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和菓子No.4 塩味饅頭(6店舗食べ比べ) Part1

今回の和菓子は兵庫県赤穂市の名産品、塩味饅頭。
名物なだけあって、赤穂市内の和菓子屋さんでは
それぞれ独自の塩味饅頭が売られています。
せっかくなので、市内にある和菓子屋さん6店舗の塩味饅頭を
食べ比べてみました。


まずは塩味饅頭について知るところから。

【塩味饅頭とは?】

塩味饅頭は、寒梅粉を使った落雁風の皮に、
赤穂の塩を入れた小豆のこし餡を包んだお饅頭
です。

寒梅粉(かんばいこ)
もち米を加工した米粉の一種。蒸したもち米を餅に加工してから、ごく薄く伸ばして、焼き色が付かない程度に軽く焼いて(白焼きにして)細かく砕いたもの。「梅」が開花する「寒」い時期に、新米を用いて「粉」に加工することから、「寒梅粉」の名が付いたと言われている。
日本の食べ物用語辞典-寒梅粉
https://japan-word.com/kanbaiko
落雁(らくがん)
もち米やうるち米、大麦、小麦、栗、小豆、粟などの穀類や豆類、木の実などを粉にしたものに、水あめや砂糖などを加えて混ぜてから、型などに入れて焙炉(ほいろ)で乾燥させた干菓子。型に入れる前に着色したり、餡や栗などを一緒に型に入れて押し固めるものもある。
日本の食べ物用語辞典-落雁
https://japan-word.com/rakugan?hilite=%E8%90%BD%E9%9B%81

白(プレーン)抹茶が定番で、お店によってはその他変わり種の塩味饅頭を販売されているところもあります。

【塩味饅頭と歴史】

~塩味饅頭の誕生~

塩味饅頭の発祥には諸説あり、
和菓子屋さんによって記載されている由来が異なります。

以下に、今回食べ比べした6店舗の和菓子屋さんのうち、
ホームページに由来が載っていた5店舗の
塩味饅頭の由来を引用しました。

《かん川本舗》さん

播州赤穂五万三千石の城主で、波乱の最後を遂げた浅野内匠頭長矩公に、生前、茶の伴として好んでいただいた菓子が、姫路の菓子製法に学び赤穂産の塩を配合した赤穂饅頭でした。
やがて長矩公が江戸参勤の折、土産として将軍家に献上し、諸国の大小名の許にも贈られたためその名は広く知れ渡り、賞賛されるようになったのです。
後に江戸より菓子職人をはるばる赤穂にまで招き、洗練された腕によって、歯ざわりも柔らかく、味に磨きがかかって、より格調高く、まろやかで絶品の風味と変わりました。以後、この誉れ高き銘菓は今日に至り、数々の栄誉ある賞を拝受しました。
御菓子司 かん川本舗-塩味饅頭 志ほ万
https://www.kankawa.co.jp/?pid=73133872

《総本家かん川》さん

作り続け辞世の句を詠んだ浅野内匠頭長矩。
元禄の頃より「塩の国」としてその名を知られていた
播州赤穂藩の三代城主は風流をこよなく愛し、
ことに茶の湯に造詣の深い人物でした。
その城主の銘により作られた、赤穂の銘塩を使った饅頭
「正月事始の雅」は、京洛の宮家や江戸の将軍家への
献上菓子にも用いられるほど珍重されるようになりました。
藩の経済を潤し、長矩という心ゆたかな人物を創出し、
そして後世に残る銘菓「しほみ饅頭」をも生み出した播州赤穂の塩。
時は移り変われども、
自然の恵みを大切に生かした和菓子をます。
総本家かん川-しほみ饅頭
https://www.kankawa.com/

《元祖播磨屋》さん

嘉永6年(1853)、当主、時三郎が赤穂の海に沈む半円の美しい夕日の情景に感銘を受け、純白の赤穂の塩、その幻想を饅頭に取り入れんとし、白砂糖と寒梅粉で、塩で甘さを抑えた独特の餡を包み、清楚な姿の『汐見まん志う』を創製しました。汐に映える夕日から命名したと言われています。
次代、治平が赤穂藩に技量を認められ御用菓子司となり名字帯刀を授かる。赤穂の塩を饅頭に取り入れており、赤穂藩の進言もあって塩味饅頭と改名し、現在に伝承しています。
当時、この饅頭を作る押し型は、近くの伊部焼きの窯元に特別注文して作らせた盃型で、塩味饅頭の原型となっております。昭和の初期頃まで使用しておりました。
塩の歴史と共に歩み続けた『塩味饅頭』、かたくなに味を守り続けて150年、全国の皆様にお届けしております。
元祖播磨屋-塩味饅頭
https://www.ganso-harimaya.com/contents/category/dentou/

《潮見堂本店》さん

今は昔、赤穂藩主浅野内匠頭長矩公在世の折、新浜村に塩田を作られしが、之れ実に赤穂塩田の始めにして、朝に夕に寄せては返す潮に映へる、山なす塩の白妙いと見事なるを見て、いつの頃にや塩味まんじゅうと名付けて、広く世にひさぎし人あり。其の味素朴にして、塩あじよろしくまことに風流なりとて勿ち赤穂の名物となる。以後、時代を重ねて幾星霜、よく工夫をこらし、ついに天下の銘菓塩味まんじゅうとなりました。「その風味四季に変せず、日数に堪えて而も味損ずること なく、茶前酒後にも適して妙なり」とて遠く帝京洛のはてまでも囃さること赤穂義士の忠烈の誉に競ひて、永く此の世に残りました。
潮見堂本店-塩味まんじゅう
http://www.shiomido.jp/siomiman.htm

《三島屋本店》さん

享保の頃、地方産業の奨励から、赤穂では特産の塩にちなんで色と味を工夫した赤穂饅頭あるいは義士饅頭が作られました。参勤交代の折には赤穂土産として将軍や諸大名に献上されました。後に、江戸より名工を迎えて改良が加えられ、名も現在の塩味饅頭に改称され今日に至っております。
当店の塩味饅頭は、赤穂の塩と北海道の小豆を使った自家製餡が自慢で、創業から代々受け継がれた製法を守り、まきでじっくり炊きあげ、上品な甘さに仕上げられております。
三島屋本店-塩味饅頭
https://harimarche.com/store/Mishimaseika/product.html

5店舗の記載をざっくり要約してまとめると
二説に分けることができます。

一つは、
《かん川本舗》さん、《総本家かん川》さん、《潮見堂本店》さんの説で、
≪江戸時代、赤穂藩主の浅野内匠頭長矩
茶の湯に造詣の深い人物であったため、
「赤穂まんじゅう」という、塩を隠し味に使った饅頭を
京洛の宮家や江戸の将軍家への献上菓子として用いていて、
それが義士の討ち入り後、
江戸で「義士まんじゅう」「大石まんじゅう」ともて囃されていた。
その後、天保の時代に赤穂に招かれた
江戸で名人といわれていた江戸屋藤治郎・平兵衛父子
 「赤穂まんじゅう」を改良し、
現在の「塩味饅頭」が完成した。≫
という説。

そしてもう一つは、《元祖播磨屋》さん、《三島屋本店》さんの説で、
≪嘉永6年(1853年)、当時の播磨屋当主であった時三郎さん(三島屋本店さんでは「新浜村に塩田を作っていた人」としている)が、
赤穂の海に沈む半円の美しい夕日の情景に感銘を受け、
赤穂の純白の塩と白砂糖と寒梅粉で「汐見まん志う」を創製したのが
始まりで、その後、赤穂藩の進言もあり塩味饅頭と改名し、
代々の赤穂藩主が赤穂の土産として徳川将軍家に献上、
茶席などの菓子として賞賛された。≫
という説。

ちなみに、
「塩味饅頭」という表記の仕方は《元祖播磨屋》さんの登録商標です。
説を読んでも、前者とはルーツが違うように思います。
ですから、《元祖播磨屋》さんの塩味饅頭は他とは別物なのかもしれませんね。
残念ながら、詳しいことは調べても分からなかったので割愛します。笑

~赤穂事件~

説の中にも出てきた「義士の討ち入り」とはいったい何なのか。
何故「義士まんじゅう」「大石まんじゅう」と呼ばれるようになったのか。
日本史を詳しく知らない私は、説を読んで???だったので
調べてみました。

どうやら「義士の討ち入り」に至るまでのストーリーがあり、
その一連の出来事を「赤穂事件」と呼ぶようで、そこに大石内蔵助(おおいしくらのすけ)という人物が関わっているようです。
そして、「赤穂事件」をお芝居や映画にしたものが「忠臣蔵」

ではその内容をざっくりと見ていきましょう。

事の始まりは、元禄14年(1701)3月14日午前9時頃、
江戸城内の松之大廊下で赤穂藩主の浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が、幕府高家の吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)に斬りつけたことでした。
(吉良は眉間と背中を斬られますが、軽傷で済みます。)
この日は白書院で重大な儀式が行われており、
内匠頭(たくみのかみ)は接待を務めていて、
その礼儀作法を指導していたのが吉良(きら)でした。

この当時は「喧嘩両成敗」の慣習があったので、
喧嘩が起きれば双方に非があるとして裁定するのが通例でしたが、
将軍綱吉は、儀式を血で穢されたと感じ、
一方的に内匠頭(たくみのかみ)に非があると決めつけ、
「内匠頭は即日切腹、赤穂藩は取りつぶし」
との裁定を下します。
多くの人がこの裁定を理不尽に思いましたが、
決まってしまったことは変えられず、
内匠頭(たくみのかみ)は切腹します。

これを知った赤穂藩の家老の大石内蔵助(おおいしくらのすけ)をはじめとする家臣たちは驚愕し、茫然自失となる者や憤る者も。
赤穂藩では晴天の霹靂のような出来事に混乱状態の中、
籠城するのか、殉死するのか、開城するのかが話し合われます。
そして最終的には、
「内匠頭の弟の浅野大学(あさのだいがく)を立てて、浅野家を再興し、
吉良には何らかの処分を幕府に願い、亡君の無念を晴らす。」

という内蔵助(くらのすけ)の案が採用され、浅野家再興に一縷の望みを託し、
開城が決まります。

これにより、家臣らは浪人の身となり、
内蔵助(くらのすけ)は浅野家再興に向けて活動を始めます。
しかし、元禄15年7月に幕府から浅野大学(あさのだいがく)に対する処分が下され、広島の浅野本家にお預けになったことで、
浅野家再興計画は夢に終わってしまいました

こうなった以上、内蔵助(くらのすけ)は覚悟を決めます。
そして家臣たちを集め、
内匠頭に対する幕府の裁定が「喧嘩両成敗」に反する一方的なものであったこと、このままでは亡き主君と浅野家の面目が立たないことを強調して、
「江戸に赴き、吉良を仇討ちするしかない。」と話し、
これにより「義士の討ち入り」が決定します。

すでに赤穂城には別の大名が入り、
故郷に帰ることは絶望的かつ、
浅野大学の処分が決まったばかりで仇討ちに方針を切り換えるのは急だと考える者も多く、
家臣130人のうち半数以上が去っていき、
その後も討ち入り直前まで脱落者は続きました。

脱落者が続く中でも、仇討ちの準備は着々と進められ、
吉良(きら)が確実に屋敷にいる日を突き止めることに成功。
12月14日の夜に討ち入りすることが決定します。

そして、綿密に練った計画は予定通り実行され、
内蔵助を含む47人の家臣が吉良邸に討ち入り、
見事吉良(きら)を討ち果たします。

と、ここまでが「赤穂事件」です。

その後、赤穂義士たちがどうなったかというと、
仇討ちは義だが、刃傷の罪で切腹した内匠頭の仇討ちは、
法的に許されるものではなく、個人の利に走った行動であり、
それを許せば天下の法は成り立たない。
よって、浪士らは法に照らし、切腹とするのが妥当である。」

という荻生徂徠(おぎゅうそらい)の意見が採用され、
内蔵助(くらのすけ)を含む赤穂義士47人は、元禄16年(1703)2月4日に、
それぞれ預けられた屋敷で全員切腹しました。
切腹は武士にとって名誉ある死であるので、
義士たちも納得のうえだったのでしょう。

理不尽に立ち向かう義士たちの忠誠心には圧倒されますね。

塩味饅頭を買いに行った際、
赤穂義士たちを祀っている「大石神社」にも
立ち寄ったので
その時の写真を載せておきます。

大石神社鳥居
大石内蔵助像(石像)
46人の義士たちの石像①
47人の義士たちの石像②
47人の義士が祀られているとの説明書き
赤穂事件の各場面が描かれていました。
赤穂事件の貴重な資料が展示されている「義士宝物殿」
大石内蔵助像(銅像)
近くには大石邸跡がありました

さて、塩味饅頭は江戸時代に誕生し、
赤穂藩と深い関りがあることが分かりました!

というわけで、いよいよ食べ比べ!
といきたいところですが、
長くなりそうなのでこの先は次回の記事に持ち越しです。笑


(参考)

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