和菓子No.4 塩味饅頭(6店舗食べ比べ) Part1
今回の和菓子は兵庫県赤穂市の名産品、塩味饅頭。
名物なだけあって、赤穂市内の和菓子屋さんでは
それぞれ独自の塩味饅頭が売られています。
せっかくなので、市内にある和菓子屋さん6店舗の塩味饅頭を
食べ比べてみました。
まずは塩味饅頭について知るところから。
【塩味饅頭とは?】
塩味饅頭は、寒梅粉を使った落雁風の皮に、
赤穂の塩を入れた小豆のこし餡を包んだお饅頭です。
白(プレーン)と抹茶が定番で、お店によってはその他変わり種の塩味饅頭を販売されているところもあります。
【塩味饅頭と歴史】
~塩味饅頭の誕生~
塩味饅頭の発祥には諸説あり、
和菓子屋さんによって記載されている由来が異なります。
以下に、今回食べ比べした6店舗の和菓子屋さんのうち、
ホームページに由来が載っていた5店舗の
塩味饅頭の由来を引用しました。
《かん川本舗》さん
《総本家かん川》さん
《元祖播磨屋》さん
《潮見堂本店》さん
《三島屋本店》さん
5店舗の記載をざっくり要約してまとめると
二説に分けることができます。
一つは、
《かん川本舗》さん、《総本家かん川》さん、《潮見堂本店》さんの説で、
≪江戸時代、赤穂藩主の浅野内匠頭長矩は
茶の湯に造詣の深い人物であったため、
「赤穂まんじゅう」という、塩を隠し味に使った饅頭を
京洛の宮家や江戸の将軍家への献上菓子として用いていて、
それが義士の討ち入り後、
江戸で「義士まんじゅう」「大石まんじゅう」ともて囃されていた。
その後、天保の時代に赤穂に招かれた
江戸で名人といわれていた江戸屋藤治郎・平兵衛父子が
「赤穂まんじゅう」を改良し、
現在の「塩味饅頭」が完成した。≫
という説。
そしてもう一つは、《元祖播磨屋》さん、《三島屋本店》さんの説で、
≪嘉永6年(1853年)、当時の播磨屋当主であった時三郎さん(三島屋本店さんでは「新浜村に塩田を作っていた人」としている)が、
赤穂の海に沈む半円の美しい夕日の情景に感銘を受け、
赤穂の純白の塩と白砂糖と寒梅粉で「汐見まん志う」を創製したのが
始まりで、その後、赤穂藩の進言もあり塩味饅頭と改名し、
代々の赤穂藩主が赤穂の土産として徳川将軍家に献上、
茶席などの菓子として賞賛された。≫
という説。
ちなみに、
「塩味饅頭」という表記の仕方は《元祖播磨屋》さんの登録商標です。
説を読んでも、前者とはルーツが違うように思います。
ですから、《元祖播磨屋》さんの塩味饅頭は他とは別物なのかもしれませんね。
残念ながら、詳しいことは調べても分からなかったので割愛します。笑
~赤穂事件~
説の中にも出てきた「義士の討ち入り」とはいったい何なのか。
何故「義士まんじゅう」、「大石まんじゅう」と呼ばれるようになったのか。
日本史を詳しく知らない私は、説を読んで???だったので
調べてみました。
どうやら「義士の討ち入り」に至るまでのストーリーがあり、
その一連の出来事を「赤穂事件」と呼ぶようで、そこに大石内蔵助(おおいしくらのすけ)という人物が関わっているようです。
そして、「赤穂事件」をお芝居や映画にしたものが「忠臣蔵」。
ではその内容をざっくりと見ていきましょう。
事の始まりは、元禄14年(1701)3月14日午前9時頃、
江戸城内の松之大廊下で赤穂藩主の浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が、幕府高家の吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)に斬りつけたことでした。
(吉良は眉間と背中を斬られますが、軽傷で済みます。)
この日は白書院で重大な儀式が行われており、
内匠頭(たくみのかみ)は接待を務めていて、
その礼儀作法を指導していたのが吉良(きら)でした。
この当時は「喧嘩両成敗」の慣習があったので、
喧嘩が起きれば双方に非があるとして裁定するのが通例でしたが、
将軍綱吉は、儀式を血で穢されたと感じ、
一方的に内匠頭(たくみのかみ)に非があると決めつけ、
「内匠頭は即日切腹、赤穂藩は取りつぶし」
との裁定を下します。
多くの人がこの裁定を理不尽に思いましたが、
決まってしまったことは変えられず、
内匠頭(たくみのかみ)は切腹します。
これを知った赤穂藩の家老の大石内蔵助(おおいしくらのすけ)をはじめとする家臣たちは驚愕し、茫然自失となる者や憤る者も。
赤穂藩では晴天の霹靂のような出来事に混乱状態の中、
籠城するのか、殉死するのか、開城するのかが話し合われます。
そして最終的には、
「内匠頭の弟の浅野大学(あさのだいがく)を立てて、浅野家を再興し、
吉良には何らかの処分を幕府に願い、亡君の無念を晴らす。」
という内蔵助(くらのすけ)の案が採用され、浅野家再興に一縷の望みを託し、
開城が決まります。
これにより、家臣らは浪人の身となり、
内蔵助(くらのすけ)は浅野家再興に向けて活動を始めます。
しかし、元禄15年7月に幕府から浅野大学(あさのだいがく)に対する処分が下され、広島の浅野本家にお預けになったことで、
浅野家再興計画は夢に終わってしまいました。
こうなった以上、内蔵助(くらのすけ)は覚悟を決めます。
そして家臣たちを集め、
内匠頭に対する幕府の裁定が「喧嘩両成敗」に反する一方的なものであったこと、このままでは亡き主君と浅野家の面目が立たないことを強調して、
「江戸に赴き、吉良を仇討ちするしかない。」と話し、
これにより「義士の討ち入り」が決定します。
すでに赤穂城には別の大名が入り、
故郷に帰ることは絶望的かつ、
浅野大学の処分が決まったばかりで仇討ちに方針を切り換えるのは急だと考える者も多く、
家臣130人のうち半数以上が去っていき、
その後も討ち入り直前まで脱落者は続きました。
脱落者が続く中でも、仇討ちの準備は着々と進められ、
吉良(きら)が確実に屋敷にいる日を突き止めることに成功。
12月14日の夜に討ち入りすることが決定します。
そして、綿密に練った計画は予定通り実行され、
内蔵助を含む47人の家臣が吉良邸に討ち入り、
見事吉良(きら)を討ち果たします。
と、ここまでが「赤穂事件」です。
その後、赤穂義士たちがどうなったかというと、
「仇討ちは義だが、刃傷の罪で切腹した内匠頭の仇討ちは、
法的に許されるものではなく、個人の利に走った行動であり、
それを許せば天下の法は成り立たない。
よって、浪士らは法に照らし、切腹とするのが妥当である。」
という荻生徂徠(おぎゅうそらい)の意見が採用され、
内蔵助(くらのすけ)を含む赤穂義士47人は、元禄16年(1703)2月4日に、
それぞれ預けられた屋敷で全員切腹しました。
切腹は武士にとって名誉ある死であるので、
義士たちも納得のうえだったのでしょう。
理不尽に立ち向かう義士たちの忠誠心には圧倒されますね。
塩味饅頭を買いに行った際、
赤穂義士たちを祀っている「大石神社」にも
立ち寄ったので
その時の写真を載せておきます。
さて、塩味饅頭は江戸時代に誕生し、
赤穂藩と深い関りがあることが分かりました!
というわけで、いよいよ食べ比べ!
といきたいところですが、
長くなりそうなのでこの先は次回の記事に持ち越しです。笑
(参考)