気にしい
私は他人を気にしすぎているみたいだ。いや、気にする部分が細かすぎるというべきか。みんな同じなのだろうと思いながら生きてきたが、どうやらそうではないらしい。最近はそういう恥ずかしい部分も笑って話せるようになってきたから、すこし大人に近づけたかなと思ったり。年齢的にはもうすっかり大人も大人なのだけれど。
例えば、スーパーでピザポテトを買うときは異様に緊張する。おっとっとは少しだけ緊張する。最近よくある小さい袋のじゃがりこなんかは、買いやすいほうだ。この緊張は、レジの店員さんに「うわこいつめちゃくちゃお菓子食べるじゃん痩せる努力を知らねえのか」と思われそうだという被害妄想から生まれている。
もちろん、私がレジの店員さんだったらそんなことは思わない。過去にスーパーでレジ打ちのバイトをしたが、お客さまの顔はおろか買っていった商品なんてすぐに忘れる。レジを通しながら、どのように商品をテトリスしていくかが最重要課題なのだ。
しかし、自分でピザポテトを買うのには結構なやる気が必要だ。なんなら、お惣菜ですら買うのに緊張する。これを職場で話したら、「いやいや、気にしすぎですよ」と笑われた。わかっている、それでも考え方のクセは簡単には直せない。
ここからが恥ずかしいところなのだが、本屋で自分用に「小学一年生」を買うのは何も思わなかった。むしろ、少し誇らしい気持ちすらあったような気がする。大人だけれど子供の楽しさを忘れない自分…というようなものへの陶酔か。「私、変わってるんで」アピールをする有象無象のひとつじゃないか。キキキキキ。客観視すればするほど、頭を掻きむしって壁に打ち付けたい気持ちになってくる。実際に楽しかったし楽しめたのだが。
いや、こんな風に中途半端でいるからこそ「ダサい」んじゃあないか。どうせやるなら振り切ったほうがかっこいい。自分の好きなものや美意識に忠実であること、趣味であれ絵を描く人間としてその地盤は崩すべきではないのでは。くそ、こんな内情を曝け出すほうがコンテンツとしてかっこ悪い。ヴィジュアル系は吉野家で牛丼を食べないし鼻毛は生えないのだ。
内省に内省を重ねたら、一体いま誰の視点で自分を見ているのか分からなくなってきた。誰から見ても花丸をもらえる人間なんていない。多様性のある人間たちの中で生きるには、「客観視」という言葉は自分の行動を狭める要因のひとつかもしれない。
怒涛の自己嫌悪が落ち着いてきた。他人に迷惑をかけず謙虚であれば、自由に生きてよいのだから、今日はミスドをぎょうさん買って帰ろう。実際に買うときは、まごつかずに注文できるか、店員さんに聞こえる声で喋れるか、ポイントカードを出すのにモタモタしないか、たくさんの不安を抱えて緊張しているのだろうが。