違う人が分かり合えるようになること
果たして違う意見を持ち合わせる人々は分かり合える日が来るのか。
最近めっきり考えているテーマだ。
正しさや答えがない世界だからこそ、争い合うそれぞれの真実と価値観。
人の数だけのこれがあると思っていて、興味あるなし含め世界がまとまらないのが当然のことのように、僕らは常にこれらと向き合っている。これまでの無関心が招いた結果とも言えるが、それぞれの今を選んでいる以上、普遍的に当てはまる人類史の共通の課題なのかもしれない。
それでもやっぱり大事なのは、そもそも「自分はどうなんだ」という立ち返りなんじゃないだろうか。
僕が自来也様が大好きな理由
このテーマを考えているときにまず出てくるのがNARUTOの師匠、自来也様だ。彼は不器用ながら適当にも見える形で徹底して「諦めない」大切さを次世代に教えてきた。
未だ戦争や差別がなくならないのも、これまでの歴史から学ぶ人が増えればそのうち分かり合える時が来るんじゃないかと。これらは決して大きなことだけではなく、身の回りの人間関係でも大きく言えることだと思う。
愛無き所に人は集まらない。そして持続可能にはならない。
己の正義や正しさがある以上、人は争いからは逃れられなくなり、攻撃をするかいなかったものとして関係を断ち、結局わかり合うことなく時は過ぎていく。これでは解決はもとより、何の学びにもならない。
人が何かに怒りや驚きで「反応」するということは、それらが気になっている証拠で、見過ごせない何かがあるからじゃないだろうか。そしてそれらは自分の中の矛盾とぶつかる。だから本当は自分の問題なのに、逃避の一環として相手にぶつけてしまう人も少なくない。
問題はここなのだ。
人類はわかり合うことができるのか
先日京都で恒例のディスカッションイベントを主催した。
ここでの目的は「いろんな人の考えや経験を聴き、知らないことを知って世界を広げること」「ここでの出会いが広がり深まること」。
最近めっきり減ったこの手の「新しいヒトやコトに出会える場」を維持しようと、毎回わくわく頭を悩ませては場の提供を行っているが、誰でも受け入れているがゆえに違う意見のを持つからこそ交差する場面も出てくる。
これもまた日本の常識と自分の常識との戦いなのかもしれない。
答えを出す場ではないからこそ、お国柄的に苦手な話す姿勢であるアウトプットよりも、聴く姿勢であることのインプットの「受け入れ」が大事になってくる。ルールは一応設けてはいるが、これ通りにいかなくなった時に、どうやってその人たちに伝えるかもまた一つの課題である。
特に政治的思想や世の中の現状のデータなどは何を見て、どういう人間に囲まれているかで大きくその溝が開いていく。数も歴史も、一致する答えや現実などがはないからだ。だからこそ大事なのは「こういう現状の一面があること」や、「こういう考えの人がいるということを知ること」なんだと思う。しゃべり場は時に一言も話せなかったとしても、これがあるから学びを得られる人ありきの空間。今まで自分の意見や些細な疑問を誰かに投げかけてこなかった人にとってはアウトプットの場にもなるだろう。
だからこそ自分が正しいと思って人の話を聴かなくなった瞬間に、こういう場はもろく崩れてしまう。意思がブレているとかではなく、人間関係の中での信頼のようなものを欠いては何も伝わらないということだ。
これらは形は違えど戦争・差別とも繋がる大事な視点だと思う。果たしてホロコーストやウクライナ紛争が対岸の火事で終わっているのかと言ったらそれどころではない現実がこの国にははびこっている。
何の対策もされていない景気、食料をはじめ、世界から送れる外交、医療、エネルギー、国防に対する過剰な不安、未だ消えぬ自殺や差別、いじめなどもろもろ。
何も考えなかったり、そういう場を捨ててしまえば簡単。ただそれでは光どころかその人が持てるはずの選択肢すら見当たらなくなる。
だからこそ今、それでも自来也様のようにこれからの人や場を諦めねぇ姿勢が大事だと思っている。
自分への文句を他人にぶつける人へ
人が争う根本の結局はこれなのだ。
先日伺わせていただいた尊敬するスピーカーの方も言っていた「人への不満は自分への不満。まずはそれを自分側から解消していくことが大事ではないでしょうか」。これは何かをやろうとしているすべての人間関係に言える基本なのかもしれない。
他者との比較から悩みが生まれ、これからの不安から自分を守るために周りにあたってしまう自分が見えなくなる盲目な狭い世界。これらは中途半端に何かを知ってしまうからこそ出来る副作用みたいなもんだろう。その知識のお陰で考えまで固くなってしまう。
周りに文句や不満がある人は、不思議なまでに問題は自分自身の中にあることがほとんどと言っていいだろう。
けど実際は気付いていないか見て見ぬふりをするから誰かにぶつけてしまう。先述した「反応する」とはつまりそういうことで、自分の中の出来る出来ないというものが相手に対しての強要を無意識にしてしまっているのだ。自分は出来ているのに周りは出来てない。もしくは何で自分の周りは他の出来ているところみたいに出来ないんだろうと。誰も棚に上げても問題はすり替わらない。
むしろ他人に押し付けてしまうことは、自分がどれほどできているのかという恐ろしいほどの問いやタスクが跳ね返ってくるというのに。そのまま表裏合わせてのバッドスパイラルに入り込んでしまってこじれていき、結局相手を見ようとせずに互いに誤解したままになる。実に勿体ないもつれ。
これらは互いにリスペクトと愛を持ってさえすれば深めていける絆なのに亀裂と破壊しか生まない誰得状態な不毛戦。
だからこそ自分を疑わずに素直に受け止めることが自分と周りへの愛に繋がる。これがなければ金や立場だけでは人は動かないどころか諸々離れて行ってしまう。本来であれば大事なパートナーになれるべき相手だったとしても。
これらは発信源である自分や人との関係を築く上で最も大事なところなのかもしれない。だからこそそのブロックや偏見、執着を壊したり捨てることが問われているのだろう。
逆にそんな自分からの愛で満たされてる人には人が集まり離れたりしない。それだけで気持ちよくなれるなら、こんな世界でも見事な連鎖を起こせる。どうせだったらそんな人に、共になっていきたいと心底強く想う。
かっこいい大人の共通点は愛
東京にいる妹分から教えてもらった名曲「かかってこいよ」ではこんな言葉がある。「敵は全部自分」「汚い空気を吸ったから人より鼻がよく利くんだ。人間らしい匂いのとこは決まって花が咲いてるんだ」。
だからといってこれは自分を責めろということではもちろんない。
責めてくる自分もいるとしたら、そんな自分を抱きしめてあげたらいい。
そんなことを大切な友人でもあるヒーラーさんからも教わった。
人はだれしも幼いころに着いたブロックにより、今でもその時のことがぬぐえずに反応してしまう。これを解除するにはその時の自分までさかのぼって、もう自分が守るから大丈夫だって安心させてあげること。恥ずかしがらずに「ごめんね、愛してるよ」って。
愛ある大人になるために、まずは自分を愛し、人の愛をたくさん感じ取ってほしい。今日もこれを最後まで読んでくれた人に、愛とリスペクトを込めて。