御言葉に立つという当然のこと
"私のたましいが私のうちで衰え果てたとき、私は主を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。
空しい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨て去ります。
しかし私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえを献げ、私の誓いを果たします。救いは主のものです。」"
ヨナ書 2章7~9節
"そのとき、律法学者、パリサイ人のうちの何人かがイエスに「先生、あなたからしるしを見せていただきたい」と言った。
しかし、イエスは答えられた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし預言者ヨナのしるしは別です。
ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。
ニネベの人々が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし見なさい。ここにヨナにまさるものがあります。
南の女王が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし見なさい。ここにソロモンにまさるものがあります。
汚れた霊は人から出て行くと、水のない地をさまよって休み場を探します。でも見つからず、
『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。帰って見ると、家は空いていて、掃除されてきちんと片付いています。
そこで出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は初めよりも悪くなるのです。この悪い時代にも、そのようなことが起こります。」
イエスがまだ群衆に話しておられるとき、見よ、イエスの母と兄弟たちがイエスに話をしようとして、外に立っていた。
ある人がイエスに「ご覧ください。母上と兄弟方が、お話ししようと外に立っておられます」と言った。
イエスはそう言っている人に答えて、「わたしの母とはだれでしょうか。わたしの兄弟たちとはだれでしょうか」と言われた。
それから、イエスは弟子たちの方に手を伸ばして言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。
だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」"
マタイの福音書 12章38~50節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
今日の小坂田先生のメッセージ。
⒈しるしを求める不健全な時代
当時の律法学者、パリサイ人は、新進気鋭のイエス様に、証拠見せろしるし見せろ、とわめいた。そんな彼らに、ヨナのしるし(魚に飲み込まれて{死}吐き出されて{よみがえった})以外のしるしは与えられないと告げるイエス様。
僕も、しるし、現象ではないが、本当に神様を信じている者としての行動を見せろ、秩序、ルールを構築せよ、と、自分以外の他の人に言う嫌いがある。
きっとこの箇所は、それよりも先によくよく注意して見て、解釈しないといけないヨナのしるしに、むしろここを極めなさいとイエス様はおっしゃったんだとおもう。でないとこれから来る大きなしるし、(大空が真っ暗になる、至聖所の幕が裂けるみたいな現象も)信じられないものとなるから。多分イエス様の言った通りに、十字架後も結構な数のユダヤ人は信じられなかった様子。(使徒の働き参照)
しるし、現象ではなく、やはり御言葉。みことば、にどれほど立てるか、どれほど正しい解釈で受け取れるかがクリスチャンとしては勝負になるんだと思う。御言葉も、勝手な解釈をすると絶対恵まれない。どころか毒ともなりうる。信仰者の偽善ほど、醜く醜悪なものはない。人に行動や、システムの改正を、求める前に、やることはあるということだ。
#お祈り
#デボーション
#礼拝説教を一週間咀嚼するということ
⒉霊の空家
イエス様の例え話。
悪霊を追い出していただいた人も、特に聖霊とかが住まわってない空き家状態だと、居場所求めてウロついてた悪霊戻ってきて、「マァきれいなお部屋!お友達も呼びましょう。」となって以前よりも悪い状態になる。
これも、イエス様は唐突に話した例え話ではなくて、1番と繋がりがある。
要は、御言葉に立つということ。みことばをこそ、言葉となり霊となって降ってこられたお方をこそ、それこそ聖霊様が満ち満ちている状態でないと、初めの状態よりタチの悪い状態になるよという中々僕たちにはチャレンジングな例え話。
聖霊様は、僕たちが「棄てる」と決めなければ、いなくなることはないお方だ。(ヘブル13:5b)
ただ、その聖霊様が満ちているかどうかは、僕たちが聖霊に満ちてくださいとどれほど自分自身を御霊に明け渡しているかによる。どこまでも謙遜な霊である御霊は、無理矢理満ち満ちたりしない。僕たちが運転席にドーンと座っているのを無理矢理下ろして満ち満ちさせることはない。いつまでも待っておられるどこまでも紳士な霊だ。
御霊に明け渡すってどういうこと?
自分に死ぬということだ。
砕かれた心、悔いた霊。握っている思いや願望、こうしたい、あーしたい、こーなればいいあーなればいいという思いにどれほど死んで、神がそのこと或いはもっと良いことをしてくださる、自分はそれ信じて祈って委ねていくことが、聖霊様に対してできる最大限なのだと思えるかどうか。自分で考えて、これが御霊に明け渡すことだなと思える「行動」を持って示せるか。行動を起こす前から、祈る前から、御霊が満ちてくださっていたと、きっと明日の俺は主を誇るだろうぜ。
⒊イエス様の家族関係
話は変わってイエスの家族関係。
イエス様がお弟子さんや近所の人たちとお交わりしていた時に、
「お母さんとご兄弟方がお見えになりましたよ〜」との声が。その時のイエス様の反応と言葉がコレ。
_人人人人人人人人人人人人人人_
> わたしの母とはだれですか <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄
お母さんと兄弟達からしたら気ぃ悪いよね。
うん、これは、イエス様だからできる行為かも。真似するのはオススメしないね。
ただ、このことを通してイエス様が伝えたかったのは、
御心を行なう人がわたしの母であり、兄弟なのです。
「御心を行なう人」こそ、主の家族である、逆に言うなら、
主の家族になったものは、御心を行なうものなんだよ、そういうものなんだよと言っているのだと思う。
では御心ってなんだろうか。
聖書に書いてあるが、より具体的なこととして、
「当たり前のことを徹底的にやること、誰にでもできることを誰よりもやること」
御心を行ないたいと願う人が最初に取り組めばいい御心だと思う。
・礼拝に、遅れないでくる。
・セルの交わりに参加する。
・什一献金する。
・奉仕をする
・祈り会に来る
etc
御心は自分で考えたらよくわかるくらい、ハッキリ示されている。
それでも御言葉から離れたら全部の的を外すから、聖書を読むという当たり前のこと、大切にしていきたいですね。
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