【職員コラム】掛川城を指定文化財にするための「あるべき姿」
私は掛川城公園管理事務所に勤務している武藤と申します。
掛川城は令和5年3月末に外装漆喰の修復工事が終了し、趣も新にお客様のご来場をお待ちしているところであります。
さて令和6年には掛川城天守閣の再建30周年を迎えることになります。そこで今後掛川城を指定文化財にするための「あるべき姿」を考えてみました。
平成29年(2017)当時の掛川市・松井三郎市長は、
とされ、『掛川市歴史的風致維持向上計画』を立ち上げました。
計画の期間は、平成29年度から平成38年度(令和8年:2026年)までの10年間としています。
今計画の実施体制は、事務局を都市政策課及び社会教育課とし、庁内関係課(企画政策課・文化振興課・観光交流課・都市政策課・土木課・社会教育課・図書館等)が中心となり、国(文部科学省等)及び、県(教育委員会等)と協議を行い、助言・支援を受け歴史的風致維持向上協議会・文化財保護審議会・景観審議会等と協議・調整を行うとされており、計画の円滑な実施を推進していくことになっております。
『掛川市歴史的風致維持向上計画』には、「未指定文化財については、市内全域において悉皆調査を実施し、その価値を適切に判断し、必要に応じて文化財指定の可能性について検討していく」となっております。
掛川城は現在指定文化財になっておりませんが、歴史的風致維持向上を計り、いずれは、文化財の指定を受けたいと思っております。
そこで掛川城を文化財に指定するには、何が必要か考察してみました。
文化財指定対象の要件
(文化財)指定対象の要件としましては、掛川城は「有形文化財(建造物)」になりますので、まずは文化財を今後どうしていくべきかについて、所有者や管理者等と協議し、保存、活用に向けた修理・整備、防災対策などを計画的に実施していくことが必要です。掛川城周辺における歴史的風致維持向上の実施事項を列記します。
歴史的風致維持向上の実施事項
建築物・工作物の高さは各部標高七十二メートルを越えない制限
掛川城、城下町風まちづくり地区との調和
商店街で統一した修景等を行なう
次に、掛川城を具体的に文化財に指定する条件について記述します。
文部省における、国宝及び重要文化財(建造物)指定基準(平成八年二月九日文部省告示第六号)を準用して考えてみました。
「重要文化財建築物、土木構造物及び工作物のうち次の各号の一つに該当し、かつ、各時代又類型の典型となるもの」と明記されております。
指定の基準
○ 建造物の形態意匠的又は技術的に優秀なもの
○ 歴史的価値の高いもの
○ 歴史的な街並みの構成要素として重要なもの(学術的価値)
○ 建造物の外観が景観上の特徴を有しているもの
(流派的又は地方的特色が顕著なもの)
では現在の掛川城が指定基準に該当しているか、項目ごとの説明をいたします。
○ 建造物の形態が意匠的又は技術的に優秀なものであるか
書籍「掛川城天守閣復元事業資料・掛川城天守を本格木造で復元する価値・宮上茂隆」を参照したところ、(※宮上茂隆氏は工学博士で掛川城天守閣設計者であります。)
①「御天守台石垣芝土手崩所図」嘉永4年(1851)が存在している。
②「遠江国掛川城地震之節損所覚図」嘉永7年(安政元年・1854)が存在している。
③「正保城絵図」正保元年(1944)が存在している。
④「高知城の築城に関する記録・御城築記」が存在している。高知城を築城した山内一豊の「天守は掛川の通り」との指示記録がある。
⑤創建した高知城は享保12年(1727)に焼失したが、再建され残っている。
以上五項目により、宮上氏は「復元的研究を行い掛川城天守の復元について、正確な判断を下せるのである」としています。
○歴史的価値の高いものであるか
掛川城の成り立ちについて説明いたします。
平安・鎌倉・室町時代の武家社会におきましては、お堀や塀に囲まれた館(環濠集落)がお城でありました。
例えば武田館(躑躅ヶ﨑)・駿府今川館が有名です。
当時のお城は攻防戦で籠城するには適さないため、館の近くに「詰の城」と言われる別のお城を備えていました。武田館には要害山城、駿府今川館には賎機山城がありました。平時は館で生活・政務を行なって居りますが、いざ戦となると「詰め城」に籠り領地を護ったのです。
織豊時代になり、織田信長が岐阜城の様な「御殿(館)」と、「天守(詰の城)」と呼ぶ一体型のお城を造ったのです。学者先生によりますと、御殿と天守の揃ったお城は、日本に三百位はあったと言われています。
それが、落雷・地震・一国一城令・廃城令、そして第二次世界大戦により焼失してしまいました。現在では犬山城や高知城の様な現存天守は十二城残っています。しかし現存の御殿は四つしか残っていません。埼玉県の川越城、高知城、掛川城そして国宝の京都二条城であります。
京都二条城は1700年代に、落雷により天守が消滅して、その後再建はされませんでした。よって、天守と御殿が現存しているのは、天守に本丸御殿を接続した高知城だけです。
掛川城は平成5年(1993)から本格的木造復元した天守がありますので、現存の二の丸御殿から地上50メートルの天守を仰ぎ見ることができる、日本では貴重なお城なのです。
○歴史的な街並みの構成要素として重要なものであるか
(学術的価値)
掛川城の歴史を説明いたします。
掛川古城が築城されたと想定される、1500年頃の掛川は斯波氏と今川氏の勢力争いの境界区域であり、斯波氏の勢力内でありました。
北条早雲(伊勢宗瑞)が今川氏親(義元の父)を擁護して、斯波氏の配下である、原氏(殿谷城)を攻める時に、現在の天守から東に約400メートルの位置にある、天王山に兵站基地(陣城)として築城したのが始まりであると考えます。
その後今川家の勢力拡大に伴い、永正9年(1512)龍頭山に朝比奈泰能(やすよし)が新たな城を築きました。当時天守は無く館でありました。
永禄3年(1560)に桶狭間で今川義元が織田信長に討たれると、永禄12年(1569)、徳川家康が掛川城に籠城した今川氏真を攻めた掛川城攻防戦の末、徳川領となりました。
そして天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐の後、家康が関東に移付されます。駿府城に中村一氏、掛川城に山内一豊(やまうち・かつとよ)、浜松城に堀尾吉晴(よしはる)と順次秀吉の家臣が移封されました。
江戸の家康が大阪に居る秀吉に攻めてこない様に、大坂城を防護するために築城されたのです。この時掛川城に初めて天守が築かれました。
縄張りは「惣構」で、町屋・武家屋敷を堀の中に囲い、農地と区別した構えです。周囲は4500メートルありました。一番外側の堀は農地と城郭を区分けした境堀とも言われる惣(総)堀、そして外堀・中の堀(蓮池等)・内堀(三日月堀・十露盤堀・松尾堀等)を施して天守を護っていました。
城郭は「渦郭梯郭式」で、天守丸・腰曲輪・本丸・中の丸・松尾曲輪・二の丸・三の丸・竹の丸、そして下台所曲輪(大日本報徳社付近)・山下曲輪(掛川第一小学校付近)・大手曲輪と徳川時代まで整備拡張されていきました。
遺構としては太鼓櫓・蕗の門が現存しており、復元建造物としては、大手門・四足門を観ることができます。
一豊は掛川に10年政務した後に、土佐高知に移封されていきました。天守は度々地震により崩壊します。宝永4年(1707)の宝永地震でも崩壊するのですが、その都度修築されました。
しかし、嘉永七年(1854)の安政地震では崩壊したまま放置され、明治維新には廃城となりました。
○建造物の外観が景観上の特徴を有しているものであるか
(流派的又は地方的特色が顕著なもの)
平成5年(1993)、140年ぶりに日本で最初の本格的木造復元城として、再建された天守の構造を説明します。
① 付け櫓の有る複合式天守です。
② 一階の東南と西南に張出低屋を施しています。
③ 二階に唐破風と華灯窓を付けております。
④ 物見の塔を載せた初期望楼型天守です。
⑤途中階に武者隠しを施した三層(重)四階となっています。
⑥天守最上階には織豊時代の廻縁・勾欄を施しています。
⑦城壁は「白漆喰惣塗り籠め」の全体が白いお城です。
⑧防備としては、石落とし・忍び返し・狭間を施しています。
⑨天守南側・西側の石垣は、一豊時代に積んだ石を再度積み直した「打込接」です。
以上、文化財の指定条件は大筋整っていると思われます。
指定文化財としていく今後の問題点
指定文化財に成るために、気になることが近年発生しております。
掛川城は建設当時から「日本で最初の本格的木造復元天守」であると、掛川市民は聞いておりました。
ところが、文化庁の区分け指定基準が改正されまして、掛川城は「復興天守」に該当することになりました。
掛川城を愛する一市民としては、寝耳に水で納得がいかないことであります。従いまして、掛川城は「復元天守」であるか「復興天守」であるかの、調査をいたしましたので記述いたします。
令和3年(2021)に文化庁が区分けした、指定基準を説明します。
このように区分けられたことから、現在の掛川城は「復興天守」であるとのことです。
私としては、29年前の建設当時「日本で最初の本格的木造復元天守」を建設しようとした、市長(榛村氏)と学者先生、高額献金をして頂いた白木女史、そして瓦一枚・柱一本を寄付した多くの市民は、今更歴史的根拠が無い、想像建造物と同じ「復興天守」では納得いかないと思います。
この判断基準においては、年代により相違があります。
①「復元天守」の定義の変遷
1997年
2018年
2021年
②「外観復元天守」の定義の変遷
1997年
2018年
2020年
③「復興天守」とは
1997年
2018年
2021年
④「復古式天守」とは
1997年
掛川市中央図書館が所蔵している「掛川城に関わる図書」は十数冊ありました。調査した結果、掛川城を紹介している図書・資料には全て「復元天守」又は「復元城」としており、「復興天守」「外観復元天守」「復古式天守」の考えは全くありませんでした。
しかし掛川城は「復元天守」では無いと記述されている、歴史学者の著書がありました。
①「執筆者 K氏 織豊期城郭研究会 」
②「執筆者 T氏 織豊期城郭研究会 」
③「日本の城・天守閣 廣済堂出版」
④ 城郭研究家のS氏(城郭考古学者・大学教授)
参考ではありますが、掛川城再建に関する、当時の市長(榛村純一氏)の思いを記述いたします。
掛川市・榛村純一市長解説談
結論
現在の掛川城について一般的な著書は「復元天守」又は「復元城」とされていますが、一部の城郭専門家は「復興天守または復古式天守ではないか」と主張しております。
掛川市としては、昭和63年(1988)の掛川城復元工事立ち上げ当時から、「日本で最初に認められた木造復元天守」としていますので、復元天守と言い切ることが重要であると思います。
掛川城は天守内部が「想定復元」でありますので、完全な「復元天守」では無いと思います。しかし昭和63年(1988)当時、外観復元は復元天守に含まれていましたので「復元天守」で良いと思います。
もし「復興天守」の語句が明記されている配付物(パンフレット等)が広まると、何れ掛川城は歴史的根拠の無かった「復興天守」であるとされ、「日本で唯一価値のある本格的木造復元天守」と一般的に認知されなくなってしまいます。
掛川市の関係各所におかれましては「掛川城は建設当時から「復元天守」であった」との証明ができる資料(建設届出資料等)を、確認して頂く事をお願いしたいと思います。
今後、掛川城を文化財登録していく判断といたしまして、天守復元調査委員会の発足当時に
としており、「文化財的な価値を認めた」としております。
掛川城を愛する一市民として、近い将来には市の指定文化財となり、さらには県、そして国の文化財となっていくことを望んでいます。その為には市の観光振興として「日本で初めての本格的木造復元天守」であると主張して、観光宣伝を行い保存して行くことが、肝要であると思います。
掛川城を指定文化財にしていくための「あるべき姿」を懇願いたしまして文末といたします。
了
掛川城公園管理事務所 武藤 著
調査に使用した文献
・「掛川市歴史的風致維持向上計画」代表 松井三郎(元掛川市長)
・「図録 掛川城概説」著者 関七郎
・「掛川城復元調査報告書」著者 宮上茂隆ほか
・「掛川城の挑戦」編・著 若林淳之、榛村純一
・「掛川城のすべて」著者 小和田哲男、宮上茂隆ほか
・「掛川市の歴史と文化財」作成 掛川教育委員会 社会教育課
・「掛川城ガイドの参考資料」作者 帯金徹雄
・掛川城復元に関わる資料
・掛川市立中央図書館所蔵の各種文献