
SNSのテキストにイライラする人はツァラトゥストラ辺りの何言ってるのかわからない系の本を読むといい
最近、SNSのテキストにイラッとするタイミングが増えてきている。
そんな短絡的な考えは無いんじゃないのか。とか流石にそれは繊細すぎるし、そこに尊厳を傷つけられるというリアクションは過剰では。とか、そういう雰囲気の事を考える。
僕はそういう時に、何言ってるんだかわかんない系(哲学)の本を読むことにしている。
せっかくなのでツァラトゥストラを引用してみよう。
君たちのなかで一番最も賢い者も、植物と幽霊が裂けて混じり合ったものにすぎない。だからといって俺は君たちに、幽霊や植物になれと命令するだろうか?いや、君たちには超人のことを教えてやろう!超人とは、この地上の意味のことだ。君たちの意思は、つぎのように言うべきだ。超人よ、この地上であれ、と!
う~ん。もう読みづらい。こんな感じのテキストがずっと続くので、毎回読もうとはするが毎日読めるワケもなく、ツイッターへとまた逆戻りしてしまう。
しかしそんな中で気づいた事がある。ツイッターの文章はヘイトだろうが悪口だろうが、物申すだろうが、全てのテキストが読者目線において至れり尽くせりだという事である。
色んな汚いテキストは見る。けれど、そのテキストのどれもが読者がどう感じるかという事に対する意識についてはちゃんと向いている。
これがハイデガーやニーチェの本だとそうではないのだ。俺のランゲージで話させてもらうし、読者目線で俺がランゲージ変えたら俺の知性が伝わらないからお前らが俺のランゲージを翻訳しろよと言ってくるタイプの本が哲学系にはいっぱいある。
自分のランゲージでしか書かれていないテキストを見て「なんだよ!お前のランゲージで話すなよ!」と、嫌な感じになった所でツイッターを見る。至れり尽くせりな読者目線のテキストに感動する。またツイッターが嫌になったら哲学書に戻る。これは哲学系の本を読破する上でガチ目にオススメできる方法だと思ったりしている。
ツイッターのテキストに本質的に嫌になった人はツァラトゥストラを読んでみると良い。
後はル・ボンの群集心理なんかもオススメである。これもまたわかる・・・?いや・・・わからない・・・かもです・・・?みたいな感じのテキストがずっと続く。
つまり僕が言いたいのはテキストはテレビゲームみたいなモノで、ツイッターはベリーイージーだという事。ベリーイージーは退屈で同じ攻撃を繰り返すだけでこなせる。だからこそ、ハイデガーなりル・ボンなりニーチェなりのテキストのベリーハードを一度体感した方が良いと思うのである。
ベリーハードでボロボロになってゲームオーバーという積読を繰り返せば、自分の世界に対するわかってる感という奢りも打ち崩せる。テキストには実は難易度がある。ベリーハードを一度君も体感してヘロヘロになろう!っていう話でした。
いいなと思ったら応援しよう!
