親の死に方は選べない。でも死に場所は選んであげたい。
どーもカイゾウ(@kaizo777)です。
今回は「親の死に方は選べないけど死に場所は選んであげたい」をテーマに書いてみたいと思います。
私の父親の話です。
度々記事に書いていますが、父親は現在有料老人ホームに入所しています。
精神科病院から退院し今となれば入所当初は奇跡的に調子の良い時期が数カ月続きましたが、その後は日を追うごとにレベル低下しています。
度々起こすてんかん発作が主な原因だと思いますが、アルコール依存による脳へのダメージが大きかったこともあり発作の度に状態が悪化していきます。
調子に波はあるようですが、入所当初のまともな状態ではない今も施設職員の方々は父親に寄り添い細やかなケアをしてくださっています。
飲食の飲み込みが上手く出来ない
今年3月末に父親に会いに行った時もそうだったのですが、飲み込む機能はあるはずなのに飲み込み方を忘れてしまったように喉に飲食物をいつまでもため込む様子がありました。
しかもその状態で話をし始めたり…。
そんな状態なので誤嚥を起こしているのか、突発的な熱が出ては抗生物質を飲んで改善しての繰り返し。
もちろん施設で食形態を様々工夫してくださっていますが、ペーストにしようがトロミを付けようが「飲み込む」という動作を忘れている状態ではまともに食べることは難しいです。
それでも本人は食べたがる。
このような状況では一般的な施設は絶対に経口摂取は対応してくれないと思います。
父親が入所している施設では本人・家族の意向を優先し、施設の体制云々で「食べさせない」ということはしません。
家族としては、その状況で口から食べて肺炎を起こして命が短くなろうが本人が口から食べたいのであれば食べて欲しい。そう思っています。
ただ、施設側に迷惑を掛けることは目に見えているので無理は言えない。そう思う気持ちもあります。
でも、父親の入所している施設では「どうしたいですか?」と必ず確認してくれて「本音を言えば…」と伝えればリスクを説明頂いた上で様々な方法で「経口摂取」を試みてくれます。
きっと負担も時間もたくさん掛かっていることと思います…。
でも家族としては本人の気持ちに応えてくださることが本当にありがたいです。
スイッチが入ったり切れたり
訳の分からないことを言いながら活動的になったかと思えば、スイッチを切ったように突然寝始める。
それが今の父親です。
ふらふらしながらも施設内を歩き回り、意味もなく水道で水を出してみたり、ベッドで寝たと思ったらいつの間にか床で寝てみたり。
こんな状態でも施設の方々は臨機応変に対応してくださっています。
一般的にはこの状態だったら「転倒が心配なので精神科で落ち着くような薬を処方してもらってください」と言われます。
それはあくまで施設側の都合。もちろんそれが悪いことと私は思っていません。
施設のレベルであったり、職員体制によってはその状態の利用者をみることが出来ないことは理解が出来ます。
私の父親も精神科受診は継続しているので、随時主治医と相談しながら服薬調整をして頂いています。
今年に入り服薬を増やして頂きましたが、それは「本人が落ち着かずに辛そうだから」という報告を頂いて増やして頂きました。
これもあくまで本人目線。
本人の日頃の様子を見ていて、常に不安そうに行動していると感じ取った施設の方が提案くださったので家族としても「それであれば是非」とお願いしました。
もちろん前提に「施設では動いてもらっても上手く対応出来るんですけど、ご本人としてはもう少し落ち着いた方が楽だと思います」という言葉があったからこそ。
状態が悪い時間が多くなってきた
1日を通して調子の良い時間帯もあったのですが、最近は調子が悪い時間帯の割合が多くなってます。
そして、ずっと続いていた飲み込みの悪さも悪化し飲食物の大半が飲み込めない状態になりました。
ここに至るまでもずっと「入院」についての意思確認を頂いていました。
ただ、父親の今の状態では確実に「入院したら拘束される」のは間違いないので、それは避けたかった。
拘束されてADLが落ちれば飲み込みが多少改善したとしても、本人に取っては苦しい生活になるかもしれません。
何より「そのまま退院できない」というケースが家族としてはもっとも不安でした。
父親にとって家族以上に一生懸命お世話をしてくれる施設こそが最高の「終の棲家」だと私は思っています。
仮に自宅にいたとしたら私や家族が施設の方々ほど父親のことを親身に真剣に考えることはありません。少なくとも私は父親にとってそこまでの感情を持ち合わせていません。
きっと私も今ほど父親のことを考えることもなかったでしょう。
一般的な施設に入所させていたら施設側からの「至極まっとうな」言い分に腹が立ち早々に精神科病院への入院を再手続したでしょう。
でも、今こうして父親の「死に場所を考えたい」と思えるのは、父親に対して懸命に最善を尽くそうと対応してくださる施設があるからこそだと思っています。
今の父親は自分がどこにいるのかも、誰といるのかも分からないかもしれません。一時的に家族を思い出すことがあるのかも分かりません。
それでも「父親のことを考え行動してくれる」人達が傍にいる環境こそが最善の環境だと私は思います。
先日から父親は一時的に入院し肺炎治療をしています。
入院先の主治医の先生もとても親身に電話で家族の意向を聞き取ってくださり、治療が終わり次第可能な限り最速で施設へ戻す流れにしてくれるとのことでした。
父親がどういう死に方をするのかは分かりません。
なんだかんだと長く生きるかもしれませんし、今のまま飲食がまともに出来ない状態が続けばそんなに長くはないかもしれない。
命がいつ尽きるのかは誰にも分かりませんが「最期をどこで迎えるか」は家族が選択することが出来ると私は思っています。
そう思えるのも私に幾分かの余裕があるからこそ。
その余裕を作り出してくれているのは父親が入所している施設の方々です。
日々感謝をしつつ、これからも父親が最期まで穏やかに過ごせるように連携を取りながら考えていければと思います。
今日も最後まで読んで頂いてありがとうございました。