生命の儚さ
昨日、同じバイト先で働くおばちゃんの旦那さんが亡くなった。
長い間、休んでいるので疑問に思ってはいたのだがまさか旦那さんを亡くし、お葬式に出ていたのは知らなかった。
そのおばちゃんはいつも僕の面倒を見てくれてたまにジュースやらお菓子やらを買ってくれた。たったそれだけのことで僕はとても嬉しかったし、「気にかけてもらえている」ということだけで救われた気になっていた。
僕はその旦那さんとは全く面識がない。その旦那さんが亡くなったという事実だけに限れば僕はそれほど思うことは無いし、ただの日常としてただ流れていくであろう。しかし、そのおばちゃんが旦那さんとどれほど仲が良く、旦那さんをどれほど愛していたかを聞く、想像する。
胸が痛い。最愛の人を亡くして涙を流すおばちゃんの姿がありありと心に映し出される。どうしようもない感情がどうしようもなく暴れ出す。第三者の僕でこんな風に想ってしまうのだから、当事者たちはどうだろうか。想いに想いきれない悲しみがそこにはある。
その旦那さんは会社の定期検診で再検査する様に通知されていたにも関わらず長年放ってしまっていたらしい。それが原因で全身に癌が転移し亡くなってしまった。
考える。ひとりの命では無いだろう、と。ひとりだけのあなたじゃないよ、と思ってしまう。後の祭りであったとしても、残された家族はいつまでも、あのときこうしていれば、こうしてくれていれば、と思ってしまうだろう。とんでもない悲しみとやるせなさ、そして喪失感が彼らを襲う。それでも僕らは生と死を目の当たりにして生きて行かねばならないし、乗り越えた様な素振りでいつまでも心に傷を負ったまま生きて行かねばならない。
当たり前だが、一度死んだものは戻らない。でも、そこにあるのは生命の重みとも言えるだろう。そして、残された者たちはより一層生命を燃やすことに注力する。死は人間に生命力さえも上乗せする様な、そんな感覚に見舞われる。
人の死を、人の悲しみを、こんな風に綴るのはどうかとも思った。けれど、今付与されているこの感情を言葉にする以外考えられなかった。記しておきたかった。
お悔やみ申し上げます。
おばちゃん、今度は僕が支える番かもしれないね。何ができるか分からないけど、あなたのためになりたいです。