俺たちからカードゲームを奪うな
先日、お笑い賞レース「キングオブコント2022」、その決勝戦がTVにて放送された。
東京でどうしようもない暮らしだけをしていた僕は、この部屋の端にある小さな小さな液晶にたった一人で齧り付き、煩くも華々しい紅白に彩られた壇上で幾多展開される珍妙な演劇たちを、独占することをとうとう許された。
例年は、実家のTVでなんかよくわからん裏番組がずっと流れており、翌日以降の友人同士の会話には一切入り込めず、怠い思いをするのがセオリーだった。変な話、KOCリアタイは憧れだった。
そしてそれが叶った。
楽しかった。
なかでも特に印象に残ったコントは、トップバッターにして、決勝初出場コンビ「クロコップ(敬称略)」のネタ『ホイリスト』だった。
元来、ストーリー性や伏線などを一切放棄した、アイデアと馬鹿馬鹿しさだけで突っ走るお笑いが大好物だった僕は、もう、ものの数分という短いネタ時間のうちに、彼らの作り出すアホらしさの虜になっていた。
あっち向いてホイとカードゲームを融合させた謎のゲームに飽くまでも全力で取り組む大人ふたり。世界とはこうあるべきなのだ、とすら感じた。
もしこれを見たのが小学生の頃だったら、
僕は次の日、
授業中にコソコソと、
朝配られた学級だよりを、
折り曲げて、
折り曲げて、
爪でピッてやって、
綺麗に破いて、
丁度良いくらいの大きさにした後、
その裏の白に、
汚い字で、
「ダブルフィンガー」とか、
「ゆううつな朝」とか、
書いて、それ使って、友達と、
休み時間、或いは放課後、
昨日のアレの真似して遊ぼうぜ、
って、
やってたんだろう、
と、
思う。
思い返せば、そういう、オリジナルの遊びを考えることに、人生の時間の全てを捧げていた時期があった。
全ての小学生男児が経験することかも知れない。僕も例に漏れず作っていた、
オリジナルのカードゲームを思う。
小学四年生の頃だったか。
僕と、友人二名?くらいで、ある日、自由帳?のようなものに描いたキャラクター(これは別にオリジナルではない)の絵を、切り取って、ペラッペラのフィギュアを作っていた。
もうこの時点で結構不可解ではあるのだが、兎に角、なんか手元に好きなキャラクターが出現するのが、あの頃は楽しくて仕方がなかった。変なクリエイティブに傾倒していた。
そんな中、クラスでとびきり頭の良かったやつが、僕らの変な遊びを見て、言った。
「そういうの作るなら、カードゲームとかも作ってみたら良いんじゃない?」
電流走る!!
それじゃん!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
やったー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
ありがとな!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
僕たちの事業は、その次の瞬間から始まった。
「カードゲームを作る」
この営み以外のあらゆる要素は、僕たちの人生には、最早必要なかった。
その辺にあった、小さい落書き帳みたいなやつの、ページを一つ一つ剥ぎ取って、当時好きだったゲームのキャラクターやら、アイテムやら、適当に描いて、適当に攻撃力とか、効果とか設定して、各々の思う、「俺の最強デッキ」の完成を目指した。
これは、僕たちにとって、学校のお勉強なんぞよりも、圧倒的に大切だった。
だって、オリジナルのカードゲームだぜ?
そんなの最高じゃん!
大好きなキャラクターを手の平の上に呼び寄せて、そいつに、自分が考えた最強の効果を付与して、作り上げたオリジナルの編成で、友人と競り合って、その後はまた新しいカードを作って、その後は、その後は、その後は、!!
こんなにも素晴らしいことはない!
カードゲームを作る以外に、幸福なんてない!
それくらいに、僕たちは燃えていた。
が。
友人のうち一人が、「授業中に落書きをしている」とされ、手元に隠してあったカードは、担任に取り上げられた。
呆気なかった。
その後のことは深く覚えていないが、兎角、取り上げられたそれは、僕らが育てつつあるカードゲームのブランドであることには間違いなかった。
奪われた。
カードゲームを奪われた。
少なくともその日の僕らにとって、何か重要なワードを一つ挙げるとすれば、間違いなく「カードゲーム」になる、そんな日だった。
それなのに、奪われた。
担任の先生や、大多数の生徒、後は、僕らの生活を支えるこの国の社会それにとって、カードゲームを作ることよりも、学校の勉強の方が、大切なのは、痛いほど解る。
だが、
僕らにとって、その日の、その瞬間の僕らにとって、カードゲームを作ること以外のあらゆる何者かは、無為な概念に過ぎなかった。
それを、奪われた、
奪われた、
という心地だった。
担任の手に渡るモンスターカードを横目に、何よりも先に生まれた感情は、残念がる思いよりも、次は自分がバレるかも知れないという恐怖よりも、
反発だった事を憶えている。
思えば確か、小四の、この時期の辺りから、先生とか、学校のシステムそのものへの反感を抱くようになった。裏で担任の名前を呼び捨てで呼んで、行き場のない怒りを友人間で消費し合った。
どの授業よりもかけがえのない時間だった。
俺たちから、カードゲームを奪うな、と、そういう名前の怒りが、僕の人間性に、今でも、少しだけ影響を与えている心地がする。
クロコップのネタの中で、休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴り、決闘が中断される演出が入った瞬間、どことなく寂しい気持ちになった。
この二人にとっては、この後行われる授業とか、ホームルームよりも、あっち向いてホイの方が大事な営みである筈なのだ。
そんな勘繰りを胸に、大人になったこの夜も、俺たちのあのカードゲームを思う。