六畳一間の電波塔
#空白小説
#書き出し :東武動物公園
#書き終り :東武動物公園
東武動物公園行きの日比谷線に乗ると、南千住駅に近づいたあたりで、車窓から東京スカイツリーが見えることを、今日初めて知った。
入ったことはないけれど、綺麗だなとは思う。
武蔵と読み方を当てられる634Mは、高層ビルの立ち並ぶ都心においても異常な高さだ。
瞬く間に空を占めていく高層建築物の影響を受けて、東京タワーの高さでは電波送信の役割を担いきれないと判断されたことから、地上デジタル放送の送信電波塔として東京スカイツリーが建てられた訳だから、当たり前ではあるのだろうけれど。それにしても高い。
普段から日比谷線を利用しているのに、こんなにも高い建築物が車窓から見えるということに、自分が今日初めて気がついたということに驚いた。
いかに普段から周りを見ていないかということである。
西新井駅で降りて裏道に入り、そのまま入り組んだ道を10分ほど進むと、水色の塗装と茶色い錆びが斑模様みたいになってしまっているボロアパートに辿り着く。
今にも崩れそうな階段を上がって「201」と書かれた扉の鍵を開けると、古くも清潔に保たれた六畳一間へご到着だ。
「ただいま」
返事なんて返ってこないが、何となく挨拶は大切にしている。
荷物を置いて、布団に寝転んでみる。
枕に顔を埋めながら、佐々木さんのことを思い浮かべた。
彼女がここに越してきたのは、去年の春のことだった。
「佐々木です、今日からこちらでお世話になります。ご迷惑をお掛けしてしまうこともあるかと思いますが、何卒よろしくお願いします」
この時代に、菓子折りを持って引っ越しの挨拶に来てくれる若者が、今の日本に何人いるのだろう。私は素直に感心した。
何より、彼女は美しかった。
こんなに綺麗で若い女性が、なぜこんなボロアパートで暮らし始めるのか不思議だったが、その答えはすぐに分かった。
彼女はいわゆるブラック企業で働いているらしい。綺麗なハイヒールの音を響かせて朝6時には家を出て、毎日深夜にその音が帰って来る。土日もあまり休めないようで、静かな週末の朝に彼女が部屋を出る音が聞こえることも、少なくなかった。
多分、寝て起きるための屋根と壁と鍵がある部屋であれば、どこでも良かったのだろう。何とも逞しい若者である。
私はこの逞しく美しい若者に、恥ずかしながら恋心を抱いてしまった。
彼女が越してきた時に新卒だったとして、私とは10個以上離れているのだから、気持ちを伝える勇気なんてもちろんない。ただ、同じ建物で暮らしていて、彼女が発するハイヒールの音や、ゴミ出しの時に笑顔で挨拶してくれること、そんな細やかな交流があるだけで充分だった。
一度だけ、自分から彼女に話しかけたことがある。
「この地域は、自転車の盗難がとても多いから、そのタイプの自転車はチェーンつけたほうがいいよ」
そう言うと、彼女は私に深々と頭を下げてからお礼を言い、翌日の夜には自転車にチェーンが掛かっていた。
彼女の役に立てたような気がして、嬉しかった。
そんな素敵な若者がここに越してきてから、一年半以上の月日が経った。この町も開発が進み、高層建築物なんかも建ち始める始末だ。
世界は、空へ空へと成長を遂げている。
私も成長しなければと、時々そんな風に思う。
家庭もなく、低所得。そのくせギャンブルが好きで、多少だが借金もある。親友だと思っていた同級生とは、金を貸してくれと連絡をしてから音信不通になった。
成長しない自分に嫌気が差すと同時に、このアパートが何も変わらず町の隅っこで静かに佇んでくれていることに、安心を覚えたりもする。
枕から顔を上げて、カメラ位置を確認してから部屋を出て、鍵を掛ける。
私はまだ、東京スカイツリーに登ったことがない。
でも、きっかけさえあれば、登るのかもしれない。
彼女がここに越して来るまでは、今にも崩れそうなこの階段を、私は一度も登ったことが、なかったのだから。
私は一体、どこへ向かっているのだろう。
こんなこと、続けるべきでないことは分かっている。
そうだ、明日の仕事終わりに、東京スカイツリーへ行ってみよう。登るかは分からないが、とにかく行ってみよう。
私は階段を降りて、降りて、降りて、降りて、自室の101号室へと戻った。
どこへ向かい、何のために生きているのかも定かではない明日の私を運ぶのは、きっと、いつも通りの日比谷線。
行き先は、東武動物公園。