モヤモヤさまぁ~ず2のシーズン1という残酷なタイムマシン
最近、モヤモヤさまぁ~ず2のシーズン1を見ている。
けれど、僕はモヤモヤさまぁ~ず2のシーズン1を見るとどうしても胸が苦しくなる。
モヤモヤさまぁ~ず2はとっても大好きなテレビ番組だが、僕はどうしてもここに残酷なタイムマシン性を見出して胸が苦しくなる。
モヤモヤさまぁ~ず2で紹介される店の店長は非常にシニアな老人の割合が多い。
これがまた80歳や83歳だったりするのだ。
モヤモヤさまぁ~ずの放映は2006年。つまり・・・まぁわかるワケである。だいたいもう亡くなっていると。
そこで僕はいたたまれない程胸が苦しくなってしまう。
眼の前には楽しそうに大竹と三村と受け答えをする老人が映る。けれど今は・・・もうこの世の中にはいない。
つまり画面の中では生きている。でも現実世界では死んでいる。
三村や大竹のボケに笑う80歳の店長が番組の中で「生きている」という話になればなるほど「でも、もう死んでいる」という確固たる現実が自分に襲いかかっていくる。
死んでいるのに、映像の中では生きているという話になっている。ずっと。永遠に。それが怖い。現実を映し出しているのにもう死んでいる人間が生きているという矛盾がそこにある。だがそこに対する指摘は無くずっと、その人はモヤモヤさまぁ~ず2の中では生きたままなのだ。
初代ワイルドスピードの残酷さにも似ていると思う。
ポール・ウォーカーはもう死んでいる。けれど、初代ワイルドスピードの中は生きているという話にずっとなっている。
モニターに映りイキイキとしている人間が映れば映る程、そこに映る人間が実際には死んでいるという残酷さが逆に引き立ってしまう。
映像の中では生きているという事にできる。でも、現実に生きているという話にはならない。ここに映像データの残酷さがあると思う。
僕は死ぬのが怖いけど、特に最近見ていて「死」を強く認識したのがモヤモヤさまぁ~ず2のシーズン1だった。
死んだ人間を生きた人間にしてしまう残酷なタイムマシン性が、モヤモヤさまぁ~ず2にはあると思う。
のでみんなもU-NEXTで見て下さい。よろしくお願いします。