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白い壁をぬけて

 なんだ。

ここはどこだ。

えーっと、昨日は自宅で…

何してたっけ。

周りを見渡す。鉄格子のはまった窓ガラス。
自分の下にはベッド。

昨日は、タブレットで音楽聴いてて、
いきなり画面の中に自分が出てきて。

そうだ。そのあとピンポーンと呼び鈴が鳴り、体格のいい男が三人入ってきた。
抱えられるように小さい救急車に乗せられると、そのまま行ったことの無い病院に連れられて行ったんだった。

(なんだ?なんで病院に連れられてきたんだ?僕は正常だぞ!)

拉致されたのかもしれない。宗教団体か何かか?
しかし何故。昨日はお父さんも居た。

「はーい、梶本さん、拘束させてもらいますよー。」

 突然厳重そうな扉が開くと、男の看護師が二人入ってきた。
僕の身体をふたりががりで掴む。

「やめろ!訴えるぞ!」

僕は叫んだが、腕から腰、足にいたるまで、
ベルトでベッドに拘束されていく。

「なんだここは!俺は普通だ!なんで拘束する!警察を呼ぶぞ!」

叫びもむなしく、ミノムシのように全身を拘束された僕は、
看護師が出て行った後もまだ大声を出していた。
そこからはまた記憶がない。
次に起きた時には、女の看護師が三人入ってきて、
僕の腕を掴むと、注射を始めたのだった。

「はーい、動かないでねー。」

動くなと言われても全身拘束で動きようがない。

「うーん、なかなか血管が見つからない。」

その看護師は異様に注射が下手で、そのあと
20分かけて僕の腕を穴だらけにした。

頭の中では、(毒を打たれて殺される)と震えていたが、
拘束されて心が折れていた。
何も言えずただ腕に増える穴を、拘束で動かない首で
眺めているだけだった。
注射の後は長々と眠っていたように思う。

僕の居た部屋には時計がなかったため時間の感覚がめちゃくちゃだったが、どうやら夕飯の時間になったらしく、ガンガンとドアが叩かれる。
すると段ボールで作った小さな机に乗せられた食事のトレイが運ばれてきた。

メニューは小さい焼き魚の切り身にほうれんそうのおひたし、
白米とみそ汁。
僕は注射でだいぶ朦朧としていたが、腹は減っていたので、
むさぼるように食べた。
時間も解らず、全く動けず、なんの刺激もないこの状況下。
とても地味な上に少ないこの食事が、なによりの至福に感じられた。

この質素な入院食の奇妙なうまさは、買い食いが出来るようになる退院直前まで続いた。

 僕の脳内はそのころ、宗教団体に拉致されて監禁されているという妄想の中にあった。
窓ガラスから見える白衣の看護師を見て、「あいつが幹部だ」だとか、
「ここは洗脳を行うための施設だ」とか考えていた。
この晩から服薬は始まっており、日に日に妄想を妄想だと気付くようになっていった。
ある程度正常になり拘束も解かれ、この保護室を出るのに
2週間もかかった。
時には暴れてドアを蹴飛ばしたり、妄想の中で独り言を叫んだりしたが、
記憶に強く残っているのは、あのせせこましい段ボール机と食事である。

妄想が落ち着いた僕は、それまでの部屋を出ると準保護室という、拘束もないし私物用の棚まであるだいぶ人間扱いを感じる部屋へと移動に
なった。

 準保護室では昼間のあいだは食堂やテレビ室に行けるようになる。
テレビ室の隅の方に、小さな本棚を見つけた瞬間。
それはまさに砂漠で湧き水に出会った思いだった。
小説や漫画が置いてあるのだ。
テレビ室では主に老人がバラエティや甲子園を見ているようだったが、
話すこともないので僕は漫画を自室に持ち込んで読んでいた。
しかし、入院前に一度オーバーヒートした脳は、
しぼんだスポンジのようになって、
漫画すら全く頭に入ってこないのだった。
僕は暇を持て余した。

(仕方ない、食堂に行くか。)

 食堂には大きなテーブルが並んでいて、それぞれ座っている人がいる。
僕は水道の隣にある銀のラックから新聞を取ると、空いた席に座る。
新聞を目で追いながら、たまに周りを盗み見すると、
食堂に居る大半は老人のようだった。

車いすに座って新聞を読む老人。看護師に何か話しかけている老人。
会話をする老婆。

よく見ると、自分の死角になった場所に、若そうな患者のグループが集まっている。女性もいるようだ。
なかなかワイワイと盛り上がっている。僕は敵意を感じた。
この真っ白な閉鎖病棟の中で、話す相手も居ず、
こうして新聞を繰って過ごしている自分には、
彼らの放つ青春めいた匂いが不快だった。
自分の悪口を言われているような気にもなって、落ち着かない。

新聞を元に戻すと、部屋で本を読むことにした。
その日の夕食も、質素な焼き魚だった。

 閉鎖病棟では食事の時間になると、大きな食事用ワゴンで料理を運んでくる。患者はずらりと一列に並んで、一人づつ食事を受け取る。
まるで炊き出しのような光景だ。

その列に並んだ時、僕は眼鏡をかけた可愛らしい女の子を見かけた。
この閉鎖病棟に居ると、普通並みの外見の人間が妙に輝いて見える。
上下パジャマなことをのぞけば、どう見てもまともそうな子だった。

(あんなまともそうな子が閉鎖病棟か…なんの病気だろうか。)
 
ふとそんな事を考えたのを覚えている。

そうして数日がたった。もうだいぶ正気に戻っていた。
人と話したくて仕方がなかった。
準保護室も出ることが出来て、一人部屋でただ寝転ぶだけの日々だった。
ある日の昼の食事の時だった。
いつものように若いグループがワイワイと話しながら食事をしていると、

「うるせえんだよ!!」

と汚らしいおじさんが突然キレた。
このおじさんは前から挙動不審で、人のことを睨んだりしていた人。
強烈なワキガで、10m圏内でもその鉛筆の芯のような臭いが漂ってきていた。
キレられた若いグループは最初呆然としていた。
だが背の高い男の子が

「なんだよ」

と言うと、おじさんはもう何も言えない様子で黙り込んだ。
入院患者は、どう見ても正気ではない人も居れば、
話してみて初めておかしいなと気付く人も居た。

 ある夜。消灯時間を過ぎても寝れない僕は、食堂で水を飲んでいた。
すると、色黒で小汚いおばさんがなぜか何枚かの紙を持って横に座ってきた。
ボロボロのスウェットパンツに色あせた花柄のシャツを着ている。

「私、シナリオを書いてるの」

 と言われたので、

「へえ、シナリオですか。いいですね。自分もちょっとしたバイトで書いたりします。」

 と答えた。するとおばさんはジリジリとにじり寄りながら

「読んでみてくれる?吉原の花魁の話なの」

と言うので、その紙を受け取り読んでみた。

正直、うまい文章ではなかった。

それに、意味不明な造語が散りばめられていて、
何を書きたいのか全く分からない文章だった。
それでも僕はなにか答えようと、

「この、花魁が好きな男にだけ難問を押し付けるってのは面白いですね」
 
と言うと、

「そうなの。そして二人は、完全な花になるの」
 
と言う。正直意味がわからず怖かった。
おばさんは近づいてくる。

「あなた、近づくとパッと明るく感じる。多分、強いのね…」

オーラか何かの話だと思うが、スピリチュアルな話は苦手なのでなおさら意味はわからなかった。
もうその場を離れたかったが、

「あなたはどんなシナリオを書くの?」

 と言われたので、

「スカッとする人情話とかを書いてました」

と答えると突然、

「いいわね!」

と言いながら僕の両手を思いきり握ろうとした。
反射的に気付いて親指で相手の手を弾いたから握られなかったが、
ものすごい寒気がした。

「じゃあもう寝るので。おやすみなさい」

と言って急いでその場を去った。
去り際に見たおばさんの眼は、焼かれた魚の眼のように白く濁り輝いていた。
僕は、そのおばさんとは二度と話さないと決めて、眠りについた。

 ある日の昼食後、僕はまともな人と会話したい思いに苛まれていた。
そうは言っても、この病棟の中でまともな人間を探すのは難しい。

そんなことを考えていると、このあいだおじさんにキレられていた年齢の若いグループの方からヒップホップが流れてきた。
スマホで流しているらしい。
僕は、思い切って音楽を流している背の高い男の子に話しかけてみた。

「その曲、かっこいいですね。」

するとその子は意外に礼儀正しい感じ。

「これタイで流行ってるんですよ」


二、三、曲について話をした。
久しぶりのまともな会話、それも音楽の話に、内心、
快哉を叫んでいた。
その場をさりげなく離れた僕が、喜びながら食堂の椅子に座っていると、
背が高く目線の合わない坊主頭のおじさんが話しかけてきた。

「君、体格いいね。腕相撲、する?」

いきなり腕相撲もないものだが、僕は面倒臭かったので

「大丈夫です。弱いんで」

と答えた。おじさんは

「僕ねえ、空手三段なんだけど、超人流っていういかに人間の不可能を可能にしてくかって流派で、とにかく強いんだよね。
悪いけど、絶対負けないと思うよ」

と続ける。正直、どうでもいい話だし、相手するのもダルかった。
無視して若いグループに話しかけることにした。

「こんにちは」

 と言うと、皆

「こんにちは」

 と返してくれる。

「自分、梶本っていいます」

「ボウです」
「佐々木です」
「前田です」
「足立です」

「この病棟、まともな人少なくて…さっき音楽の話出来て超嬉しかったです。」

「わかります」

 足立さんが答える。

「このコミュニティには比較的まともな人しか居ないので安心してください」

 それが、この若いグループに入った瞬間だった。

「それでぇ、もう、サティバでブリブリです。一日中。これ、友達の動画」

タイの大学を出たばかりというボウくんは、
向こうで高校から過ごしていたらしく、いつも大麻とフェスの話
をしていた。実家は相当な資産家らしい。

「これ北朝鮮を脱北したラッパーの曲で…」

「マジ?すごいね」
 
音楽も好きらしく色々な珍しい曲を聴かせてくれた。

「それでですね、早稲田の演劇部にはこんなルールがありまして…」
 
足立さんは、自殺未遂をしてビルの9階から落下した際に、足の骨を骨折。自分がどこ出身の誰かを名前含めてすべて記憶喪失したという、
映画の主人公のような人物だった。
見た目はさわやかな好青年という感じで博識、頭の回転も速い。
自分の来歴は解らないが大学や会社の記憶ははっきり残っているらしく、色々な話をしてくれた。

佐々木さんは地味だが気立てのいい女性で、親との関係が悪く退院がなかなか決まらないという話だった。

前田さんは服装からして「トー横系」な手に骨の浮き出た色白の女の子。
家出した挙句帰る場所がなくなりこの精神病院に居るとの事だった。
前田さんはたまにスマホに向かって大声で騒いでいた。
病気のせいかと思ったら、ライブ配信サイトで身の上話をして
投げ銭をもらって生活費にしているそうだった。

この四人と話せるようになったおかげで、僕はだいぶ過ごしやすくなったのだった。

ある日の夕食後、皆と雑談していた。
すると、前に話しかけられた空手おじさんが昔は綺麗だった風のおばさんと話し始めた。
おばさんはヨレヨレのパジャマを着ていた。

「俺はね、某宗教団体の影のNo,2でね…」

「まあすごい!じゃあお金、持ってるのよね?」

「ああ、保険金が三社から合わせて月に50万以上は入る」

おばさんが、おじさんの手を艶めかしく握りながら言う。

「じゃあその50万で私のカラダを買ってよ」

いきなりエロティックな空気に包まれた食堂にギョッとしながら、
もうそれ以上その話を聞くのを辞めた。
すると足立さんが、

「アレ、全部妄想ですよ。」

 と言う。

「私ね、彼の話、一回全部聞いたんですよ。
それでね、色んな矛盾点が見つかったんで指摘したら、
話してくれなくなっちゃって。」

「あの人の言ってる空手三段っていうのもね、通信空手だそうです。」

僕は、それを聞いて、ああして妄想に取り付かれた人間同士が
妄想の上で手を取り合い、退院した後の話まで妄想しているのかと思うと、
この病棟には神も仏も居ないんだな、
と改めて思わされたのだった。

この頃には僕の現実に対する認識も、
だいぶまともになっていたように思う。

 足立さんたち四人とも気軽に話せるようになってきて、
早く退院したいなと思うようになってきていた。
そして、入院して二か月半経った頃、母が面会に来てくれたのだった。
病棟の食堂には透明の壁とドアがあって、
患者に来客があると内側から見える。

看護師に呼ばれた僕はその壁の前に来ると、
母の姿を見つけた。
そのまま連れられて面会室に入った。

「元気だった?」
 
母は答える。

「なんとかね…真は元気だった?」

「うん。もうだいぶ元気になったよ。」

僕は、久しぶりに会えた肉親の姿に深い安心感を感じていた。

「携帯、持ってきてくれない?次来た時。」

僕は病棟の日常があまりにも暇なのでとても携帯が欲しかった。

「見つけれたら持ってくる。」

次、ソッコーで来てよ。」

「この病院うちから遠いから体力的にきつくてね…」

「そんなこと言わないでよ」
 
僕は、完全に甘え根性になっていた。母の年齢も考えずに。

 それから、母はたまに面会に来てくれるようになった。
携帯を手に入れた僕は、やっと音楽が聴ける喜びで
だいぶ興奮したのだった。

また、ある日のことだった。
トー横系の前田さんがまた独りで携帯に向かっておどけたり、ふざけたりし
た。
またライブ配信アプリをやっているらしい。

しかし、いつもと違うのはグループの他のメンバーと
大きく離れた場所でそれをやっていることだった。
僕は、いつものグループの三人に話しかけた。

「どうもー」

すると、足立さんが

「梶本さん。見てください。前田さんまた配信しています。」

「え、いつもやってません?」

「前田さんはね、僕から二万円借りて、それを翌日外出した時、ドン・キホーテで服買って全部使っちゃったんです。
それから、僕たちとは一言も話しません」

身元不明の足立さんが二万円持っていたことがまず驚きだったが、
それを貸して、さらに雲散霧消させられたとは驚きだった。

「それに、データ容量すぐ足りなくなるからって佐々木さんの携帯からTwitterにログインして退院したあと泊めてもらえる場所を探すTweetをしたりもしてたんです。
佐々木さんはただ貸しただけなのに」

「あの人、携帯会社も全部ブラックリスト入ってるんです。これまでも泊めてくれた人のお金つかいこんでそのままバックレたって前に笑いながら言ってましたよ」

昨日までの和やかさはもうそこには無かった。
グループの空気は前田さんへのまっくろな侮蔑感に満ちみちていた。
病棟のこの狭いコミュニティで不義理をすること、
その恐ろしい結果を見せつけられた気分だった。

それから一週間、前田さんお金を足立さんに返すこともなく、
誰とも話さずに退院していった。

僕の居た部屋は三人部屋だったのだが、他に人がいなく、
一人を満喫できていた。

しかし、退院まで残り一週間という時に、一日中寝たきりの引きこもりみたいな外見の男が入ってきた。

その男がやってきた夜、そいつは早速ベッドの上で便をして、
看護師たちの世話になっていた。
立ち上ってくるホカホカの馬糞のような便臭を吸い込むことに耐えられず、看護師に言って一人部屋に移してもらった。

しかし、その日から五日間、そいつは病室で便をした。
看護師たちは大慌てだった。

足立さんが言い放った

「あいつはクソですよ。クソだけにね。」

という言葉が今でも耳に残っている。

 足立さんは文学にも詳しく、インテリだった。
近代文学と現代文学の違いを体系的に説明された時は、彼の頭の良さに驚いた。
文学好きという事で気が合い、母に差し入れてもらった小説を貸したり、おすすめの作家を教えてもらったりした。
気付けば最後の一週間は足立さんとばかり話していたように思う。

「足立さん、ここ出たら飲みましょうよ」

「いいですね。好きな小説に出てくる新宿のジャズバーに行きたいです」

「これ、本の奥付の所に携帯番号書いたんで、かけてください」

「ありがとうございます。退院したらグループホームに入る予定なので、落ち着いたら連絡します。」

 退院が近づいてくると、そのころには飽きていた病院食も喜んで食べるよ
うになった。
毎晩寝る前は、この出口のない真っ白な牢獄を出る自分を想像した。

そして、ついに退院前日がやってきた。
僕は一日中ウキウキして、
(ここを出たらなんでも食べれる。ポテトチップス、ハンバーガー。)

夜には、一人イヤホンで音楽を聴きながら窓ガラスから見える街並みを眺めた。
踊ったり、ラップする真似をしたりした。爽快だった。

やっとこの出口のない真っ白な世界から出られると思った。

 そして、退院当日。母は朝から来てくれた。
僕は洗剤や本など持ち物をリュックに詰め込むと、
面会室を通って看護師たちに見送られながら外に出た。

(ついに。外だ。)
 
病院の外で母に持ってきてもらったタバコを吸う。

(うまい。)

 吸い終わるとバス停を目指し、母と歩く。

すると、前に病棟で見かけた時、可愛いなと思っていた眼鏡の女の子が歩いてきた。
あいかわらず上下パジャマだった。
外出許可で買い物に行っていたらしい。ドンキホーテの袋を持っている。

彼女は、なぜだろう、僕とすれ違う時頭を下げて挨拶してくれた。

彼女が正気でそれを行っているのか、それとも何かの観念に取り付かれているのか、僕にはもうわからなかった。

僕は正気を取り戻しこうしてあの閉鎖空間を出ている。
もう中にいる人間の事はわからない。そんな気がした。

だからなのか、僕はただ彼女を見つめるしか出来なかった。
僕はその瞬間に、スッと時空を移動するように入院患者と
退院した者との境界線をはっきりまたいだ気がした。

「…本日退院したので、まずは生存確認ということで。」

携帯を持っていない足立さんからの連絡は、公衆電話からだった。
僕の退院一週間後だった。

それから僕は、足立さんからの連絡をひたすら待った。
次はいつかかってくるんだろうと。

一体、彼はどうなったんだろう。
今も記憶喪失のままグループホームで暮らしているのか。
それとも、突然記憶が戻って元の世界に戻っていったのか。

どちらにしろ、病棟で打ち解けあった唯一の人だった彼が、
今も元気で生きている事を願う。


あの退院当日の真っ赤な太陽と、真っ白な天井。
あの真っ白な廊下。
視点の定まらない眼と歯車のかみ合わない会話たち。
一度壊れた僕の脳のフィルムには、
今も思い出すと胸がドロリとする、
苦い記憶が刻み込まれている。

足立さんからの連絡はそれ以降、ない。


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