少女は裾を濡らす
#空白小説
水溜りを蹴ると、スカートの裾が濡れた。
「あーあ」と呟いてから、一人で呆れたように笑う。
傍を歩いていた少年たちが、こちらを指差しながらクスクスと笑った。
彼らくらいの年の頃、自分は何にだってなれるんだと思い込んでいた。
オリンピック選手にもなれるし、俳優にもなれるし、医者にもなれるし、その気になれば大統領にだってなれると本気で思っていた。もちろん、それ相応の努力なんて、ひとつだってしたことはなかった。ただ根拠のない自信が、当たり前のように自分の中にあった。
人が自信を失う瞬間は、他人と自分を比べた時に初めて訪れる。
私が8秒だった50M走で、弘樹くんは6秒を叩き出した。
私が通行人Bの役をもらった演劇会で、愛ちゃんはお姫様の役を演じた。
私が60点だった国語のテストで、由紀ちゃんは満点を取った。
私が立候補した学級委員長選挙で、当選したのは達也くんだった。
他者評価であろうが、自己評価であろうが、自分と誰かを比較して思わしくない結果が出た時に初めて、自分が特別でも何でもないことを知る。
人が学校で学ぶことなんて、それくらいしかないのだと思う。
大学受験という競争でも第一志望を勝ち取ることが出来なかった私は、親に莫大なお金を出していただきながら、滑り止めで受かった地元の私立大学に通っている。専攻は心理学。これも何となく、今まで学んだことがなかったという理由だけで選んだ。スタートラインが一緒なら置いていかれることもないだろうという、安直な考えだった。カウンセラーになりたいわけでも、研究者になりたいわけでもない。高校卒業後すぐに働き出すのは億劫だっただけだ。何のために通っているのかわからない場所で、私はごく普通に授業を受けて、友達と遊んだり、バイトをしたり、よくわからないレポートを書いたりしている。産まれて初めて、恋だってした。
私が恋をしたのは、偶然同じ大学に進学していた達也くんだった。小学生の頃から変わらない顔立ちと、当時学級委員長に選ばれるくらい人望を得ていたその雰囲気ですぐに彼だと分かった。学部も同じだったなんて、これは運命に違いない。そう思ってから私が恋に落ちるまでの速度は、多分50M走5秒台を叩き出せるくらい速かった。
何度も声をかけようと思った。彼と同じ授業を受ける日は化粧だっていつもよりずっと頑張った。でも話しかけられなかった。気持ち悪いと思われたらどうしようとか、彼が私を覚えてなかったらどうしようとか、そんなことばかり気にしてしまって、声すら掛けられないまま、気づけば私は大学4年生になってしまっていた。
社会人になったら、専攻が違う彼と再会する機会なんて多分もうない。
この先、彼への気持ちを上回る出会いがあるかも分からない。
今日言ってしまおう。フラれたって構わない。授業が終わったら呼び止めて、この4年間を全部ぶつけよう。雨上がりの澄んだ空気に、鼓動が速く打つ音が響く。
「松田くん」
私が声を掛けると、長かった髪をバッサリと切った彼が、私の方を爽やかに振り返る。かっこいい。いつだってあなたはかっこいい。
「えっと」
「...あ、すいません、同じ学部の矢島といいます。じつはお話があって」
「ああ、矢島さん。こんにちは」
「こんにちは」
「授業で時々同じでしたね......それで、お話というのは?」
「...覚えてますか、私、松田くんと同じ小学校だったんです」
「覚えてますよ」
「あ、本当に?嬉しいです。それで、あの、大学で偶然あなたを見かけた時からずっと気になっていて...好きだったんです、この4年間ずっと。よかったら......お友達からでも良いので」
「あー......なるほど、ごめんなさい。彼女がいるんです」
「え、あ、ああ、そうだったんですか......すいません私何も知らずに」
「それに」
「......」
「同性はちょっと」
「...ああ...そうですよね......はは、すいません」
「ごめんなさい。それじゃ」
「いいえ...すいませんでした」
こんなにあっけなく終わるんだと知っていたら、恋をしてから2秒で告白してしまえばよかった。そしたらきっと、恋をしてから告白するまでのスピード選手権で、私は誰にも負けないって自信が一つは出来たかもしれないのに。
本当に、あっけなかった。
幼い頃、私は何にだってなれると思っていた。
オリンピック選手にもなれるし、俳優にもなれるし、医者にもなれるし、その気になれば大統領にだってなれると本気で思っていた。
女の子にだって、なれると思っていた。
濡れた道路には所々、浅い窪みに溜まった水溜りが夕方を吸い込んで反射している。
足元に、目一杯おしゃれをして、いつもより化粧を頑張った自分が映り込む。
「本当に・・・バカだなあ」
水溜りを蹴ると、スカートの裾が濡れた。