見出し画像

ツイッターの「善意が有効である」という神話の終わり

今日は暗い話になる。

僕はここ最近のツイッター。いや、Xではない。誰がなんと言おうとこれはツイッターであり、Xなんぞでは無いのである。

ツイッターは長いSNSの歴史の中で試されていたと思う。

それは人間の善意が有効である状況が続くか。という思考実験だった。

結局の所として、ツイッターは悪意で儲けるか、善意で小さな利益で平和を作るか。この2択が試されていた。

確かに試されていた。私達は善意を選択するか、悪意を選択するか。それをイーロンは確かに私達に試していた。

イーロンは私達の心をざわつかせる事にかけては天才だと思う。彼は人間のモラルの突かれて痛い所をよく心得ている。人間の心の中の倫理道徳がいかにして刺激され、私達の胸をざわつかせるか。それをよく理解している人だった。

Xの改名。AI。インプレゾンビ。全てが議論をもたらすものであり、人がインターネットを使う上で指摘されると痛い所を理解する。そして彼はずっと私達ユーザーの痛い所を突いてきた。

どうだろう。私はある種の善意の敗北を感じていた。

私にとって社会の勝利とは、善意が有効であるという確かな感覚を皆が持っている事である。

そこに利益があるとか、経済の質がどうだの、ユーザー数など関係ない。私は善意の有効性が集団の中で作用する事を勝利と定義する。

そういう意味では、ツイッターは滅んではいないがとっくに負けている。と私は思う。善意が有効であると信じながらSNSをやっている人間はごく少数だ。今でも善意が有効である書き込みを続けている人間は凄い。気高い戦士として尊敬に値する。

人をビックリさせる動画を流して、人間の心をざわつかせ、数字は手に入った。・・・が、そのざわついた人の心は取り残されたまま。その現状に、私はどうしても我慢ならなかった。

とはいえ、私はこの状況にある種期待もしている。

SNSが滅んでも、テキストを求める人の心は変わらない。

テキストを求めた人間の行く先がSNSで無くなる、テキストを入手する場所がSNSでは無くなる時代が来るんじゃないかと考えている。

隕石が落ちて恐竜が絶滅した後人間がフワッと出てきた感じで、テキストを求める場所がSNSでは無くなる。そういう時に色んな場所にテキストが分散する。

いずれにしても、何かが変わる時期だと思うのである。

そのためにテキストに投資したい。そういう思いでこの場所でテキストを書いている所もある。

ツイッターが無くなっても、僕はnoteとDLチャンネルにいるので、そこの所を色々よろしくお願いします。

余裕があればサポートをしてくれるとありがたいです