散歩、クソ世界、まちあわせ
米津玄師がジョージアのCMソング(2曲目!)書いたからって、米津玄師コラボのUT着て、近くのスーパーでジョージアのラテ買って、米津玄師聴きながら散歩するの、はしゃぎ過ぎか。
今日は特別に僕がどうやってお外を歩いたり、お外で生きたりしているのか、その一部を開示しようと思う。書くことねえし、さ
まず歩いていると気になってくるのが左右の足の「歩行ポイント」の差。
歩行ポイントとは何かというと、「足の裏が、どの程度、どういう素材の地面を踏んでいるのか」「歩幅や足と地面とのくっつき具合はどうだろうか」というもの。
そしてこれに何となく差がある感じがすると気持ちが悪い。みぞおちから下がひりつく。
例えば、点字ブロックを右で踏んだら、左でも踏みたい。そうすれば左右で公平。
右足の前半分でマンホールを踏んだら次は左足の後ろ半分でマンホールを踏む。
そうしたら左右にそれぞれ「マンホール×0.5歩行ポイント」が入り、公平、という具合。
そのためには左足の歩幅を少し縮める必要がある、とかだと、その次の右足の歩幅を縮め、これまでの「累計歩幅」を調整。
ここで初めて左右の歩行ポイントが同値に戻る。ありがとう。
散歩は「歩く」という生命体的な枷を楽しむアクティビティであり、試練、もしくは、苦行、そんな気がする。
木々があるとおもろい。
人間が蹂躙した自然界の残党を、今になってわざわざ大切がって共生頑張ろうとやっている感じの、人間自体のおもろさがおもろい。
木々はおもろくない。そこにあるからおもろいのであって、なんせ、木々は木々なので、おもろくない。
木々が喋ったらおもろいのかもしれないけど、思考やそれに準ずる言葉、個体間の不和、葛藤、なんもないから、おもんない。
僕が人間として恐れている「他個体との精神的な差異」というものが無いせいで寧ろ面白みも感じられなくなっているというのは皮肉。
思えば僕もまた人間で、つまり愚かなので、おもろい。やったー
あと、ガキは至上のエンタメだよ。
この前外歩いてて見かけたガキの話をすると、ガキが、何かが嫌だったのか分かんないんだけど、道端で母親の足にしがみついて、まるで何か(強風とか)に耐えてるみたいな感じになってて、すこぶる良かった、っていう。
その様を見て俺、ついつい笑みが溢れてしまった。前も言ったが、心が健康すぎて、良いガキを見ると笑顔になってしまう。
ガキを守るために、大人として、なるべく犠牲になっていきたい所存。
この世のガキが恵まれたガキだけになって仕舞えば良い。恵まれてないガキが大人になると、恵まれたガキだった大人をすぐ腐すようになってしまうので。
↑その原動力は恐らく嫉妬。
大人は中途半端に賢いため、嫉妬を変に言葉で加工して遠くに飛ばすので不和が起こりやすい。妬ましくても「〇〇くんずるい〜😠」と言うだけであって欲しい。
そもそも、誰かが誰かに嫉妬できない世界を作ってみるべきだ。そのために全てのガキをまずは救う。
行くぞ、聖なる犠牲となるのだ!!!
と、いう未来を幻想する。
目的地がある外出とかはだるいよなぁ、と思う。歩行中は基本イヤホンをつけるんだけど、当たり前ながら、待ち合わせ場所...目的地に着いた瞬間、イヤホンを外す。
その時点で初めて外界と意識が接続する。
俺はなるべく外の世界に自分の存在と時間を貸したくないので、音楽を聴きながら歩いている。(そもそも街、基本音がでかくて、なんかで耳塞いでおいた方が比較的楽なので。)
気づいたら目的地にワープしている。音だけだった世界が急に鈍い色の光と鈍い色の影で構成された現代的な地獄絵図に変わっていく。
そして、人間が割といっぱいいる。
現実世界はクソだなあ、と思って、その時自分だけが世界で唯一無敵存在みたいな気分になるが、ちょっとして、向こうから歩いてきた友達と合流した瞬間、
スッ、
また、誰かの人生のいちキャラクターとしての自分に戻る。
こんなに奇を衒いたがったような物言いをしてるけど、見ての通り根は社会適合者なので、やっぱり何も考えずに人の話を聞き流しながらぼんやりしてる時間が、楽なんだよなぁ〜
、
歩くよりも!
でもなんか、駅前とかで待ってると、多分自分と同じように誰かを待ってる人が多くいるわけで、つまり駅前は必然的に「約束の途中」の総量が多くなるわけだから、そういうことを考えたらなかなかに訳が、”訳”が重苦しいよな、と思う。わけが。
電車が風を蹴散らす音も、何となく全ての人間が早足な気がする感じも、空に見られてるあの感じも、全部なんか、そういう、約束の飽和した駅前という空間の固有アビリティだということにしたい。
全部があれだと社会は窮屈すぎる
とか、思った。
↑
嘘です。思ってないです。
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本当です。
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本当です。
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本当です。
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本当です。
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本当です。