「盗む女」(ぬすむひと)前編
盗む女(ぬすむひと)前編
喧(かまびす)しい蝉時雨が硝子越しから聞こえてくる。
「─ふぅん。都心にも蝉はおるもんやなあえ」つい先刻、周囲を憚(はばか)らず大きく泣き声を上げぽろぽろと涙を流したことなど忘れてしまったように麻耶はそう呟くと徐(おもむろ)に黒目勝ちの円(つふ)らな瞳をこちらに向け、笑みを浮かべた。
「─なあ、なんで?─」その様子が不遜(ふそん)に思え腹立たしく、なんべん同じこと繰り返せば気が済むのやで─とそんな詰りを吐き出そうとしたが危うく呑み込んだ。
「─なあ、かんにんな?─見とったら、つい欲しなってもうて─」ちょっと哀し気に甘え口調でそう言いアイスコーヒーのグラスに差したストローをカラカラ音を立てて回しながら、取り成すようにいつもの邪気のない笑みを向けられるとつい向けていた憤りも萎え掛けてしまう。
「─いつか必ず刑務所に世話んなるようになってまうんで?─お願いやで、もう止めてちょうだい」わざと眉間に皺を寄せやっとそう言うと、彩音はシガーケースから煙草を一本抜き取り出し一つ溜め息を吐いた後、淡い紅のルージュを施した唇に咥(くわ)えた。
「─なんで欲しかったのやで。あないなやすもんの、しかも男物の傘なんか」ライターで火をつけかけた手を止め改めてそう尋いてみたが、それには応えようとはせずに、
「─せやけどな。あーちゃんは何でタバコやめへんの?おとんが死んだ元ちゃうん─」金色のラメの装飾のシガーケースを弄(もてあそ)びながら麻耶はそう言って逆に咎(とが)める風にじっと彩音を見返した。
五年前の梅雨入りが公表され程無い悪天候のある晩、ドアの前に張り出していた求人を見たと言って彼女は入って来た。
折からの雨に濡れそぼり不慣れに施されたと思しきアイシャドウの紫色が無様に滲んでいた。
明らかなあどけなさを隠そうとする立ち居がどこか不自然で余計幼さを感じさせた。
「─ほれ。こんで拭きなはれ。─せやけどごっつ、若う見えるなあ、あんた。なんぼや?─」しとどに濡れた髪に眼を遣りカウンター越しにタオルを差し出しながら夫が穏やかな声を掛けた。
彼女は受け取ったタオルに眼を落としていたが暫くの間の後、
「─二十歳」伏せ目勝ちの目線を泳がせるようにしてぽつり、と応えた。
応えながら着ている中途半端なスパンコール擬きのドレスに凡(およ)そ合わない地味で燻(くす)んだ大きめのグレーのバッグから何やら封筒を取り出し、一つ席を空けて掛けていた彩音を上目遣いで一瞥(いちべつ)した後おずおずと差し出して来た。
下手くそに塗り重ねたピンクのマニキュアの人差し指の先が微かに震えているようだった。
「─履歴書やね。─何や、写真が貼ってへんし、住まいも書かれてへんちゃうん。─ほんまに二十歳か?」受け取った紙片をぺらぺらと宙に泳がせるようにしながら、粗(あら)の目立つ化粧顔をしげしげ見回した。
店内に低く流れている有線のジャズに混じって時折、激しさを増す風雨がカタカタと旧い建て付けの木製のドアを揺らしていた。
「─もう、ええです」彩音が細いメントールの煙草を咥え掛けた時、静寂に耐えかねたように麻耶が言い席を立とうとした。
「─何や、えらい不躾(ぶしつけ)な子ぉやなあ─」思わずそう声を立てた時同時に、
「行き先は、あるんか?─」穏やかな表情を崩さずに夫が言葉を被せた。
顔色なく彼女が見返すと、
「─ええんで、─ここにおっても─」そう言葉を重ね、彩音を見て小さく頷(うなず)き少しの間の後、
「困っとんのやろ─?しばらく、ここにおったらええ─」笑みを浮かべもう一度そう繰り返した。
動きを止めた少女の顔が途端に歪むと、次の瞬間その円らな瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
内縁の状態ではあるが彩音が同じ屋根の下で暮らし始め間もない頃の出来事だった。
夫の経営する店は繁華街からは少し外れているが、洋酒日本酒を問わず品揃えが豊富で幅広い層の客に人気があった。
若い頃からバーテンに憧れ、バースプーンの扱いから修行を重ねて来た夫を慕って訪れる遠方からの客も珍しくなく、全国のバーテンが集まってオリジナルのカクテルを競う大会で優勝しメディアでも取り上げられた事から酒にステイタスを求める人種やうるさ型のスノッブも集う。
数年前の師走、彩音は初めて来店した。
相手の浮気が元で破談になってしまった結婚に希望を絶たれ半ば自暴自棄に陥っていた時だった。
覚束ぬ足取りで入って来た彩音をカウンターの一番端の席にそっと案内してくれたのが出逢いだった。
「─考え事する、特別な席や」マスターは静かにそう言ってコースターを敷き綺麗に磨かれたタンブラーに冷たい水を注いで笑みを浮かべ、
「─なんぞ用があったら、呼んでや─」そう言い置くと隅にあったポインセチアの鉢植えを丁度彩音の顔が隠れる様に静かに移動して置いた後、カウンターの中央に戻って行った。
ゆらゆらと店内に装飾された照明のレモン色が蠢(うごめい)ているグラスの中を酔眼でぼんやり見つめ冷たい水を一口飲み込むと同時に涙が溢れ出て来た。
初対面の自分へのさり気ない気遣いが嬉しく温かく優しいものに触れた気がして、胸の奥深くから涙が込み上げて来た。
赤いリボンの施された鉢植えの陰に隠れて彩音は長い時間顔を伏せて泣いた。
一回り以上も歳上だが何事に於いても温厚で優しく実直な人柄に惹かれ、また夫も控え目にだが一途な彩音の恋心に応えてくれた─。
その日は早仕舞いをし麻耶を伴い帰宅した。
麻耶は一頻(ひとしき)り泣きじゃくった後、夫の淹れたコーヒーを啜るとやっと人心地ついた様子で言葉少なに事情があり身寄りのないこと、金もなく今夜の寝場所にも困り果てている窮状を吐露した。
「─なんか、当てもあらへんのや。わしらが可愛いがったろう。上手う言えへんけどな─なんでだか、縁がある─そないな気がするんや─」帰宅途中の車内で、後部席に身を横たえぐっすり寝入っているまだあどけない寝顔を時折ミラーで見ながら夫がそう言って笑っていた。
「─ええか。家族やぞ。いつもそれぞれが思い遣りながら、寄り添うて暮らしていくんや─」事ある度、諭す様に優しい口調でそう言っていた夫は三年前、麻耶が嘯(うそぶい)ていた二十歳を祝った成人の日から間も無く、病で急逝してしまった。末期の肺癌だった。
「─何言うとんねん、何のための医者やねん─!治したれや!わたしのおとんやねんぞ─大切な─大事な、人やねん─」病名を告げられ手の施しようの無いほど進行している事実を淡々と突きつけられた刹那(せつな)、麻耶は医師に向けて悲鳴に近い声で、
「─いやや─助けたって─お願いや─な─一生の─お願いや─」そう叫ぶと床に屈み込み、躰の奥深くから絞り出すような嗚咽を漏らしながら長い時間狂ったように首を振り続けていた。
本当に親近者だけで葬儀を済ませた後はただ惚けたような日々が続いた。
ふわふわと足許も頼りなく、気持ちだけが宙に浮いてるみたいでじっとしていると自然に涙が流れ出た。
やり切れぬ悲しみだけが波のように引いてはまた押し寄せる繰り返しの日常の中、麻耶は情緒不安に陥ると自身の感情の捌け口(はけぐち)をすっかりその形(なり)を潜めていた盗癖に見出すようになった。
言うまでもなく彼女にとっても夫の存在はやっと導かれた凭(もた)れることの出来得る無二の寄る辺だったのだ。
麻耶と住み始め程なく、整理しドレッサーにしまって置いたファッションリングやネックレスが次々と見当たらなくなることが続いた。
コレクションしている訳ではないが店に着ていくドレスに合わせてコーデしている物だった。
当初はどこかに紛れ込んでいるのかと然程(さほど)気にも留めずにいたがオパールのピアスが失くなったことから明らかな異状を察した。
一緒に暮らし始めた初めての誕生日に夫から贈られた物で保管用のケースごとが消えてしまっているのだった。
『─いつも、おおきに。これからもよろしゅう─』不揃いの、だが丁寧でどこかかしこまった文字が添えられていた可愛らしい花柄のメッセージカードに記されていた。
カードの花模様が可笑しく、また話し言葉のメッセージが優しい彼の声そのものみたいで嬉しく特に思い入れのある大切な品だった。
「─なあ、あんた。─実はな、ここんとこ物が失くなるのや─」ある日の夜半、ベッドから天井に点る常備灯の橙色のぼんやり見つめながら彩音が口を開いた。
明らかと思しき原因を如何にしたものか思案しあぐねた末だった。
「─なんや、宝飾品ばっかりなんやけどな─」贈られたピアスの事は思わず言い澱(よど)んだ。
こちらに向けた目線に気づきながらそう続けると少しの間の後、
「─ほうか。─分かった─」夫はそれだけ応えると身を捩(よじ)り彩音の髪を優しく撫でつけた。
「─ゴミ出し、ご苦労さんやな。わしら朝が弱いさかい、助かるで」いつもと変わらぬ遅い時間の朝食のテーブルで好物のシジミの味噌汁を美味そうに一口啜った後、夫が麻耶に向けて優しく労いの言葉を掛けた。
「─うん」屈託の無い笑顔を返す麻耶を見て夫もまた笑みを浮かべた。箸を進めながら暫くの間の後、
「─ええでな。こうして食卓を囲んで飯を食う。家族や。─三人家族や」そう言って妻と娘に交互に笑みを向けもう一度摩耶に優しい眼差しを向き合うと、
「─あのな?遠慮はいらへんねんぞ─。自分はもうわしらの娘や。何でもわしのものや思てええ。家にあるもんは、好きに使うたらええ─。せやけど、みな大切なもんや。─例えば、あーちゃんの大事な想い出が詰まってるもんもある─。気いつけて、決して失くさあらへんように、な─」そう言い今度は歯を見せて笑った。咎(とが)め立てる様子は微塵も感じられなかった。
ちらと見ると摩耶は箸を止め目を伏せたまま暫く身動(みじろ)ぎせずにいた。
その日の夕刻、店に出る前の身支度を整えている時背中に視線を感じふと振り返ると麻耶が立っていた。
件のグレーのバッグを手に下げている。
俯いた顔が色なく感じた。
「─あーちゃん。─かんにんな─。うち、病気やねん」蒼白に上げた顔に苦しげな表情を浮かべそう呟くように口を開くと、床に腰を下ろしバッグを開き緩慢な動作で盗んだ物を並べ始めた。並べながら、
「─あーちゃんの引き出し開けたら、綺麗な物がようさんあってな─気づいたら盗ってもうてるの。返さなあかん。─もう、嫌われたない。また嫌われたら、あかん─そう思ても、どっかに別なうちがおって─言うこと聞いてくれへんの─きっと、病気やねん─前から、あちこちで色んなもん盗ってきた─けど、あーちゃんのもんだけは、どないしても返さんとあかんて─」そこまで言うと感極まったのか、へなへなと背を丸め蹲(うずくま)り肩を震わせてしゃくり上げ始めた。
「─そうか。話がでけて、ほんまに良かった。─ええ子なんや。だいじょうぶや─」月の晦日を過ぎた賑やかな店内の奥にあるボックス席で客に混じり談笑している麻耶を目を細めて見つめ、夫は美味そうに煙草をくゆらせていた。
「─あんな、あーちゃん?」夫のつけた呼称を麻耶も真似るようになり久しい。
眼を上げると彼女は彩音の手許に目線を落として、
「─珍しい柄の蛇の目やったろ?あの傘」呟く様にそう言った。
ショップの責任者を前に懸命に頭を下げながら一瞥した傘の柄を思い出そうとしたのだが見当がつかなかった。
「─おとんの持っとったもんと同じやねん、あの傘─いつかの─迷子の女の子、覚えてんでね?」そう言い薄く笑みを浮かべて上げた麻耶の眼と向き合うと、その脳裏に大振りな蛇の目傘を差して佇む夫の面影がぼんやり蘇ってきた。
初夏を思わせる陽射しが落ちマンションのエレベーターの扉が開いた時、同時にハンドバッグの中で携帯が鳴り響いた。
明滅する記憶のない番号を見ると咄嗟に麻耶の顔が浮かび思わず予感に溜息を吐いた。
徐に応対すると案の定地元の警察署からだった。
「すんまへん。万引きでっしゃろか─」思わずそう言葉が出てしまっていた。
麻耶が一人でどこかに出掛けては万引きを繰り返していた頃の話だ。
見つかって捕まり咎められれば辺りを憚らずに大声で泣き叫び許しを乞い、そうしてその場その場を凌いでいた。
『─ちゃいまっせ。迷子の女の子を保護したんやてねんけどなぁ。ちょい困ったことになってまして─』何故かのんびりした口調で警官が応えた。
要領を得ない話に先に店で開店の準備をしている夫にとにかく迎えに行くと連絡を入れると警察署には自分が行くから、と言い彩音には家で待つように促した。
『─ちょい、色々話をしながら帰るさかい。今日は臨時休業や』暫くしてそう言う電話が入った後、二人が帰宅したのは夜更けに近かった。
「─おとんの傘は、ほんまに大きいなあ。二人入ってもまだあまるわ」そう言って帰って来た麻耶は笑顔で夫もいつもと変わらぬ穏やかな表情をしていた。
「─ほら。これ。山法師(やまぼうし)言うねん。おとんに買うてもろうてん」ドアを開け放ち傘を閉じ開きして雨雫を払い傘立てに置いた後、麻耶がうやうやしく鉢を差し出して来た。
「他にもようさん綺麗な花があるのにな。これがええんやと。おまえへの土産やねんと─」そう言って夫が笑った。
「─なんか、花水木に似てるわなあ」彩音がそう言うと、
「─あんな。あーちゃんに似とるわ。せやさかい、買うてもろたんや─。姿勢良く伸ばして、綺麗な白い色の花が優しそうやろ─」彼女はそう応え少しの間の後、
「─かんにんな。ほんまに。うち阿呆やさかい─迷惑ばっかりかけてしもて─」小さく呟くようにそう言い両掌を合わせ、上目遣いを向けるとはにかんだ様に笑って見せた。
「─出先でな。迷い子の女子を見つけたらしいんや─」疲れ果てたのか麻耶が寝静まった夜半、サイフォンの沸騰したフラスコにロートをセットしながら夫が口を開いた。
「─えらい混み合うた繁華街のど真ん中でな。一人、泣きながらうずくまっとったらしい。─おとんと、おかんは?どこに行ったん?近づいてそう訊いたら、分からん言うて益々大泣きはじめたらしうてな─」夫はそこで言葉を切ると緩慢な動作でシガーケースから煙草を取り出し薄い唇に咥え火を着けた。
吸付けた煙草の先から紫色の煙が立ち上るのをぼんやり眼で追うようにしながら、
「─そん時、得体の知れん恐ろしさが湧き上がってきよったらしい。トラウマやな─。─急に息が苦しなって、身体中、震えだした。─麻耶な─、覚えへんくらい小さい頃にな─そないして置いてかれたらしいわ。どっかの道端で─捨てられたんやて。実の親に─わしも、初めて知った─。息出来んくらい走ってな─探し回ったことだけ、憶えとるんやと─」ゆっくり吐き出したむらのある灰色の煙の向こうでその唇が心なし震えた様に見えた。
「─言えんわなあ、そないなこと。よう─言えんわ。─そん時んことが蘇って─抑えが効かんようになって、そん子の手ぇ握って駆けずり回って親を探し回って─知らん周りからは、きっと狂うた様に映ったに違いあらへん。─やっと親が見つかった。両親とも、両手に買い物の荷物、山ほど抱えてな。─何でもあらへん様に笑うて、ぽろぽろ泣いとる娘に向かって、待っときって言うたやろって─麻耶な、そん時地べたの砂利拾うて、投げつけたんやと─その子のおかんに向こうて─荷物やらいらへんやろっ─買い物より自分の子ぉと手繋げや、ちょっとの間でも、子どもを置いてけぼりにして、泣かしといて、どこが親やねん─そない泣き叫びながら─ほしたら砂利がなんやら眼の下に当たって、傷害罪やらなんやら言うてきよってな。腐れどもが─良う分かるように、言い聞かせてきたで─」笑みを浮かべてそう言うと沸かしたてのコーヒーをお気に入りの花柄のカップに注いで先に彩音に勧めた。
途端に広がる芳醇な香りにまた目を細めると、
「─ええ子なんや。うん─」と呟き自賛する様に何度も頷いていた。
「─あのな?帰りに、あんみつ食べさせてもろうてん。─おとんな、うちの話し、ちゃんと聞いてくれたよ。─ただの一言も詰らんといて─しまいまで、ちゃんと─。悪いのは、向こうやさかいって─。あん時な。おとん、向こうの親に言うてくれてん。─ウチの子は、悪ない。あんたらが、幼子をほっとくからあかんのや。そう言うて、一歩も引かんと。─お宅の子を守ったんや。わしは、ウチの子を守る。裁判でも何でもしたらええ。けどな、命がけで来なさいよ。わしも─ウチの子のためやったら、命がけで受けたるさかいって─。嬉しかった─。ずっと─どこにも、ほんまの味方なんておらんやった─。だあれも、─いつも、うちが悪もんにされた─。あんみつ─美味いか?って。─優しう笑うて─。美味しかった─。─あないに美味しいあんみつ、はじめてやった─」麻耶は潤んだ声でそう言うと不意に顔を歪めそのまま俯けた。
小さく肩を震わせながら暫くの間の後、
「─いつやったか、店の客がわざやら間違えてかおとんの傘、持って帰ったやん?─とうとう返ってこうへんかった─あの傘な、ただの一度だけやったけどな─おとんと一緒に入った傘やねん─。大振りの蛇の目─。今度だけは、ほんまに買うつもりでいたんや。─ほんまに─せやけど、─気づいたら盗ってもうてたの─かんにんや─ほんまに─ほんまに、─ごめんなさい─」時折声を詰まらせそう詫びる姿が俄かに不憫でならなかった。
カフェを出ると少しだけ風が吹いていたがすっかり照らし尽くされた舗道のアスファルトの熱気を孕(はら)んでいて空調で乾き冷えた肌にねっとり絡みついてくる様だった。
昼の陽射しを惜しむのか蝉の啼き声が一層疎(うと)ましく耳についた。
道すがら、麻耶が彩音の掌に触れて来た。
その指先の温もりを感じた時不意に愛おしさが衝き上げて来、
「─何や。身内はな─家族は、おとんだけちゃうやろ?うちだって、いてるんやで─」思わず上擦った声でやっとそう言い向き合うと衝動を抑え切れず、彩音はその胸に麻耶をぎゅっと抱き寄せていた。
洛陽は思うよりも早く、身支度を済ませて店に向かう頃にはわざとグラデーションを意識した様な照り返しが遠景に向けて美しいコントラストを描いている。
店も主の拘(こだわ)りからは外れ半ばスナック然となってしまったが、別な常客も増え経営も漸く軌道に戻り始めていた。
「─昨夜も帰って来うへんやった─」一向に繋がらない携帯の呼び出し音をもどかしい思いで聞きながら彩音はそう呟くと思わず大きく溜め息を吐いた。
気持ちが落ち着いたのか度重ねていた奇行も無くなった麻耶だったが、今度は連絡もせず外泊を重ねるようになていた。
店にいる間も暇さえあれば仕切りにスマホをいじっていて接客も上の空になることがある。
帰宅して夜半にも関わず自室から愉しげな声が漏れ聞こえて来、どうやらそれが相手らしかった。
恋愛は自由だしまた外泊自体を見咎めるつもりも毛頭ないのだが、親代りを自負している彩音が素性さえ知らぬ相手と、ただ求められるままの関係に盲目に溺れているのではないのかが懸念だった。
「─おなごはな。いつだって、受け身なんよ?ほんまに好きな相手ならええけど、悪戯にそんなん重ねとったら、えらい傷つくのは間違いのうあんたの方やで─」見兼ねたあまりのそんな進言を彼女は意に介しているのだろうか─。
無垢な笑みを浮かべ浮かれているように見える彼女が心配で仕方なかった。
「─なんや、体調が良うないねん─」そう言って彼女が寝込んだのは年が明けて程なくのことだった。
「─師走はせわしなかったさかい。だいぶ無理させたさかいね。ちょいゆっくり休んでな。後はうちらで何とでもなるさかい─」そう労りの言葉をかけると、
「─おおきに」麻耶はベッドの中から小さく掌を合わせて見せた。
だが体調は中々回復せず、異状に気づいたのはそれから三日後の昼近くのことだった。
食欲もないと言う病状を気遣い、彼女が好物の鯖を焼き粥と一緒にベッドの脇のワゴンに置くと漸く半身を起こし箸を取った。
「─なあ、一度病院行った方がええんちゃうか─?」そう勧め、
「─いややわ。医者は好かん」素っ気なく麻耶がそう応えながら焼き身を摘んで口にした次の瞬間、突如嘔吐(えず)いたのだ。
慌ててトイレに駆け込み苦しげに嘔吐している様子を見た瞬間、彩音はある予感に眉を顰めた。
「──相手は、ほんまにちゃんとした人なんか─」そう尋きながら不安だった。
少し間を置くと麻耶はかしこまった風に彩音に向き合い出逢いからの話を訥々(とつとつ)と語り始めた。馴れ初めはSNSの出会い系サイトで何度かLINEで話をした後直接会い交際を始めて四月ほどになると言う。
IT関連の会社を経営している男で自身もFXや株式で利益を上げているのだと話し、
「うちもな、投資の仕方教えてもらうんや。それこそ儲けたら、あーちゃんにも何ぞええもん買うたるさかいな」そう言い満面の笑みを浮かべた。
「─そしたら、今後をきちんと話さなならんことやし、うちが会うさかい段取りしてや─」心掛けて穏やかにそう言いながら浮かび上がる良くない予感を懸命に打ち消していた。辛酸を舐めつくし一夜の戯れ言を愉しむ偽りの世界を見つめて来た経験が、安直で氾濫している甘美な誘惑を先ず直感で疑うようになって久しい。
父と慕う拠り所を失くし愛に飢え求め彷徨うまだ毒牙を知らぬ彼女にとって、目的が何であれ唐突に差し出されたであろう優しさがどれ程魅惑のあるものだったか─。
どうか、それが本物であって彼女にとって本当の寄る辺になって欲しい─。
万が一にでもこれまで目の当たりにしてきた数多(あまた)の穢れ切った欲情の果ての哀しく愚かしい結末にだけはなりませんように─。
胸の内にそう願いながら邪気なく頷き、本当に嬉しげに戯れる様に幾度も妊娠検査薬の中央にくっきり記された赤紫色の線を見返している摩耶を見つめていた。
その週末の昼近く上機嫌で出かけた彼女とやっと連絡がついたのは既に日付が変わった夜半過ぎのことだった。
先方の都合に合わせるから日時と場所を決めて来るように申しつけていた。
「─あんな、何しとんねん─。ちゃんと話せたんか─?」月末の土曜の夜の酔い客で賑わう店外に出てそう訊いてみたのだが返答がなく、無音の間を縫うように麻耶は声を忍ばせて泣いている様だった。
ただならぬ様子に執拗に居場所を問いただすと、やっと自宅マンションの近くにある公園にいると返答があった。
「─あーちゃんの言う通りやった─」顔を俯けゆっくりブランコを漕ぎながら声を震わせ麻耶が呟いた。
いつも待ち合わせにしている駅前のカフェで男を待ったのだが時間をだいぶ過ぎても現れない。
初めは仕事か何かで遅れているのかと気にも留めなかったが何度か入れたLINEも既読にもならず不安に駆られ連絡してみると長い呼び出しの後、漸く繋がったのだが、
『─もう、会えんねや─。かんにんな─』いきなりそう言われたのだと言う。
既に伝えていた懐妊を確かめる様にもう一度告げると男は自分は既婚者で子どももいると言う事実を初めて明かしたのだと言う。
「─遊びやったん─?赤ちゃん、どないすんねん─そない訊いたらな─、─お前かて楽しんだやろ─避妊せんでええ言うたんは、お前やないか─俺に、みなを押しつけんなや─って─」麻耶はそこで言葉を切ると彩音を見上げ、
「─ずうっと、─ずうっとな─憧れとってん。─家族に─。血の繋がった─家族が─欲しうて、─あかんかったん─?なあ、あーちゃん─?みな、─みな持っとるやないか─出来損ないやからか?うちが─出来損ないやから─せやから、─せやから、そないなこと─望んだら、─望んでも─あかんかったん─?」闇の中で白色の街灯に照らされた泣き腫らしたその眼からまた大粒の涙を流しながら麻耶が言った。
あまりにも哀しく、やり切れないくらい切ないその問い掛けにただ懸命にかけてやるべき言葉を探しながら彩音は目の前で震えている小さな肩を抱きしめることしか出来なかった。抱きしめながら、
『─今まで、せんど傷つけられてきてん。守ったってな。頼んだで』喘ぐ息の下、そう遺した夫の言葉が胸に去来した。
「─うちが、うちが守ってやるさかいな─必ず、─必ずや─」胸が詰まる思いでやっとそう言い華奢(きゃしゃ)な身体を更に引き寄せると少しの間の後、
「─ええかいな─。うち、産みたい─」彩音の細い腕の中で麻耶が確かにそう呟いた。
以下、後編へ─