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塚本邦雄 『薔薇色のゴリラ』考 その1
※この記事は、現代仮名遣いで書かれ、正字を使っておりません。
歌人、塚本邦雄のシャンソン好きは有名である。しかし、邦雄の短歌についての短歌論は数多あれど、邦雄のシャンソン論についてはあまり知られてないのではないか。
ゆまに書房の全集にも邦雄の『薔薇色のゴリラ』は、入っていなかったのではないか、と思う。
私自身は、シャンソンについては門外漢なのではあるが、フランスの歌曲に興味がないわけではないので、この本にどんなことが書いてあるか、少しずつ、不定期に見てみようと思う。
まずは、序ともいうべき、「味爽の黄昏=わがシャンソン体験」から。
ここで、邦雄は、コロンビア盤レコード「シャンソン・ド・パリ」から、イヴォンヌ・ジョルジュの「ナントの鐘」、リナ・ケティの「わが心のみ」、マリー・デュバの「ペドロ」を褒めている。
最初の二つは、今でも動画で視聴可能であったので、興味ある方はぜひ。
なるほど、塚本邦雄はこういうシャンソンが好きだったのか、と改めて感じいる。
邦雄のシャンソン論は明快である。つまり、邦雄が評価するシャンソンとは、
「劇(ドラマ)の欠落したシャンソンは詰らない。歌詞をたどるだけで傑れた短編小説や三幕物の芝居を読み、かつ観るような感動を受けるのが、そもそもシャンソンの醍醐味である。」
邦雄の短歌が傑れた短編小説のごときであることを考えると、このシャンソン観はじつに頷けるのである。
邦雄のレコードの解説に関する毒舌も思わず、らしいな、と笑ってしまう。彼にしてみれば、それは単なる要らないお節介なのである。
また、「私は日本人の歌う邦訳シャンソンも亦例外なく悉く大嫌いである。」
邦雄さん、そうだったのですね。😅
ちなみに、邦雄は、エディット・ピアフの「愛への讃歌」のピアフ自身の詩をも三流以下だとこき下ろしている。😅
邦雄のシャンソン観は、この章の結びの、「プレヴェールとコスマのコンビがたとえ日本に生まれても所詮は宝の持ち腐り、その絶望的な風土に棲み、よその赤い花を鑑賞する陰鬱な楽しみも亦なかなかに捨てがたいものだ。」
ここまで言い切られるど、逆に爽快なものかな、とも思う。