初めての海外旅行はアラスカとハワイでした。
私の就職した殿村株式会社は上本町にあり、スポーツの問屋でした。
就職は1969年で、この年度から初めて大学卒業生が、この殿村株式会社に
入りました。
同期は10人程度だったと思います。
私は近畿大学農学部農学科農業土木専攻でした。
中学生の頃から山登りに夢中になり、休日やお盆、正月も山で過ごしていました。
山登りとスキー大好き人間でした。
成績は中くらいです。
勉強は得意ではありませんでした。
野山を駆け巡るのが大好きでした。
山登りは結構ハードなスポーツです。
40kgもあるようなザックを担いで冬山に登るのです。
当時は無限の体力がある様に思っていました。
好きなスポーツ関連の会社に就職して、期待や不安の中、
喜んで仕事を覚えていきました。
始めは出荷、荷造り作業です。
商品をある程度覚えると、地方のスポーツ店に営業して回ります。
初めての私の担当は山陽筋で、岡山から広島、山口で、下関まで
行きました。
次の配置転換で三重、岐阜を回りました。
営業は慣れませんでしたが、人と話をして、情報の交換をして、
今月のお勧めの商品を買ってもらう、あるいは御用聞きでした。
更に次の配置転換で商品企画の仕事に携わり、得意の登山、スキーの経験を生かして、こんな商品が良いとか、改良点はとか、メーカーの人と商品の
議論をすることが多くなりました。
山登りやスキーで得た経験と会社での営業、メーカーさんとの情報交換、
これらの体験が商品企画の面白さに気づかされました。
。
1970年は千里での日本万国博覧会、時代は沸きあがっている雰囲気で、
給料もあっと驚くほど、アップしていきました。
1971年には札幌プレオリンピックがあり、
大阪の商品企画から1人視察のメンバーが行くことになっていました。
そのメンバー専攻の基準は知らなかったので、私は先輩が行くものと思っていました。
そのころ、経営計画の資料作成のタイミングで担当商品の年間仕入予想を立てていました。
当時は便利な電卓は無くて、機械式の計算機で資料を作成しました。
残業をして翌日に計画資料を提出をすると、
課長が、「よし、土橋に行ってもらおう!」と大声で叫ばれて、
私の札幌プレオリンピックの出張が決まりました。
飛行機に乗るのは初めてでした。
出張を命じられてから、ふと、北海道まで行くのに、2~3日で戻ってきてはもったいないと思い、
現地での有給休暇を希望しました。
多分、前例はなかったとは思いますが、言ってみるものです。
上司から現地での有給休暇取得のOKがでました。
そこで、山仲間の友人に連絡して、札幌に行かないか?と誘いを掛けました。
私は半分仕事だが、後半は有給を取ったので、札幌でスキーをしようと。
突然の誘いでしたが、友人も行く事となり、
私の仕事が終わってから札幌駅で落ち合う事を決めました。
更に札幌に友人に連絡して3人で札幌手稲オリンピアでのスキーを楽しみました。
ハハハ、仕事の中に遊びアリですね。
かなり、自由にさせてもらえました。
全くの余談になりますが、
当時は電卓の最普及価格帯は4万円台まで下がってましたが、
ひと月の給料にひってきするほどでしたので、普及はしていませんでした。
そんな中でマーケットに一大旋風を巻き起こしたのが、
1972(昭和47)年の『カシオミニ』誕生でした。
サイズ小さく、その頃主流であった電卓の4分の1以下。
桁数表示も6桁でしたが、さらに価格は3分の1以下の1万2800円を実現し、
ライバルのメーカー陣に衝撃を与えた。
『カシオミニ』は爆発的にヒットし、発売後10ヶ月で 100万台を販売。
電卓の歴史においては、多くのメーカーが市場から撤退するほどの一大事として記憶されています。
よく1972年は札幌オリンピックの年で、私は前年のプレオリンピックを視察し、
本番オリンピックもヤマハが組んだツアーに参加して視察しました。
ヤマハのツアーですから、代理店とヤマハの人ばかりです。
その貸し切りバスにクナイスル ブルースターの板を持ち込んで、
白い目で見られたのを今でも覚えています。
大人の事情ですね。
オリンピックが終わり、しばらくしてお取引先の池田にある日の出スポーツがスキーツアーを募集しているのを営業の担当者から聞きました。
ツアー名は、
「三浦雄一郎&スノードルフィンとアラスカ ハワイ旅行」でした。
これは行かないと、と直ぐに決意した次第です。
日の出スポーツにスノードルフィンの事務所があったのです。
とにかく、一生に一度は海外に行かなくてはと思い、ツアーに申し込みしました。
1972年4月30日~5月7日までの8日間です。
連休が入るといえども、会社を休まないといけないので、
ヒヤヒヤしながら上司に有給を申請しました。
当時は有給と言えども、休みにくい雰囲気でした。
社長も企画に役立つと判断したのでしょう。快くOKをいただきました。
一生に一回の思いでしたから、数次パスポートではなく、
1回限りのパスポートを取得しました。
これがキッカケとなって、後々に100回近く海外に行くなど、
つゆ知らずです。
4月30日伊丹空港からの出発です。
タラップから飛行機に乗って、しばらくすると、
添乗員の徳田が土橋さんは何処ですか?と呼ぶので、答えると、これ、差し入れを預かってきましたと。
何かと思って開けると、付き合い始めた彼女からで、少年サンデーとTOKOのスプレーワックスでした。
思いもよらずビックリ、ハートが熱くなりました。
それから5年間付き合って結婚に至りました。
飛行機は東京で乗り継ぎ、今はなきPANAM800便でフェアバンクスへ
見るモノ、触るもの目図らしく、キョロキョロしていました。
レストランでハムエッグを頼んで食べましたが、
ナイフで切っても切っても切れないのです。
よく見ると、骨を切っていました。
そこで、合点がいきました。
日本ではボンレスハムと言いますが、骨のないハムの事でした。
ハムは、本来は骨付きなのです。(笑)
同行の仲間が、空港の外に出てみると、5月と言えども寒いのです。
そして、戻ってきて、凄い!!と言うのです。
派手な服を着たおばあちゃんが車を運転してる。
その車のフロントガラスが割れて無かったと。
そんな事にも、ビックリしていました。
アラスカ航空でアンカレッジへ。
バスでスキー場へ、直ぐにスキーしました。
飛行機の中で寝ただけなので、
ぼやけた感じで4kmのコースを4本滑りました。
アリエスカスキー場はダブルのリフトがあり、5月でも十分な雪があり、
楽しめました。
三浦雄一郎氏はすでに冒険スキーヤーとして著名な方です。
1970年5月6日にエベレストのノーマルルートの経由地である、
ローツェのサウスコルから200mほどザイルで下り、標高7780m地点の滑降を開始しました。。
この時の作品「エベレストを滑った男」で第48回アカデミー賞で長編ドキュメンタリー映画賞を受賞しています。
これは、当時、世界で最も標高が高い地点からの本格的なスキーによる滑降でした。
アメリカ合衆国大統領だったジミー・カーターは、この映画をホワイトハウスで何回も鑑賞されました。
三浦雄一郎氏をホワイトハウスに招き、危険を顧みず夢にチャレンジしたという素晴らしさに感銘を受けたと、称えました。
私は夢に登る気持ちで三浦さんに近づき話かけたものです。
スノードルフィンのメンバーで只野直孝 さんがおられます。
エベレストスキー滑降に三浦雄一郎氏と同行し、もし、アクシデントやトラブルがあって、三浦氏が滑降出来ない時のピンチヒッターとして準備をされていたそうです。
只野氏にその時の話を聞くと、エベレストに登って、サウスコルに立つと、とんでもない、とても滑れる様な所ではないと、恐怖したそうです。
とてもピンチヒッターは出来ないと思ったそうです。
この只野氏とアリエスカのリフト終点で話していると、
何やら大きなテントの様なモノを抱えて、スキーヤーが登ってきました。
何だろうと注目してみていると、そのテントの様なものを組み立て始めました。
しばらくすると、大きな三角形のタコが出来上がりました。
そのタコにはハーネスが付けられています。
そのスキーヤーはタコを担ぐ様な感じで担ぎ、斜面を滑りだします。
日本人が見てると思ったのでしょう、カミカゼ~と叫んで、
10数メートルを滑ると、直ぐにふわりと浮き上がりました。
飛んだのです。
スーっと、あっと言う間に大空に飛び立ちました。
じっと見ていると、4000mのコースをゲレンデの下まで、飛んで下りたのです。
只野氏とあっけにとられて、一部始終を見ていました。
後に、只野氏は日本にハンググライダーを持ち込み、
普及に努めた第1人者です。
プロスキーヤーから、空の世界へ転向し、
ハンググライダーで日本代表として、世界大会を転戦。
84年には、ヒマラヤのカンチェンジュンガからテイクオフ、
ハンググライダーによる高々度世界記録を樹立しました。
その模様は水曜ロードショー「冒険野郎空を舞う」として紹介されました。
この一瞬の出会いが、只野氏の人生を変えるキッカケになった様です。
もう一人、著名人が参加されていました。
藤川清氏です。 1972年札幌オリンピックのポスターカメラマン
ポスターのモデルは大杖正彦氏(デサント)
当時はフィルムカメラで藤川氏はハッセルブラッドを2台上下に組んで、
2台同時に、巻き上げとシャッターを切れる様にして使用されてました。
ネガとポジを同時に撮影する仕組みです。
上からのぞき込んでみるタイプでしたから、スキーの様に動きの早いスポーツでは追いかけるのが大変と思いますが、
それを普通にしておられましたから、凄い体力と能力の持ち主です。
学生時代に八方尾根で、三浦雄一郎氏と見谷 昌禧氏(札幌オリンピック強化コーチ)が2人で滑ってるのを藤川氏がそのハッセルブラッドで撮影されている現場に偶然立ち会いました。
その時に三浦敬三さんにもお会いしています。(三浦雄一郎氏のお父さん)
世の中狭いものです。
アリエスカからシアトルに回り、ハワイのホテル藤川さんの部屋でワイワイガヤガヤとダベリました。
藤川さんはこの日、トローリングに出かけ、カジキを釣ったとのことで、そのカジキをさばいて、お刺身をごちそうになりました。
三浦雄一郎さんの奥さんも同行されていて、楽しく歓談しました。三浦さんにピッタリの豪快な奥様でした。
夜中の12時になると、三浦さんはもう寝ないとと、席を立たれました。
残ったメンバーのお相手は奥様でした。
思い切って、このツアーへの参加しなかったら、この様な縁や話題、知識、裏話を聞くことは無かったでしょう。
思い、行動、一歩を踏み出すことが、次への大きな飛躍につながるものと信じています。
初めての海外旅行が、キッカケとなり、海外旅行は簡単だと、
1974年の夏にはグアム旅行行く人この指たかれとばかり、
自分がツアコンの役目をして、グアム旅行を企画しました。
1974年8月に殿村株式会社を退社し、すでに次の就職先が決まっていたおり、
この間2か月ほど休みがあり、一生の内に2か月も休みを取れる時が来ないだろうと思って、
退職金と貯金していたお金で、20日間のヨーロッパ一人旅を行いました。
全て、現地で予定を組み、チケットを買い、鉄道を乗り継いでの旅行でした。
この時は頭が熱くなるほど、考えました。
言葉が出来ないので、JTBの6か国語対訳の辞書と片言の英語で周りました。
時刻表を解読するのに、どうなっている?など、
全てを自分が考え、行動しないと、前には進めない旅行でした。
アエロフロートでモスクワを経由して
パリ、デュッセルドルフ、フランクフルト、ミラノ、ベニス、ローマ、ジュネーブ、
グリンデルワルト、ツェルマット、シャモニー、ジュネーブ、パリ、東京、大阪と20日間で周りました。
若い時の海外旅行は是非、お勧めします。
特に一人旅をお勧めします。
海外文化と日本文化の違いを感じたり、人との交流から、人は皆同じと感じたり、また違う面を見つけたり、
場所、会う人によって、いろいろと感じるところは違うでしょうが。
一人海外旅行は将来の人生にとって、大いなる宝になると信じています。
この一人で行動することが、色んな方面から思案を巡らし、答えを導く、素晴らしい経験、環境になります。
企画は企てる事です。自分で企てる事の一番いい試練の場所になると思っています。
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