世界の果てに何者かが在りますように
際限なく続く日常に身を浸す僕。その日常にすら、死という名のゴールが待ち構えているにも関わらず。僕は必死で闇雲に生きている。言葉を携え、ただひたすら想いを形にする。それは声として、文字として。
言葉だけでは遠い。僕の好きなロックスターは言った。ただひたすらに想うこと、それら全てを言葉にしていてはキリもない。だけど、言葉にすることからは到底逃げられなくて、どうしようもない。
このままで僕らはいいの?
そんな問いかけに僕は何も返せない。
そもそも「果てしない」なんて言葉が浅はかで間違っているのか、とさえ思う。何事にもきっと「始まり」があって、「終わり」がある。そんなこと頭では分かっていても、心は分かってはくれない。とてつもなく辛い、と感じてしまえば終わりなど見えるはずもない。だから、僕はいつもその感情を剥がそうとしてしまう。
こう思うだろう。逃げだろう、それは。と。
そう思われても仕方ない。自分では処理できない感情の数々をただ引き剥がし、溝に捨てる。これが逃げならば、その通りだ。そうとしか言えない。それくらいこの「剥がす」という行動は柔い。その辛い感情にメスを入れ、逡巡するまでは良い。そこからのルートはお察し。とんでもなくネガティブな思考へとシフトチェンジしていく。それを剥がそうとしてしまう。
「この感情から逃げるのは本当は良くないけれど、今の僕には到底敵わない感情だから、後回し」
簡単に言えばそういうことだ。
春の夜風に晒されて僕のこの捻れた思考は加速して仕方がない。難しく考えるな、と人は言う。若いのに、楽に生きればいいのに、そう言う人が大半だ。だけれど、この生き方、考え方をどれだけ否定されようともこればっかりは僕自身のそれであって、この先アイデンティティにすらなり得る稀有な希望の光なのだ。ここで芽を摘む訳にはいかない。
いつまでも探し続けるさ。自分を探してやめないさ。
世界の果てに何者かが在ると信じて。