槇原敬之の『太陽』から考える、自分に嘘をつくこと

あなたは槇原敬之のことを知っているか。名前だけは聞いたことがある人や、ヒット曲の『どんなときも。』や『もう恋なんてしない』etc...を聴いたことがある人も多いだろう。人の心模様を、透き通る歌声で歌い上げる正統派シンガーソングライターだ。かくいう私も彼のファンである。


恋模様や人間模様も書く槇原敬之だが、人の心の揺れ動きや哲学的な問いかけをテーマにした曲も実は多い。これから紹介する、『太陽』は、哲学的な問いかけの分野の曲である(と私は思っている)。


(こちらが槇原敬之の『太陽』である。是非聴いてほしい)


哲学的な命題が散りばめられたこの曲についていろいろ語りたいことはある。しかし今回は、2番大サビ前のある一節について考えさせられることが多かったので、ここをメインに取り上げることにする。


”今まで一度も自分に嘘をついたことは無いか? 違うのに正しいとやり過ごしたことは無かったか?"


私は「今まで自分に嘘をついたことは無いか?」と問いかけられたら、迷わずノー、と答えるだろう。だって人間の社会は「タテマエ」の世界。「タテマエ」は広義の「他人も自分も欺く嘘」だと思っている。あらゆる場面で自分の本音に嘘をついて、生き抜くことが必要とされるし、少なくとも人間の社会はそうできている。時には殴り掛かりたいようなことを言ってくる相手にだって、唇を噛み、こぶしを握り締めながらも「タテマエ」、もとい嘘をつくようなことだって強いられる場面も時にはある。この文章を読んでいる読者の皆様ほぼ全てが、ノーと答えるだろう。


でも、「タテマエ」を必ずしも必要としないシチュエーションで、「今まで自分に嘘をついたことは無いか?」と問いかけられたら、言いよどむ人も少なからず出てくるのではないのだろうか。気の置けない友人関係、成熟した恋人関係、親子関係……そういう、「タテマエ」を必ず必要としない場面においても本音を言える、ぶつけあえる人は一定数いる。「一度」はあっても、「無数に」はない、「部分的にイエス」が言える人たちが。


私はこの場面においても相変わらず「ノー」である。自分に嘘をつき続けることに慣れてしまって、自分の意見を言うことを酷く恐れる臆病者と化してしまったからだ。あらゆる関係においても、私は「タテマエ」か「逃げる言葉」しか思いつけない(一部の例外はあるにしても)。


悪い意味で良い子ちゃんと化してしまった私は、特に周りの人に盾突くような真似をしてこなかった。中高の頃に親と喧嘩した話をする周りの人たちのことを、馬鹿らしいと思いつつも、心のどこかで羨ましいと思っていた。そう思いながらも、大抵の人が済ます通過儀礼を何となく避けていった結果、アラサーと言われる年齢に差し掛かった時期になっても本音を中々言えず、いろいろな場面でもがくことが増えてきた。


「タテマエ」もとい嘘をつくべきではない場面で私はだいたい自分に嘘をついて、取り繕うマネしかしない。私自身はその時「何とか切り抜けられた」とは思ってはいたが結局他人を欺いていることには変わりなく、いろいろなものをフイにしてきた。本音を言うことで傷つくことを恐れて、結果的になあなあにしてた。後でボディーブローのように傷つきがどこかで来ると頭の片隅では分かっていながら。


『太陽』では、この後に「違うのに正しいとやり過ごしたことは無かったか?」と問いかけられる。「今まで自分に嘘をついたことは無いか?」と問われてノーと言った人間がこの質問も続けてノーと言える訳がない。頭では違うと分かっていても、思考回路が固定されてしまっている。


とは言っても、このままで良いわけがあるわけがない。この先の年齢と社会的な「身分」(適切ではないと思うが、あえてこう表現する)を考えたら、自己主張をせずにこの先の社会を生き抜くことができないのもまた真実である。狡猾でも実直に、そんな相反する視点がその先求められている。

”確かに一度も迷わずにいられたわけじゃないんだ 疑うことで本当のことが確かめられる時がある 例えばあの時の雨雲が僕らにかからなければ 前より強いこの気持ちを感じられていただろうか”


ここで2番冒頭の歌詞を引用する。今まで自身は迷い続けた結果「タテマエ」に溺れ沈んでいたが、否応にでも現状を疑い、浮き上がることを求められているし、そうしなければならないことを自覚し始めている。


自分の弱気という雨雲が降らせた雨によって錆び付いた思考のスイッチを切り替えて、人並みに本音を言える時が私にもやってくるのだろうか。強い気持ちが、雨雲を晴らして、私に太陽が照り付ける時を切り拓くしかない。今はただ、雨に打たれつつもあがいていくだけだ。








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