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仕事として写真を撮ることを考える

好きを仕事に!とか
カメラで食べていける!とか
結構軽く言う世の中だけど本当に耳あたりの良いことを言ってるだけやな、というのは常々思います。
(耳あたりのいいことを言う人は必ずしも人のためを思っていってるわけではないので鵜呑みは危険である。自分を大切に思ってくれている人の意見を大事にしようね✌️)
私はもうかれこれ10年以上、仕事として写真を撮っていて、となると撮ることに対してもう趣味の枠を外れてしまって、趣味の延長〜!とかじゃなくもはや職人だと思ってます。目が真剣で魂込めて汗水垂らすやつ。(イメージ)(仕事としての比重が重すぎて、プライベートの旅行とかもはやカメラ持ってくのめんどくさい時まである)

私は高校の時から写真を撮り始めていました。
学生のころ、純粋に写真が趣味でエンジョイしてた頃の撮る動機は
「欲しい」
「手元に残したい(コレクション)」
「きれいだ!」
「絵より表現しやすい」
とかそんな感じでした。自分の撮りたいものを撮りたいまま撮り、作りたいものを作りたいまま作っていました。
だから高校生の時に使ってたコンデジで撮った写真は時々すごい枚数をお店プリントしていました。素敵な瞬間や好きな人、素敵な風景が手元にあると言うのは素晴らしく、嬉しいことでした。(わかるよね)
その感じは専門から卒業してもしばらく続き、プリントとして手元にあると作品としてもまとまっていってコンテストに出したり、個展をしたりしました。(これらは本当にお金かかるのでスポンサーでもいないと大変コスパ悪いです)

でもその中でずっと思っていることがありました。

「写真」という作品はどのように人の役に立ったり、人に益をもたらすのだろう?

私の妹は陶芸に関わっていて、陶芸というのは太古から存在していて人々の役に立ってきていました。(土器とかわけわからんくらい昔からあるよね)
では写真は?(歴史的には200年ほど)私が好きに撮って発表するものは何か人の役に立っているのかな?
元々絵を描いていたこともあり、絵画的な表現の写真で美しいものを作ることが好きでした。だけど、それらが一瞬見る人々に同じように共感してもらえたとて、人の役に立つとはあまり思えませんでした。

人の役に立つ、ということに拘るのには理由があって。

私の今の生活はたくさんの人々の仕事の上に成り立っています。
日々食べるものを作ってくれる人。
住むところ、生活できる街、人と繋がる便利な機器。
服、寝具、トイレ、風呂、家具家電、ライフライン。
音楽、映画、漫画、ゲーム。
私が写真を撮るにあたっても、カメラやパソコン、ソフトを開発し作ってくれる人、移動手段、集客のために使うツール。
私を育ててくれた両親。
私自身が生きていく上でたくさんの人の「仕事」のおかげで生活できているから、私自身、同じように人のためである必要を感じていました。

仕事をするということは
そういった社会の一人として人の役に立つことをしたい。
きっと大勢は難しいけど、関わる人ひとりひとりにとってはそうでありたい。
私は写真を通してその人の生活をさらに良くしたい、その人のためでありたい、とおこがましくもそう思っています。

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「とるではなく、与える写真」。

その言葉をテーマにフリーランスになってから写真の仕事をしています。
ユーモア効いてるところが気に入ってるけど
仕事を続けていく中でその言葉の深さを時々感じます。
私が先に書いていた、高校の頃の撮る動機、
「欲しい」
「手元に残したい(コレクション)」
「きれいだ!」
「絵より表現しやすい」
は人のために使うとそれはその人にとって宝物になります。
何事もそうかもだけど、人のため、となった途端色々素晴らしくなるのがこの世のルールです。

だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。(マタイ福音書7章12節)

写真を納品して喜んでもらえることはもちろん嬉しいけど、時々、自分の価値を再認識したよ、という感想をもらうことがあります。
私は本当に人間大好きで、その人のもつ美しさを撮りたい、知って欲しい、と思っているからそれが伝わるのは本当に嬉しい。

だから私にとって「価値を与えること、増やすこと」が私の仕事だなあ、と思います。

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