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人生における「怪物」の回顧録

先日、『いつか怪物になるわたしへ』という、おかき大明神様のNoteを拝見させていただいた。

社会で会った怪物たち、そして自分の中に潜む怪物の萌芽についてここまで緻密に描写し、赤裸々に書いた文章を私は初めて見た。

そのNoteを見て、まさに触発されたわけだが、自分の中に潜む「怪物」と社会で出会った「怪物」について、自分の行いを省みる、もしくは現況の整理のために書こうと思った次第である。駄文、乱文かもしれないが、お付き合いいただきたい。


最初に出会った「怪物」は身内だった

私の「怪物」録は保育園年中、4-5歳の頃までさかのぼる。両親は共働きの会社員で、記憶の薄れつつある幼少期(3歳)ぐらいまでは、良き両親の記憶が蘇ってきてくる。当時住んでいた家の裏手にある公園で、父親と一緒にボール遊びをしたことは今でも覚えている。


良き両親の記憶は、自分が4歳に差し掛かろうというころに醜く変質してしまった。 父親が「怪物」と化してしまったからである。
この頃から父親はアルコールに溺れるようになり、母親に些細な理由をつけて怒りだすようになった。今思い返せば典型的なアルコール依存症とモラハラの類だったのだろう。


ある日、私と母親が出かけて父親は留守番ということがあったが、帰りがちょっと遅くなるだけで怒りだした。執拗に電話をかけ始め、帰った時に父親は母親に烈火のごとく怒り出した。


唯一の子供を出迎えた私の「優しき父親」としての一面を帰宅時には見せてくれたが、その後に父親の「怪物」の一面をまざまざと見せ付けられた。  


別室で喧嘩する両親。母親の叫び声が聞こえてきたので見に行ったら、そこには母親をレイプまがいのことをする父親がいた。人ならざる目をして、母親を貪る野獣のような父親が。子供心ながらショックだったのか、殆どの幼少期の記憶はその出来事に上書きされて思い出せない。今思い返せば、父親という身内が最初に出会った「怪物」であった。


その後の「怪物」もとい父親はそのレイプまがいをしたあとに、誰が呼んだか分からぬ警察に羽交い締めにされて連れて行かれたあと、家で見ることはその後無かった。

その後離婚して、私の親権争いを長らく家庭裁判所でやっていたらしい。まかり間違って親権が「怪物」のもとに行っていたら、今の自分はいなかっただろう。身内にアル中がいた方ならお分かりだろうが、アル中の予後は大抵よろしくない。離婚して1年ちょっとで亡くなっていたのだから。

当時住んでいた家の玄関先で、母親に泣き崩れられながら父親の死を告げられたことは今でも鮮明に覚えている。当時保育園年長の私が人の死について具体的に想像できるわけがなかったが、「ああ、パパとは二度と会えないんだな」ということは何故か認識できた。


それ以来、父親は土の下の存在となり、大学生ぐらいまでは母親と定期的に墓参していたが、社会人となった今では行く気力さえなく何もしないでいる(これは自分の面倒臭がりなせいでもある)。


父親が人間から「怪物」となった理由は、今でも分からない。社会人になった今、あれこれ思索を巡らせたが、「きっと会社とかで何かがあったんだろうな」としか浅く考えられない。もっと複合的な要因もあるだろうが、もう真相は永遠に分からない。タイムスリップして、当時の父親と会ったら背景を知れるだろうか。それすらも分からない。


自分の「怪物」と出会った学生時代

波風立ちまくりな幼少期が過ぎ、打って変わって比較的安寧な日々が続いていたので、至って普通の日々を過ごしていた。小中学生の頃は何だかんだ友達と上手くやれていたような気がしていて、それなりに楽しく過ごせていたような気がしていたが、「気がしていただけ」なのを見せつけられたのは、高校に入学したときであった。


別に中学受験をしたわけではないので、小学生の頃の人間関係はそのまま受け継がれたし、小学生の頃からいじられキャラみたいな存在だったので中学の頃は最早他人のイジりに全力で乗っかるような、受動的なコミュニケーションばかりしていた。そんな感じだったので、人間関係がシャッフルされる高校や大学で案の定ツケが来た。ただでさえ知らない人が得意ではないし、それから逃げ続けてきた私が四苦八苦するのは最早自明であった。


結果的には何だかんだで高校・大学で友人を作ることはできたのだが、それまでに自分の
「怪物」の影を幾度となく見てきた。今思えば、自分が話しかけられないから相手が話しかけてきてほしいという傲慢さが自分の「怪物」そのものだった。受動的なコミュニケーションばかりしてその立場に甘んじていたツケが産み出した「怪物」だったのである。


自分の「怪物」と初めて出会ったのは高校生の頃だが、大学を卒業するまでについにその「怪物」を飼いならすどころか詳細な姿を捉えることはできなかった。未熟さ故にそれを認めることができなかったことからの結果だった。『山月記』で喩えるなら、虎となった李徴そのものと成り果てていた。それで疎遠になったり、些細な行き違いを起こした人たちは少なくない。


この「怪物」とは私が虎から人に戻るべく今でも戦ってはいるが、社会人になってどうにも飼いならせるどころか、噛みつかれまくって傷をあちこちに作っている始末である。その「怪物」と戦って負傷を繰り返す顛末は、この後につらつらと書いている。


社会人になって出会った「怪物」


「傲慢」という「怪物」を飼いならせなかった私だが、否応にもなく年は取るもので、金を稼いでいって生きるためにも社会人にはなった。自分の生活というムチで、何とか自分の「怠惰」という「怪物」は飼いならせてはいる。

社会人になって、学生の頃とは出会う人たちも年齢層もガラッと変わる。学生の頃は無条件で社会人の人がすごい存在に見えていたが、そんな幻想は社会人2年目の頃に完璧に打ち砕かれた。研修が終わり、本配属先に転勤になったが、そこでその先輩もとい「怪物」と出会ったからである。


その先輩はとにかく自分を大きく見せる「怪物」であった。出会った頃の私は当初、その先輩のことを頼れるお兄さん格の先輩だと思っていた。OJTの厳しい人にしごかれていたこともあり、一時期私は懐いていたような感じだった。


その先輩に「怪物」を見出すようになったのは、OJTの人が転勤でいなくなり、その先輩としょっちゅう仕事でパートナーを組むようになってからだった。


転勤当初の配属部署はお世辞にも空気が良いと言えるような場所ではなく、派閥争いが公然と行われているような始末だった。そんな感じだったので、非主流派にいた先輩はしょっちゅう目の敵にされて怒られていた……ように私には見えていた。


実際はもっと単純なもので、派閥争い関係なく先輩のミスが多いというか仕事が雑という理由からだった。怒られた度に私に愚痴や「上司は俺のこと分かってないんだ!」という持論を言うのは最早テンプレと化していた。

先輩と仕事をする前は「そっか……大変なんですね……」と思っていたが、仕事を一緒にするようになってからは「こんな雑な仕事してればそりゃ言われるに決まってるわ」と思うようになった。でも先輩は相変わらず行動を変えず、愚痴と誇張を繰り返していた。


認識の変化と同時に、自分の認知の歪みでメッキがかけられていた先輩の「誇張」という「怪物」の姿が見えるようになった。「誇張」という「怪物」に食われて戻れなくなった先輩は、みんなにもそうやって接していたので最終的には干されるような形で部署を後にした。


先輩は確かに仕事は雑だったし、「誇張」という「怪物」に食われていた。しかしお客さんに対する粘り強い姿勢と適度な遊び人体質というプラス面が確かにあったので、上を見る力と「怪物」に食われなかった先輩というifを今でもたまに考える。


そのifと同時に考えるのはその先輩が食われた「誇張」に食われた自分の未来の姿だった。その先輩はメンタルがそこまで強くなさそうな雰囲気が漏れ出ており、時折見せる自信の無さが、私の弱さとまさに一致していたので、未来の私を見いださずにはいられなかった。欠けた自信を埋めるには「誇張」が手っ取り早いし、自分のダメな現実を見なくて済む。ただ、それは「怪物」に一直線のルートなのである。先輩はそれに取り憑かれてしまった。

あの先輩と同じように、いつか「誇張」という「怪物」に取り憑かれるときが来るのだろうか。最近ずっと考えていることはそのことである。できればそんなつまらない「怪物」に食われずに人生を終えられば良いのだが、と切実に考えている。

「婚活」を通じて見た自分の「怪物」

話を私の「怪物」の話に戻す。私は結婚したいのもあるが、それ以前に私自身が異性とちゃんとやっていけるのかを知りたいがためにいわゆる婚活をやっている。

アプリを使ってメッセージをやりとりしつつ、親密になったら実際に顔合わせ……というテンプレ的な流れでやってはいるし、実際にお会いした人も何名かいる(お会いしていただいた方ありがとうございます)。


その婚活だが、人との出会いも得られたがそれ以上に自分の「新たなる怪物」と出会ってしまって疲弊してしまっているのが現状である。先述した通り自分が話しかけられないから相手が話しかけてきてほしいという傲慢さが自分の「怪物」という話をしたが、新たに「臆病」という「怪物」とも否応なく戦う羽目になることになって、どうにもならなくなってきている。


実を言うと、「臆病」という「怪物」は前々からぼんやりと、社会人時代から存在を認識していた。何とか会社ではビジネスモードに入ることで飼いならせていたのか、実態を見なくて済んでいたところはある。しかし、婚活という自分の意思を積極的に出さないと関係すら進展しない場に入って、ようやく実態として見えてきたというのが正直なところか。


押さないとどうにもならない場面で日和って当たり障りのないことしか言えない、探りを入れたくても入れられない、悪い意味で良い子ちゃんにしかなれない。紛れもなく「臆病」という怪物に取り憑かれた私がいた。「臆病」の怪物の強さは凄まじく、そんなことを考えるたびに思考が一発でショートしてしまうし、結局口から出る言葉は自分でもよく分からないものしか出てこなくなる。

相手をちゃんと見て、向き合わないといけないのに結局自分の「怪物」と戦うことになって、自分しか見えなくなってしまう。本末転倒ぶりにお相手の方にあまりにも申し訳なくなってしまう。かと言って自分の「怪物」を一時的にでも飼いならせないと一向に進展しないジレンマにも悩まされている。会って今日こそ「怪物」を飼いならして、相手のことをちゃんと見ようとは意気込むものの、結局「怪物」に倒されてしまって自己嫌悪に陥る。とかく自傷行為のような感じになってしまっているのが自分の婚活の現状である。


暫くはまだ私の「怪物」を飼いならせるようにどうにか足掻いていくつもりだが、お相手ができるのか、「怪物」に不可逆的に倒されて私が「怪物」の権化から戻れなくなってしまうのが先か、どっちだろうか。答えは見つからない。


おわりに

中高生のころは「怪物」が見えたとしても、時と成熟が何とかしてくれて、消え去っていくとは思ってはいた。しかし、大人になって知ったのは「怪物」は自分の中にも、そして周りにもいて消え去るどころか新たに出くわしてしまうということだった。


そんな中で私は、いろいろな「怪物」に飲み込まれそうになりながらも、何とか踏み留まれている(と思っているのは自分だけで、他人から見ればもう「怪物」に成り果てているのかもしれない)。時にはチクリと指摘してくれる友人や、諭したり叱ったりして戻してくれる会社の人がいてどうにか人間として保ててはいる。そういう面では、公私両面で付き合いがある方には頭が下がるばかりである。

しかし、年を重ねると耳の痛いことを言ってくれる人はいなくなる傾向にある。少なくとも世間一般では。そうなったら後は自分で「怪物」を飼いならすほかないのだが、現状を認められなかったり、間違った選択をしたりしてどこかに棲む「怪物」にいとも容易く食われて、人間から「怪物」になってしまうだろう。25年という短い歳月しかまだ生きてはいないが、私自身にその気配を感じたり、「怪物」となってしまった人をそれなりに見てきてしまったが故に思ったことである。

私の中にいる「怪物」はとても醜悪かつ強大な存在で、向き合う度に傷口に塩を自ら塗り込むような感覚に陥る。『山月記』で喩えるならば、虎になりかけの姿で必死に人に戻らんと足掻いているような状態である。他人から見れば滑稽かもしれないし、「怪物」へと変化する病状を遅らせているだけなのかもしれない。自分で私自身の「怪物」を飼いならせても、もしかしたら外に棲むまだ見ぬ「怪物」に食われてしまうのかもしれない。そのときに「そいつは「怪物」だ、無闇に近づいてはいけない。」と言ってくれる存在が自他問わずいるだろうか。人はいつしか「怪物」になってしまう可能性がある。この文章を10年後の私が見て、「怪物」になっているかどうかを答え合わせできる状態であることを望みたい。自分の「怪物」に食われ完全に虎となった『山月記』の李徴の二の轍を踏んでいないように。


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