「ありきたりの風景」
「ありきたりの風景」
深夜の住宅街は静寂に満ちていた。
木枯らしが時折、朽ちた落葉樹の葉に吹きつける。
乾いた路面にカサカサと擦れる音がもの寂しい冬の訪いを告げていた。
「─美樹ちゃん、ここが俺ん家だ。」男が深い酒の匂いを漂わせて言った。美樹が目を上げた。
立派な真鍮のがっしりした構えの門扉にその向こうには広い庭が広がっている。
家自体も最新の工法で建てられたと思われる三階建てのものだった。
「─ま、大した家じゃねえんだけどよ」言葉とは裏腹に十分自慢を含んだ物言いで男が言った。
「─立派ねえ」感嘆を込めて率直に応えた。
含みのある笑みを浮かべ無造作に唇を求めてきた男の行為を拒むことなく受け入れた。
相手に妻子があることは勿論、男も自分に思春期の息子がいることを知っている。
相思相愛と言っていいのだろうか。不倫の関係にあるが一緒になることを約束している。
今、男の存在が唯一人の拠りどころになっていた。
二十歳の時に熊本から家出同然で上京し直ぐに知り合った一回り以上歳上の前夫と結婚した。
建築会社を経営していた夫は経済的に不自由をさせる事はなかったが絶えず美樹を束縛した。
職人から叩き上げ現場中心で信用を得、会社を大きくして来た。県の内外関係なく多忙に飛び回る夫だったがどんなに遠方にいようが不在の時は喧しいほどに美樹の行動を管理してきた。
時間があれば不定期に着電があり、その度に今何をしているのか等と問いただされる。
帰宅してからはその日の行動や来客に至るまでをチェックされることもあった。
単に独占欲が強いだけでそれだけ大事にされているのよ、と友人たちは笑うが度が過ぎればそれは単に不快なストレスでしか無かった。
懐妊した時それ等は不自然な位突然に収まったが実はその理由は夫の不貞にあった。
相手は通いつけの飲み屋の女将で良いように貢がされた挙句、もう少しで借金の保証人にまでされる所だった。
自分のことは棚に置き職人気質そのまま何にでも本気になってのめり込んでしまう男だった。
そんな一本気な所にも惹かれ一緒になったのだがその短絡的な振る舞いで思いも掛けぬ憂き目を見るなどとは予想だにしていなかった。
土下座して詫びる夫を見下ろしながら一度だけ、と言う思いで目をつぶった。
だがその一度はあろうことか同時進行の不義を兼ねていたのだった。
同時期にまた別の女と浮気を重ねていたのだ。
露呈した一人目は未遂に終わったが既に別件で借財を背負う羽目になってしまっていた事を知ったのは数年経ってからのことだった。
気づいた時には借財は雪だるま式に増えていて元凶の女はとうに行き方知れずになってしまっていた。
「取り立て屋」と称した輩が連日のように訪れ小さな会社の資産や持ち家はおろか夫の実家の土地までそっくり剥ぎ取っていった。
厳格な義父の逆鱗は当然で、次男坊だった夫は勘当された。
取引先だった不動産業者の斡旋で何とか住居は確保できたが不況の最中、再就職も思うようにならず糊口(ここう)を凌ぐのがやっとの不安で苦しい生活が続いた。
そんな矢先、夫は何の前触れもなく不意に家を出てしまった。
以前の取引先を始め交友関係を含め思いつく限りを当たってみたが消息はつかめない。
生死を案じ警察にも届け出たが何の手掛かりも得ることは出来なかった。
しかし立ち尽くしている暇などなかった。
まだ幼い子供を抱えた女がその身一つで生活を立てて行くことは本当に並大抵では無かった。
周囲からも勧められ公的な援助を考えざるを得ない状況にまで追い詰められていた時、世話焼きの不動産業者から商売の話を持ちかけられた。屋台での立ち飲み屋の商いだった。
水商売はおろか客あしらいも全く経験のないことだったが、
「─心配あらへん。ねえさんくらいべっぴんやったら、きっと流行るでえ─」怪しげな関西弁でそう言う社長の言葉に後押しされる形で恐る恐る水商売の世界に足を踏み入れた。
大粒で柔らかい肉質の焼き鳥と安い価格が評判になり店は賑わったが一番の要因はまだ若かった美樹のコケティッシュな魅力にあった。
悪天候の日を除いた毎日、夕刻になると必ず駅の高架線のガード下に屋台を出した。
若年のサラリーマンから年配の職人まで客層は様々だったが美樹が独り身であることを知ると皆一様に常連を気取り通い詰めてくれる。
中にはあからさまに下心を呈してくる客もいたりしたがその殆どが危うい恋の駆け引きを楽しんでいる体で、美樹自身もそんな愚にもつかない恋愛ゲームを楽しんだりもしていた。
「─ママさん、スナックをやってみんかね」店を出して二年程が過ぎた頃、突然年配の客が口を開いた。
「いい居抜きの店でな。じゃがオーナーが身体を壊しちまって、代替わりを探しとる」燗をしたコップ酒に少し口をつけ、
「良かったら、わたしが口を聞くが─」そう穏やかにつけ加えた。
市内では大きな企業の人事部長をしていてよく部下を連れて来てくれる常連の男は美樹とは親子程も歳が離れている。
伏せ目勝ちに酒を飲む仕草がどこか幼い頃に亡くした父親の面影と重なり、安心して雑多なことを相談できる数少ない相手だった。
三月後、仕入先を始め備品も含めた準備万端の受け入れ態勢のもと本格的に水商売をスタートさせた。
部長の人脈もあってかクチコミを頼るまでもなく当初から店は繁盛した。
屋台とは違い回転が悪い分、客は高い単価の金を落として行く。
心細く不安だった生活にもようやくゆとりができ始めた。
だが時期を同じにして中学に進学したしたばかりの息子に良くない変化が表われ始めた。
参考書が必要だとか先輩とカラオケに行くとか言って歳には過分な金を無心するようになったのだ。
店に出ている間、留守を頼んでいた近隣の友人宅にも立ち寄らなくなり朝制服で家を出るが実際は登校していない、と言った事もしばしばあった。
ある冬の日の明け方、疲れた身体を引きずるようにして帰宅すると髪の毛を金色に染めた息子が炬燵に潜り込んで寝ていた。
驚いて起こそうと身体を揺すると衣服から滲みついたタバコの強い匂いが鼻についた。
美樹は愕然と寝息を立てているまだあどけない我が子の顔を見下ろした。
親子の対話を求め共通の時間を持とうとしたが近づけば避けられ、話しかければ険のある視線で一瞥されるだけだった。
単に思春期の反抗ならば安心だが非行に走ることだけは抑えたかった。
幸い今日まで明るみに出るような悪行の報せはないが不安な先行きを考えると安心して経営にも集中できなくなってしまった。
『─水商売の親の子どもってさ、なんか必ず非行に走るよな』雑談の中で店の酔客が言った別段他意のない言葉が思い返される。
常連客の殆んどはどこかに嘘を纒っている。
夫婦と称した不倫のカップル。所帯を持っていながら別の女に入れ込んでいる男。社長を気取った日雇い職の男。
偽りの吐露を許された酒場と言う舞台で、それぞれがひと時の演者になりきる。
本名も素性もろくに知らない個々が時には惹かれあい慰め合い、自身を曝け出す。そうすることで認められた自分の居場所を確かめ一時の安らぎを得る。
世知辛く乾いた風の中で誰もが明日の不安に怯えながら生活している。
寄る辺のない冷たく厳しい現実で生き抜くしかないのなら偽りでもいいじゃないか、一夜の夢うつつが束の間の憩いになるのなら─。
夢を売る仕事をしている─。
酔客たちをあしらいながらいつしかそう考えるようになり商売に自負を感じるようにもなっていた。
「─ほう、プロになってきたもんだ。いいことだよ」美樹の話しを聞き終わった後、口利きの部長が目を細めて笑った。
「息子さんの事は、あまり心配せん方がいい─」ロックグラスを揺らしながらそう言葉を続けた。
「男じゃからの。誰でもが通る道だ。大人ぶりたい、そんな時期がある」そう言い切る豊富な人生経験を経た男の言葉に少し安堵していた。
だが我が子の危うさがそんな大人のいい加減な良識の範疇を超えてしまっていた事を思い知らされることになるまでにさほど時間はかからなかった。
「─宿が取れたよ。今度の土日だ」開店前作り終えたばかりの突出しを勝手につつきながら男が言った。
ここ最近、男はすっかり自分との関係を周知せしめる様な行動を取るようになって来ていた。
『─あんたは云わば店の看板じゃ。看板は皆の共有のものじゃからな。独り占めさせてはいかんぞ』開店当初、部長から受けた箴言だった。
恋愛は勝手だがそれを他の客に悟られてはいけない、と言う戒めだ。
店を生業としている以上、現状の男の挙動は考えねばならない。だが美樹は商売を辞めることを考え始めていた。
既に離婚調停に入ったと言う男の言葉も受け真剣に再婚を考えていた。
新しい生活が始まればきっとあの子も変わってくれる。いいえ、きっと変えてみせる─。
酔いに任せ言い寄る客たちをのらりくらりとあしらう事にも疲れていた。
中には本当に純粋な恋愛の対象として自分を見てくれている男もいたが相手が好みである、ないに関わらずに悪戯に人の心を弄んでいるみたいでそんな駆け引きにも嫌気がさして来ていた。
普通の主婦として普通の生活に戻りたい。
生活を立て直すことから始めなければ掛け替えのない我が子を守ることなんてできない。真剣にそう考えていた。
そしてつい先週の事だった。
深夜遅い時間、突然美樹の携帯に着電があった。
忘年会のシーズンも始まり店は流れの客を含めて立て混んでいた。
賑やかな店内に加えてカラオケが喧しく、また知らない番号だったので無視していた。
しかし執拗にかけ直してくるので出てみると相手は地元の派出所の警官からだった。
至急管轄の警察署に来て欲しいとの事だった。
詳しい要件を問いただすと、息子さんが保護されている。とだけ答え詳しい事は電話では伝えられないと事務的に付け加えられた。
美樹は後をホステスたちに任せて慌てて店を出た。
タクシーの中で胸が押しつぶされた様に呼吸が苦しくなった。時折世間を騒がせる様々な少年犯罪が頭をよぎる。
もし誰か人を傷つけたりしていたら─。悪い予感は次から次へと湧き出、切りがなかった。
「─息子さん、小便から陽性反応が出たんですよ、薬物の─」刑事の言葉の意味が分からなかった。
「─覚せい剤ですな。出処を今、訊きだそうとしているところです」激しい心臓の鼓動を耳の奥に聞きながら美樹は黙って刑事を見上げた。
言葉など見当たるはずもなかった。
「─あの子は、まだ中学生なんですよ」やっとそう言った。
「だから問題なんだよ」刑事は冷ややかに見下ろすと突き放す様に言った。
何が何だか分からなかった。「薬物」と言うものの存在は知っていたが無縁の世界の産物の筈だ。
確かに地元には幾つかの裏社会の組織があることも知っていたし自分の店にも「みかじめ料」と称した請求もあったりした。しかしそう言った闇の世界の魔手が子供にまで及んでしまう事など想像すらしたことがない。
「─きちんと子供の管理ぐらいしなさいよ」身元引受の書類を確認しながら溜息混じりに刑事が言った。
後日の再出頭を約束してその晩は帰宅を許された。
帰りのタクシーの中で会話など思いつく筈もなかった。隣を見るとどこか一点を見つめたまま、やはり無言の息子がいる。
この憔悴しきった様な顔は果たしていつからだったのだろうか。何故、自分が気づいて上げられなかったのだろうか─。
悔しさに涙がこみ上げてきた。
やはり生活を、環境を変えなければ─。
決断を胸に美樹は携帯を取り出した。
大きな針葉樹の林を抜け、車のすれ違いが出来ないくらいの狭い山道を登った中腹にその宿はあった。
途中、高く伸びたアカシアの緑の大きな葉にヤマセミがちょこん、と羽を休ませていた。
折から降り出した氷雨にも動ぜず冠羽を立てたままじっと川の澱みに生き餌を探している。
男に自分が抱えている問題をどう切り出したものかと考えを巡らせながら美樹は助手席に揺られぼんやり窓外を見ていた。
旅行に出ることなど本当に久方ぶりだ。
男は上機嫌で鼻歌交じりにハンドルを握っている。
息子が心配で本来なら家を不在にする事など出来ない状況なのだが、改めて男と向き合いきちんと詰めた話しをする必要があった。
男にこれからを頼る以上、今回の同伴旅行を断り機嫌を損ねてしまうことは避けたかった。
自分が後妻になる心づもりをはっきり伝えることで息子の事を含めた今後の約束を確かめるつもりでいた。
月明かりの下、張りのある肢体がぼんやり浮かび上がり左右の高い位置に吊るされたランタンの頼りない灯りに丸みを帯びた躰の線をよけい艶っぽく魅せていた。
冬の山の外気は躰の芯まで凍てつかせる様だったが開放された空間で裸体を晒す恥ずかしさで気持ちは火照り昂っていた。
妻子持ちの男と関係を持つことなど以前には想像もしていなかった事だ。
通い詰め口説かれ続けたからと言ってそれだけで男と関係を持った訳ではない。外見はさておき自信家でいつも強気な男の行動力にも惹かれていた。
それは前夫の職人気質のものとは異なり大企業という厳しい組織の中できちんとした役職を得ていると言う自負と社会的な周囲の認知に裏づけされている。
つまり、これからを頼れる男なのだ。
店のおかげで経済的な困窮を脱してはいるが所詮、何の保証もないたかが水商売だ。雇われにしろ経営者である自分が身体を壊してしまえば商売など直ぐに立ち行かなくなってしまう。
それに今は何より我が子の更生のために一日も早く生活を改めることが最優先される。
男は息子の現状を承諾するだろうか。今ひとつ自信が無かった。
『─俺は世間体なんて一切気にしねえよ。言いたい奴には言わしときゃいい』そんな風に自分を口説いてきた、いつもの強気な言葉を男の本質として信じるしかなかった。
旅館での逢瀬はまるで新婚の初夜を思い出させた。
美樹は激しく抱かれながら男の心を求めた。
心の伴わない性交に真の悦楽は無いと考えている。
派手に見えてしまう風采から男好きのする隙のある女だと思われてしまい勝ちだが実際身持ちは堅い。
先を約束し逢瀬を重ねた男とさえ枕を共にしたのは数回に過ぎない。
男はそういう初心なところも気に入っているのだと笑っていた。
身体を開き欲情を女体の芯に感じながら抑えることなく貪欲に男に応えた。幾度となく押し寄せる快感の波に身を任せながら時折、自分の内にある男への愛情を推し量っていた。
「─何だ、そんな事か。」タバコをくゆらせて男が笑った。
「別に関係ねえよ。これからだよ、これから。これから色んな事が変わってく─。まかせとけよ」男はそう言うと煙をゆっくり吐き出しながら立ち上がり優しく細い肩を抱きしめてくれた。
美樹はまだ火照りの静まらない汗ばんだ胸元の襟を合わせてほっと息をついた。
所帯を持つに当たって大きな障害と思われる問題を包み隠さずに話した。
長い間一人で悩み抱え続けてきた事を今、笑い飛ばしてくれた男が心底から頼もしく思えた。
やっと待ち望んでいた「幸福」の手が差し伸べられた気がした。
閉じた眼から自然に涙が頬を伝い、その涙を拭わぬまま目を上げると今度は自分から男の唇を求めた。
「─どう言うこと?」蒼白にわが子を見返した。
「暮らしていくのに、必死だったのよ母さんだって─」
「関係ねえなッ─」深夜の時間を気にし低く抑えた母の言葉を遮る言葉が響いた。
「頼んだわけじゃねえよ、産んでくれなんてよッ─」息子はそう言い放った。
あまりの言い方に一瞬言葉を失った。
「─そんなに男が欲しいのかよッ、汚ったねえッ、母親面すんじゃねえッ─」言いながら憎しみを露わにした目を上げ自分を睨みつけている。ゾッとするような冷たく哀しい眼だった。
「─母さんは」そう言いかけた言葉に、
「出てくからよッ─」取りつく島もなく言葉が被せられた。
「どうして─」息子はその言葉と同時に立ち上がると持っていたライターを投げつけ、そのまま家を出て行ってしまった。
静まり返った部屋で美樹は呆然と立ち尽くした。
投げつけられたライターは額に当たった。
鈍い痛みに指を触れると薄ら血が滲んでいた。
のろのろと腰を屈めてライターを拾うと不意に涙が衝き上げ声を忍ばせ長い時間咽び泣いた。
「背徳」への代償は高くつくだろう。しかし人は愚かな行為だと知りつつ我を優先し、しばしば人道を踏み外してしまう。
嗚咽しながら美樹は男の家族を思った。
自分の息子と同年輩の娘がいると言っていた。
奥さんは奔放に金を遣い家庭を省みるより流行に生き甲斐を見出していて娘は男親の自分を軽蔑している、と言っていた。
果たして本当にそうなのだろうか。男の言い分を全て鵜呑みにしていいのだろうか。
元々他人である奥さんはともかく、娘さんはどうなのだろう。
一番の犠牲になりその要因は男本人では無く詰まるところ自分にあるのではないのか─。
また男自身も単に家庭を守れずに浮気に逃げ道を探しただけなのではないのだろうか─。
出て行ってしまった我が子と自分のこれからを案じながら不安に傾いた憶測が渦を巻いて次々と押し寄せていた。
「─これで終いだからな」男はそう言うと美味そうにコーヒーを啜った。
美樹はクリスタルの天板に置かれた離婚届をじっと見つめた。
男はジャケットの内ポケットからおもむろにペンを出すと目の前で氏名欄に署名し捺印した。
「─あの家も売る事にした。もう、新しいとこの契約も済ませてきた。今度はマンションだけどな」その言葉に思わず目を上げた。
「嫌か─?」薄い笑みを浮かべ男が言った。
「─親権は?娘さんの」不安げに訊くと、
「─ああ。母親につくと─。あっさりしたもんだ」タバコを咥え吐き捨てるように男が応えた。
「─慰謝料も、養育費も要らないとよ─。ったく、馬鹿にしてやがるぜ」自嘲するように男がまた笑った。
美樹はじっと男を見つめた。
「─ん、どうした?」男の言葉にハッとし慌てて首を振った。
「やっと所帯が持てるんだ。もう安心しろ。息子の事も、きちんとしてやるからな─」男が繰り返した。
「─ありがとう」胸が詰まる思いだった。
前夫が行き方知れずになってからわが子を守り食べて行くために必死だった。
決して報われることを求めて来た訳ではなかったが男の存在が紛れもなく救いだった。
男の家庭を想うと後ろめたさと申し訳なさで胸が締めつけられるようだがもう後戻りは出来ない。
「ありがとう─」美樹は男の目を真っ直ぐ見つめた。
「─じゃ、俺は役所に寄って、そのまま仕事に戻るからよ」男は吸いかけのタバコをもみ消して立ち上がりかけ、
「─あ、美樹、お前、通帳に少しまとまった金入ってるか?」と訊いて来た。
「─あ、うん。あるけど─」唐突な問いだったが直ぐに残高を思い浮かべて答えた。
「なら、悪いけどこの二件の口座へ五十万ずつ振り込んどいてくれるか?俺、今日うっかりしてキャッシュカードも通帳も持ってきてねえんだ」そう言った。
「─え、五十万ずつ?」美樹は男の差し出した振込先の書かれたメモを見た。
「契約した不動産屋と内装を頼んだ業者に今日、手付を入金する約束してたんだ。金は直ぐに戻すから」男が言った。
「─うん。分かった」そう素直に応えた。
慌ただしくドアベルを鳴らして男が出て行くと店内が急に静かになった気がした。
流れているジャズのスタンダードナンバーが耳に心地良く聞こえ、香ばしいコーヒーの香りが鼻の奥に蘇った。
相変わらず慌ただしい人ね─。
そう呟き笑うと小さく息を吐き、まだ湯気の立っている飲み差しのコーヒーに口をつけた。
表札には何故か知らぬ苗字が刻まれている。
─まだ、売却の手続きは済んでいない筈なのに。
美樹は訝しげに首を傾げながら大きな門扉から内を覗き込んだ。
もう一度表札を確認したがやはり男の苗字とは違う。
最後に男の建てた立派な邸宅を見ておこう、と思い訪ねてみた。
案内されたのは深夜だったがその後酔った男を送ったのも一度や二度ではない。
この辺りには土地鑑もあり見紛う筈も無かった。
携帯を取り出したが二週間ほど出張に行く、と言っていた男の言葉を思い出し躊躇した。
所在無げに立っていると突然玄関が開き見知らぬ男が出てきた。美樹は咄嗟に身を隠しその場から離れた。
男は四十後半位だろうか。濃紺のダブルのスーツを着こなし白髪混じりの髪を綺麗にオールバックにしていた。
「─行ってくるよ。今晩は遅くなる」低い響きの良い声でそう玄関の中に声を掛けると落ち着いた足取りで門扉に向かって来た。
男の奥さんの浮気相手だろうか─。どう見てもそうは考えられなかった。
センサー付きなのか、門扉が自動で開いた。美樹は思い切って男に声を掛けた。
「─あの、すみません」
男が愛想の良い笑顔を向けて来た。
「─あ、あの、すみません。迷ってしまって─」男の苗字を告げ家を探している風を装った。
男は宙に目を上げ考えた後、
「─ご近所にはいないと思いますよ」笑顔を崩さずにそう答えた。
途端に自分の顔からゆっくり血の気が引くのを感じた。
暫くの間、蒼白に立ち尽くした美樹を見て男は会釈をすると怪訝そうに振り返り去っていった。
曇天の空からまだ冷たい大粒の雨が落ち始めてきた。
間も無くしとどに濡れそぼったままその場を動けずにいた。
訳が分からなかった。
男の家はどこなのだろう─。自分のために売却したと言っていた。自分たちのこれからを全て託した─。
全てを共有しよう、と言った男の言葉に全幅の信頼を置き預金の殆ども男に預けてしまっていた。
携帯を取り出し震える指で番号を押した。
呼び出し音の代わりに、すぐに無機質な音声が発信先が使われていない番号であることを告げた。
美樹はただ呆然と雨音に混じり繰り返されるその音声を聞いていた。
浴室の純白のタイルに真っ赤な血が飛び散った。
螺旋を描いた白と真紅との美しいコントラストが排水口にゆっくり流れていくのをぼんやり見ながら、シャワーを一杯にひねると着衣のまま床に腰を下ろした。
手首はザクロの様に割れ、深く抉れた傷口から血は溢れ出ているのだが多量に飲んだ睡眠薬のせいか痛みは感じなかった。
次第に混濁する意識の中で美樹は以前寺の住職から聞いた「因縁」と云うものの説法を思い返していた。
結果をもたらす直接の原因を「因」、間接の原因を「縁」とするのだと云う。もっと大義に捉えるなら世に生を受け生きることが因であり、人生に関わってきた事物や人が縁であると云う真理だった。
幼少の頃から家は本当に貧しかった。
周囲のほとんどが中流の暮らしをしている中で幼稚園にも通わせてもらえなかった。
産まれてから直ぐ事業を起こしていた父が連帯保証人になっていた取引先の計画倒産の策略を全面に受け、多額の借財を負ってしまったのだった。
物心ついた時から柄の悪い男たちが頻繁に家を訪れその度息を潜めて時の過ぎるのを待った。
『隠れ鬼じゃ─』タバコと汗の匂いが染み着いた腕でまだ幼い自分を囲う様に抱きながら、父が言っていた。
『見つかったら負けじゃ─』深く囁く父の声にドキドキしながら鬼の過ぎるのをじっと待った。
『立ち直る─。俺ぁ、立ち直るきに』貧しい食卓を囲みながら口癖の様にそう繰り返していた父─。だが失意の中で病に倒れ、急逝してしまった。
前夫が借財を負ってしまった時美樹は自身の持つ流転されると云う「業」を恨んだ。
懸命に抗ったつもりだった。
「金」の力などに屈したくなかった。
多くの人たちに助けられ支えられ始めた商売で少しずつ基盤が出来始め、男と出逢い、射し込んで来た光に精一杯手を差し出したのに─。
欺かれているなどとは露ほども思わなかった。
僅かばかりの、それでも我が子を護る為に懸命に倹約を重ねた貯えも騙し取られそれどころか気づかないうちに男の借財の保証人にまで仕立てられてしまっていた。
何もかも巧妙に仕組まれた罠だった。
名刺に記されていた会社は確かに存在していたが、社員として男の名は登録されていなかった。
氏名までも偽っていたのかも知れなかった。
息子もぷいと家を出たきり、あれから何の音沙汰も無い。
先月中学の担任が来て本人不在のまま卒業証書だけを届けてくれた。
一つの大事な指標を遂げた気がしてその証書を抱きしめ一人涙を流した。
皆が成長し先を急ぐ中で自分だけが取り残され全てを失くしてしまった─。
本当にもう何も残っていない─。
「因縁」が廻るものであるならばこうして辿り着いた境涯はあまりにも不公平に感じる。
招き寄せてしまった災いは自業自得だとしても重い悪徳を重ねていながらたった今、平然と笑っている人間も沢山いるではないか─。
去年の秋、郷で一人寂しく息を引き取った母を思い返した。
『─辛いことは我慢なんてしなくていい。泣くのよ、思い切り泣くの。そうして乗り越えたら、必ずまた朝がくるから』今際に間に合わなかった美樹に宛てた遺言だった。
乱れた筆跡がまさに死に対峙しながら書かれたものと思われた。
「─お母ちゃん、ごめんね。─わたし、─何だか、疲れちゃった」失われて行く全身の生気を感じながら美樹は虚ろに目を閉じた。次の瞬間、意識の底で何か声がした気がし朦朧と目を開けると歪んだ視界に坊主頭が見えた。
虚ろな目を凝らすとまさしく失踪した夫だった。
何かを叫びながら、懸命に自分を抱き起こそうとしている。
美樹は渾身の力を振り絞って目を見開き、相手の頬を張った。
「─何よッ、今さら!何なのよッ!─あんたのせいで、あんたのせいでッ─」呂律の回らぬ舌でわめき詰り力一杯、何度も何度も目の前の頬を叩いた。
瞼の裏がぼんやり明るかった。
目を開けると透明の細いチューブが見え強い消毒の匂いが鼻をついた。
「─何、やってんだよ」低く響く声の方向に眼を向けた。
まだ朦朧とした視界にまた坊主頭の男がいた。
息子だった。
「─あんた」やっと口を開いた。
「何やってんだよ、おふくろ─!」抑えた口調でそう言い立ち上がった坊主頭は紛れもない我が子だった。
「─ああ、頭、─丸めたんだぁ」そう言うと力なく笑い、
「─お父、─さん、は?」まだ覚束ぬ呂律でそう訊くと、
「─あ、オヤジ?いるわけねえじゃねえか」ぶっきらぼうな声が返って来た。
「─あんた、─だったんだ」美樹は息子の頬を手探った。懸命に探りながら、
「似ちゃったんだねえ、─いつの間にか─」そう言うと、
「─ったく、何言ってんだよ。さんざん人のこと引っ叩きやがってよ」ふて腐った様に息子が返した。
美樹はもう一度坊主頭を見て笑った。
「─ごめん、ね。母さん、─ドジ踏んで。死ねなかった─助かっちゃった、─みたい─ごめん、ね」途切れ途切れにそう言った。
「─何、言ってんだよ」返って来たその声が震えていた。
真一文字に結んだ唇の形が夫によく似ていた。
「何にも、─何も、─失くなっちゃった。母さんね─」
「仕事、する事にした─」その言葉を遮って息子が言った。
「見習いからだけどな、はじめは。けど、辞めたりしないぜ、俺─」美樹はじっとわが子を見つめた。
「─俺、もう大丈夫だから─。俺が、今度は俺が守るから、だから、おふくろ─」言葉が終わらぬ内に美樹はか細い腕を精一杯伸ばすとギュッと坊主頭を抱きしめた。
いつの間に大きくなった我が子の首筋から、汗に混じった少しだけ逞しい匂いがした─。
─了─