史料が多く、価値は高い」としています。

まず、学術的・歴史文化的価値は三点に要約される。

第一点は学問的に一等史料に基づく復元ができる天守閣は少ないが、掛川城天守閣はできるということである。一等史料とは、江戸時代の「山内一豊公築城記」と二枚の江戸差出しの「掛川城絵図面」そして一豊が掛川城を模した現高知城があること。一豊時代の「野面積石垣」を残す天守台が現存することである。

第二は掛川城天守が慶長元年(1596)建立で現在最古の松本城古天守の次に古いこと、聚楽第の白漆喰総塗り籠め天守の最古の実例となること。

第三は木造天守建築の工法・技術・職人芸の伝承普及とその映像化の価値が大きいことである。

元掛川市長・榛村純一氏
1977年(昭和52年)から2005年(平成17年)まで7期28年にわたって掛川市長を務めた。

(写真:ブログ「富士市議会議員 小池としあき」より引用 https://koike473.exblog.jp/7357176/  )



結論


現在の掛川城について一般的な著書は「復元天守」又は「復元城」とされていますが、一部の城郭専門家は「復興天守または復古式天守ではないか」と主張しております。

掛川市としては、昭和63年(1988)の掛川城復元工事立ち上げ当時から、「日本で最初に認められた木造復元天守」としていますので、復元天守と言い切ることが重要であると思います。 


掛川城天守閣内部・2階の写真


掛川城は天守内部が「想定復元」でありますので、完全な「復元天守」では無いと思います。しかし昭和63年(1988)当時、外観復元は復元天守に含まれていましたので「復元天守」で良いと思います。

もし「復興天守」の語句が明記されている配付物(パンフレット等)が広まると、何れ掛川城は歴史的根拠の無かった「復興天守」であるとされ、「日本で唯一価値のある本格的木造復元天守」と一般的に認知されなくなってしまいます。

掛川市の関係各所におかれましては「掛川城は建設当時から「復元天守」であった」との証明ができる資料(建設届出資料等)を、確認して頂く事をお願いしたいと思います。

今後、掛川城を文化財登録していく判断といたしまして、天守復元調査委員会の発足当時に

「十四人の委員で具体的な復元作業を行った。建築史の立場から宮上茂隆氏。文献史学の立場から『掛川城の挑戦』の著者で、静岡学園短期大学学長である若林淳之氏、静岡大学名誉教授であられる小和田哲男氏らが調査・研究。そして市長・市議会議長ら市役所関係者は国や県の関係部局との協議を行ったことにより、調査・研究の結果「天守復元」の資料が明らかになった」

としており、「文化財的な価値を認めた」としております。

掛川城を愛する一市民として、近い将来には市の指定文化財となり、さらには、そして国の文化財となっていくことを望んでいます。その為には市の観光振興として「日本で初めての本格的木造復元天守」であると主張して、観光宣伝を行い保存して行くことが、肝要であると思います。

掛川城を指定文化財にしていくための「あるべき姿」を懇願いたしまして文末といたします。

掛川城公園管理事務所 武藤 著


調査に使用した文献

・「掛川市歴史的風致維持向上計画」代表 松井三郎(元掛川市長)
・「図録 掛川城概説」著者 関七郎
・「掛川城復元調査報告書」著者 宮上茂隆ほか
・「掛川城の挑戦」編・著 若林淳之、榛村純一
・「掛川城のすべて」著者 小和田哲男、宮上茂隆ほか
・「掛川市の歴史と文化財」作成 掛川教育委員会 社会教育課
・「掛川城ガイドの参考資料」作者 帯金徹雄
・掛川城復元に関わる資料
・掛川市立中央図書館所蔵の各種文献


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