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#6 生きるとは
簡単すぎる人生に生きる価値などない。
果たしてそうだろうか?
そもそも生きることに価値などあるのだろうか。
こんなこと考えなくても生きていける人間とは幸せなものだ。
だが、一度疑問に感じてしまったが最後。
死ぬまでこの問いにとり憑かれ続けるだろう。
この問いはこれまで解いてきたどの学問よりも難しい。
たぶん女心とやらと同じくらい難しい。
もしかしたら世の男性は一生理解することはないのかもしれない。
(世の女性の皆さん、許してください)
今日は大学時代からの友人Aさんのリクエスト「生きるとは」について書いていきたい。
ある日ぼんやりとテレビを眺めていると、あるおバカタレントがコミカルに、或いは持ちギャグとしてリズミカルに言い放った。
「生きる意味が見出せない」
大爆笑に包まれるテレビの中のスタジオと、隣で同じく爆笑する妹を見て私はハッとした。
確かにそうだと。
生きる意味とはなんなのだろうと。
これが中学生か、或いはそれより若き日の私が「生きること」についての問いに初めて直面した瞬間である。
「生きること」について考え始めた私と時を同じくして、思春期の私のストレスの吐き溜めとなっていた妹が「私を死に至らしめる」ことを「DEATH NOTE」なるもので画策していたとはなんとも皮肉な話である。
とある倫理哲学者が言った。
「過去、現在を問わず生きる意味を明らかに説明できた人を知らない」
「明らかな説明」というのは
1+1が2であるように至極疑いの余地もない真っ当な答えがあることを言う。
ある哲学者は自分の人生を持ってしてこの問いの解明に尽くしたが、「明らかな説明」を見出すには至らなかった。
全ての人が自分の意志とは無関係に生を受ける。
そして、勝手に名前なるものを与えられ自らの意志の有無とは無関係に漠然とそれぞれの人生がスタートする。
そしてある時ふと思うのだ。
「なんのために生きるのだろうか」
と。
夢を叶えるため。
子孫繁栄のため。
幸せになるため。
この問いに直面した時にそれぞれがそれぞれの大義名分を語るだろう。
だが、夢も子孫も幸せもなくたって生きていけるのだ。
だとするならやはりこう。
生きることに意義などない
ただし、
自分が与えない限りは
と言うことだと私は思うのだ。
生きる意味はそれぞれの考え方や価値観に依存する。
それ故に声を大にし、
「生きる意味はある」
と胸を張って言い切るのは難しい。
それは出会う人間やその時の状況によって生きる意味が変化するからである。
「生きること」には意義はあっても定義がないのだ。
だから、難しい。
しかし、今から約2600年前にインドで活躍したお釈迦様は「仏教」の教えの中で
「生きる意味がある」
と力強く説いたのだ。
「天井天下唯我独尊」
人は皆、誰もがかけがえのない尊き人生の目的を持っている。一人一人に独尊(たった一つの尊い目的)がある。
と。
生まれ落ちることや場所に選択権がない代わりに私達は己の生き方を決めることができる。
例え親がレールを敷いてこようとそのレールを無視して己の信ずる道を進むことが許される。
または、そのレールに沿って進むことさえも自由だ。
例え自分の名前が「サッカー」だとしても野球をしたってバスケットボールをしたっていいのだ。
自分が望むのなら。
本気になればどんな柵からも抜け出せる。
生きるとは「自由」なのだ
そんな偉そうに語る私も約24年生きながら自分の生きる意味はよくわかっていない。
無宗教であり、特段に知や徳があるわけでもないからなのか。
それすらも今のところわからない。
だが、わからないから生きるのだ。
どこかの海の王を目指す麦わら帽子を被った無知な青年も言っていた。
「みんな何もわからないけど、命懸けで海に出ている。つまらねぇ冒険ならおれはしねぇ。」
彼の言っていることを置き換えるとすれば、
「何もわからない中で生きるからこそ面白い」
みたいなことだろう。
きっと人生の瞬間瞬間を一生懸命に生きながら知や徳を積み重ねていくことで、
自分にとっての生きる意味が浮かび上がってくるのではないかと思う。
今日はどんな日になるのか。
好きなあの子は何を考えているのか。
落ち込む友に何と声をかければいいのか。
全部わからない。
だからいい。
だから一生懸命なんだ。
今日も私は一生懸命に生きてみている
P.S.例のそれの影響により緊急帰国しました。またそのことについても書いていきたいです。